第016話 |銀墓銘《アージェント・エピタフ》
「よく喋るな」
その一言のあと、広場の音が薄くなった。
セルドは剣を握り直す。
白い手袋の中で、指が汗ばんでいた。式典用の剣は軽い。軽すぎる。飾りの金具が手の中で小さく鳴り、民衆の前に立つための道具でしかないことを、今さら思い知らせてくる。
「黙れ」
セルドは踏み出した。
「新勇者の剣を受けろ!」
白い刃が振り下ろされる。
黒銀は避けなかった。
右手を上げる。
剣も持たないその手の中で、黒い火が細く固まった。
刃と黒炎が触れる。
甲高い音が、広場に鳴った。
セルドの剣が、半ばから折れた。
折れた刃は回転しながら飛び、壇の端に突き刺さる。白い布を留めていた金具が外れ、布が一枚、だらりと垂れた。
民衆が息を呑む。
セルドは折れた剣を見た。
「剣を替えろ!」
叫ぶ。
兵が予備の剣を投げる。
黒い火がその間を走った。
剣はセルドの手に届く前に、柄と刃に分かれて石畳へ落ちた。
黒銀が一歩、近づく。
セルドは後ろへ下がった。
下がった足が、壇の飾り紐を踏む。金の紐が切れ、胸の勲章が揺れた。
「取り囲め!」
兵たちが動く。
槍が何本も黒銀へ向けられる。
黒銀の足元から黒炎が広がった。
民衆へは行かない。
槍の穂先だけを舐め、柄の金具だけを黒く砕く。兵の手は焼かれない。ただ、武器が一斉に重さを失い、床へ落ちた。
黒銀は目も向けない。
標的は、一人だけだった。
壇の横で、神官が白い札を掲げる。
「新勇者様へ祝福を!」
札から薄い光が伸び、セルドの折れた剣の柄へ絡みついた。
柄の先に、白い刃の形だけが浮かぶ。
本物の刃ではない。
式典のために用意された、見せるための祝福だった。
セルドはそれに飛びついた。
「見たか、怪物。神殿の祝福は俺にある」
黒銀の目が、初めて神官の札へ向く。
右手が振られた。
銀の線が、札の中央を抜ける。
白い光は悲鳴のような音を立てて割れ、セルドの手元で刃の形を失った。神官は札を取り落とし、自分の指が無事なことに気づいて座り込む。
セルドの手には、また柄だけが残った。
セルドの喉が鳴る。
「民よ、見ていろ! この怪物は、魔王の残滓だ。人の名すら持たぬ、ただの――」
黒銀の手が動いた。
セルドの胸で、勲章が弾けた。
金の円盤が石畳を跳ね、民衆の前で転がる。
からん。
音は小さいのに、広場中に聞こえた。
セルドの言葉が止まる。
黒銀はさらに踏み込む。
白い外套に、黒い火の粉が落ちた。
セルドは反射で払おうとした。
その瞬間、外套の肩から裾まで、一本の細い線が走る。
銀。
黒い炎の奥に、一瞬だけ残った冷たい光。
遅れて、白い外套が裂けた。
民衆の誰かが、震えた声を漏らす。
「新勇者様が……」
セルドはそれを聞いた。
聞きたくなかった。
歓声が欲しかった。
怖れる声ではなく、名を呼ぶ声が欲しかった。
あの声が、ずっと欲しかった。
魔王城の戦いのあと、負傷した兵たちが呼んでいた名はロアンだった。
勝利の報が王都へ届いた時も、民はロアンを待っていた。
セルドの名は、いつも報告書の端にしかなかった。
だから奪った。
空いた場所に立ったのではない。
空けられた場所を見つけて、そこへ走った。
いま、その場所から自分を引きずり下ろそうとする黒い男がいる。
許せなかった。
怖いより先に、腹の底が焼けた。
彼は折れた剣の柄を握りしめ、黒銀へ投げつける。
黒銀はそれを避けもせず、指先で弾いた。
柄が砕ける。
白い木片が散った。
欠片の一つが、セルドの靴先に当たった。
彼は反射で足を引く。
さっきまで勇者の持ち物だったものに、怯えたように。
壇の上で、その小さな後退だけが妙にはっきり見えた。
前に出るための式典で、セルドだけが一歩ずつ下がっていく。
「貴様は、何だ」
セルドの声は、もう英雄のものではなかった。
黒銀は、右手を低く下ろした。
黒炎が集まる。
壇の上に落ちた影が、墓標のように伸びた。
その黒の中心に、銀が一本だけ立つ。
細く。
鋭く。
真っ直ぐに。
セルドの背中に、冷たい汗が落ちた。
あの線だけは、見間違えようがない。
どれほど黒く変わっていても、誰の旗をまとっていても、剣が通る道だけは嘘をつかなかった。
身体が、記憶より先に怯えた。
黒銀の声が落ちた。
「銀墓銘」
銀の線が走った。
フードの奥で、イシュカラの瞳がその線を追う。
黒い炎の中で、銀だけが濁らない。
黒い墓の底に、銀の名だけが刻まれる。
逃げ道を許さない線だった。
壇の柱が斜めに裂ける。
新勇者の大旗が、剣を掲げた絵の胸から二つに割れた。
セルドの足元の石に、細い傷が入る。
深くはない。
だが、その線を見た瞬間、セルドの呼吸が止まった。
知っている。
その線を、彼は知っている。
魔王城の崩れた塔の下で。
自分が倒れ、敵の爪が喉へ届く寸前に。
黒煙の向こうから走った、銀の剣筋。
振り返らずに敵を斬り、あとから笑って「立てるか」と言った男の剣。
勇者ロアン・ノール。
セルドの握っていた剣の柄は、その時すでに地面に落ちていた。
あの時、セルドは礼を言えなかった。
悔しかったからだ。
助けられて生き残った自分の横で、兵たちはロアンへ駆け寄った。
「勇者様」と呼んだ。
セルドの名を呼ぶ者はいなかった。
その屈辱を消すために、彼は何度も自分へ言い聞かせた。
あれは偶然だ。
自分にもできた。
次は自分が前に立つ。
だが、目の前の銀の線は、言い訳を一本ずつ切っていく。
黒銀が一歩、近づく。
民衆は分からない。
彼らには、黒い怪物が新勇者を追い詰めているようにしか見えない。
だが、セルドの目には違った。
黒炎の奥。
灰のような声。
変わり果てた姿。
それでも、あの銀だけが残っている。
セルドの唇が震えた。
「その剣筋――」




