第017話 名を返せ
「その剣筋――」
セルドの声は、そこで喉に引っかかった。
言ってはいけない名が、舌の上まで上がっている。
ロアン。
勇者ロアン・ノール。
だが、その名は広場へ落ちなかった。
黒銀が一歩、近づいたからだ。
声より先に、死が近づいてくる。セルドの喉は勝手に縮み、唇だけが震えた。
民衆には、何も分からない。
彼らに見えているのは、黒い怪物を前にして新勇者が言葉を失った姿だけだった。
「まさか」
セルドは後ずさる。
裂けた白い外套が足に絡んだ。胸から落ちた勲章は、石畳の上で泥と灰にまみれている。
「お前は、あの時――」
黒銀は名乗らない。
取り戻すために来たのではない。
その名を飾った旗ごと殺すために来た。
セルドの視線が、黒銀の横へ逃げた。
そこに、煤けたフードの少女が立っている。
小さな身体。
細い指。
風が、フードの縁を少しだけ持ち上げた。
顔は見えない。
だが、その瞳だけは見えた。
黒い王座の底から見下ろすような、古い魔の色。
そして、その奥に一瞬だけ、泣きそうな少女の影が混ざる。
セルドは息を呑んだ。
「その目……あの城で……いや、お前、壇にいた――」
その言葉も、最後までは続かなかった。
イシュカラが一歩前へ出る。
少女の足音は小さい。
だが、広場のすべての旗が、その音に合わせて揺れた。
「借り物で飾った名は、よく鳴るな」
声は低い。
少女の喉から落ちているのに、広場の石まで冷えるような声だった。
セルドが剣のない手を上げる。
「待て。俺は、王に命じられただけだ。神殿が決めた。民も新しい勇者を望んだ。俺だけじゃない。俺だけが悪いわけじゃ――」
イシュカラの瞳が細くなる。
フードの影で、少女の喉が小さく鳴った。
黒い王冠の欠けた輪が、足元に半分だけ開く。
それだけで、広場に張られた祝福札が一斉に震えた。
「――名は影に宿らず」
祝福札の白い文字が、ひとつずつ滲む。
「――冠なき者、銘を帯びるな」
セルドの白い外套の裾が、糸を抜かれたようにほどけた。
「――借り受けし響きは、主の喉へ還れ」
黒い王冠の欠けた輪が、式典用の羊皮紙へ沈む。
古い魔王文字が、滲んだ名の上で術式名を組んだ。
簒名返令。
『名を返せ』
命令だった。
叫びではない。
祈りでもない。
声は広場を壊さないように絞られていた。
もし魔王本来の喉から落ちていたなら、偽の名だけでは済まなかった。
ただ、その一言で、広場の空気が裏返った。
世界から名を消す命令ではない。
セルドに貼りついていた勇者らしさだけが、命令に耐えられずほどけていく。
セルドの背後に残っていた白い祝福の光が、ひび割れる。
新勇者の旗から、金の糸が一本ずつ抜けた。剣を掲げた絵の顔が崩れ、布の上で形を失っていく。
式典係が抱えていた羊皮紙も震えた。
そこに書かれたセルドの名だけが、雨に濡れた墨のように滲んでいく。
新勇者。
英雄。
魔王討伐の剣。
整えられていた言葉が、紙の上でばらばらにほどけた。
誰かが拾おうとしたが、指が触れる前に文字は薄くなった。
残ったのは、ただの白い紙だった。
壇の周りでセルドの名を唱えるはずだった聖歌隊の子どもたちは、口を開けたまま声を失っている。覚えさせられた歌詞の最初の音が、喉の奥で消えた。
民衆がざわめく。
「旗が」
「何が起きている」
「祝福が消えていく」
彼らは意味を知らない。
ただ、セルドを讃えるために掲げられたものが、音もなく剥がれていくのを見ていた。
セルドの胸元に残っていた最後の小さな聖印が、糸を切られて落ちた。
からん、と鳴る。
その音で、セルドの膝が折れた。
「やめろ」
セルドは地面に片手をつく。
「俺の名だ」
黒銀が近づく。
「俺が、俺が勇者だ。民がそう呼んだ。王も認めた。神殿も、聖女も、皆が――」
「盗んだ名だ」
黒銀の声が落ちた。
短い言葉だった。
それだけで、セルドの口が止まる。
「返せ」
セルドは顔を上げた。
恐怖で濡れた目が、黒銀の胸の黒い印を見る。
「返す」
声が裏返った。
「返すから、殺すな。俺は勇者じゃなくていい。だから、俺だけは――」
黒銀の剣筋は、セルドの首の高さから下がらない。
答えがないことを、セルドはすぐ理解した。
理解しても、口は止まらない。
命乞いとはそういうものだった。
誇りや理屈より先に、舌だけが生き残ろうとする。
セルドは言葉を続ける。続けなければ、死がすぐそこにある。
「俺は従っただけだ。お前だって分かるだろう。王に逆らえる者なんていない。妹まで壇に上げたのは神殿だ。俺じゃない。俺は、王に言われた通りに――民も拍手した。俺は、ただ、空いた場所に立っただけだ」
黒銀の足が止まった。
セルドはそれを希望と見た。
「なあ、ロ――」
黒い火が、セルドの口元をかすめた。
名は、広場に届かなかった。
セルドの唇の端から血が一筋落ちる。
黒銀の目は、少しも揺れていない。
「許す理由がない」
セルドの顔が歪んだ。
「俺は勇者だ」
かすれた声で、まだ言う。
「俺が、勇者でなければ、何も残らない」
「残らなくていい」
セルドの目が、黒銀の横へ逃げる。
フードの奥から、イシュカラが見下ろしていた。
魔王城で見た瞳。
その奥に、浄化壇で白く消えた少女の面影が揺れていた。
自分が奪ったものの全部が、別の形で目の前に戻ってきている。
セルドは逃げようとした。
膝が滑る。
白い壇の布を掴む。
布は破れ、手の中に白い切れ端だけが残った。
その切れ端には、金の糸で小さく剣が縫われていた。
セルドはそれを握りしめる。
まだ離さない。
離せない。
死ぬ瞬間まで、何か勇者らしいものを掴んでいたかった。
黒銀の手が動いた。
銀の線が、首の高さを通った。
「ま、待――」
許しを求める顔のまま、セルドの首が白い壇を転がった。
口はまだ、言い訳の形に開いていた。
身体は二歩遅れて崩れた。
白い外套に、赤が広がる。
黒銀の頬にも、返り血が散った。
拭わない。
破れた布の切れ端が、血を吸って重くなる。
握っていた指から力が抜け、金糸の剣は赤い染みの中で見えなくなった。
王国の鐘が一つ鳴った。
凱旋を祝うための鐘だった。
だが、鳴り終わる前に、誰も次の声を重ねられなくなった。
新勇者の旗の下で、偽の勇者は倒れた。
しばらく、誰も動かなかった。
泣く声もない。
叫ぶ声もない。
セルドの名を呼んでいた民衆は、目の前で何が終わったのか理解できないまま、口だけを開けていた。
黒銀は倒れた男を見下ろす。
イシュカラは、その横で破れた旗を見上げている。
旗に描かれていた剣は、もう形を失っていた。
王都広場から、歓声が消えた。




