第018話 白い祈りの女
王都広場から歓声が消えた頃、神殿の奥では祈りの鐘が鳴っていた。
高く、澄んだ音だった。
石壁も、白い柱も、天井に描かれた翼も、その音だけを信じているように静かだった。
聖女イヴェナ・レイスは礼拝堂の中央に膝をついている。
白い法衣。
白いヴェール。
白い指。
手の中には銀の祈り輪があった。
輪に刻まれた小さな聖印を、彼女は何度も親指でなぞる。爪の先が当たるたび、かち、かち、と乾いた音がした。
「聖女様」
背後で若い神官が息を切らした。
礼拝堂へ駆け込むには、あまりにも汚れた足音だった。石床に灰が落ちている。外の広場から走ってきたのだろう。
イヴェナは振り向かない。
「祈りの間です」
「新勇者様が」
神官の声が裏返った。
「セルド様が、広場で……黒い怪物に討たれました」
祈り輪が止まる。
一拍だけ。
すぐにまた、かち、と鳴った。
「怪物などと、言わないで」
イヴェナは祈り輪を握りしめた。
「魔王の穢れ。神殿では、そう扱うものです」
そう呼べば、まだ祈れる。
そう呼べば、まだ自分は間違っていない。
若い神官は言葉を失う。
彼の肩には、誰かの血がついていた。広場で押し倒された者を運んだのかもしれない。法衣の袖が破れ、肘の皮が擦れて赤くなっている。
「負傷者が多く出ています。聖女様、治癒を」
イヴェナの指が祈り輪を強く握った。
治癒。
広場へ出る。
血と灰と、倒れた偽勇者のそばへ行く。
黒い怪物の足跡を見る。
それだけは、できなかった。
「今は大祈祷を維持します」
「ですが」
「民を鎮めるには、祈りが必要です」
自分の声は、ちゃんと聖女の声をしていた。
震えていない。
泣いてもいない。
だから正しい。
イヴェナはそう思おうとした。
礼拝堂の横扉から、別の神官が入ってくる。
その手には、赤い封蝋の筒があった。
「大神官猊下より」
イヴェナは顔を上げた。
セヴラン・オドの封蝋。
二重に押された聖印。
ただの報告ではない。
神官は筒を開き、震える声で読む。
「神殿閉鎖区画の異変。黒い男、およびフードの少女、王都内へ侵入。礼拝堂結界を閉じ、聖女イヴェナ・レイスは祈祷中枢を維持せよ。外部への移動を禁ず」
フードの少女。
その言葉だけが、白い礼拝堂の中で黒く沈んだ。
神官は続きも読もうとした。
紙の下段には、別の筆跡で追記がある。
広場の遺体を急ぎ神殿へ移せ。
新勇者死亡の公式告示は、王城承認まで停止。
黒い男と少女に関する推測を、地上側記録へ残すな。
イヴェナはその一行を聞いた瞬間、指先を祈り輪へ押しつけた。
正体。
大神官は、何かを知っている。
少なくとも、ただの魔王の残滓とは見ていない。
ならば自分も、考えなければならない。
黒い男。
フードの少女。
その二つが、胸の奥で、別の名へ繋がりかけた。
イヴェナは息を止めた。
違う。
あれは終わったものだ。
終わらせたものだ。
神殿が、そう記録したものだ。
考えてはいけない。
考えれば、祈れなくなる。
イヴェナは、視線を祭壇へ戻す。
白い杯が置かれていた。
あの日、勇者ロアン・ノールへ差し出したものと同じ形の杯だ。
勝利のあとに差し出した。
彼は疑わなかった。
疲れていた。
それでも、礼を言った。
「助かった、イヴェナ」
そう言った。
名前を呼ばれた時、胸が少しだけ温かくなったことを、イヴェナは覚えている。
その温かさごと、杯を差し出した。
聖女を信じた。
イヴェナの指は、その時も震えなかった。
震えていたら、止められたかもしれない。
けれど震えなかった。
祈りの形に指を揃え、微笑み、杯を両手で差し出した。
国のため。
民のため。
王のため。
神殿が決めたこと。
私は、従っただけ。
「聖女様」
若い神官がまた言った。
「外に、子どもが。母親とはぐれた子です。礼拝堂へ入れても」
イヴェナは目を閉じる。
扉を開ければ、外の音が入る。
悲鳴。
灰。
黒い足音。
それから、もしかしたら。
死んだはずの勇者の声。
「礼拝堂は祈りの中枢です」
イヴェナは言った。
「穢れを入れてはいけません」
若い神官の喉が鳴った。
外で、小さな泣き声がした。
扉の下の隙間から、小さな指が一度だけ入ってきた。
白い石に煤がつく。
イヴェナはそれを見た。
見たのに、祈り輪を強く握り直した。
指先に、癒しの白い光が一瞬だけ灯る。
イヴェナはそれを、祈り輪の中へ握り込んで消した。
指はすぐ、誰かの手に引かれて消えた。
扉の向こうで、誰かが子どもを抱き上げる気配がある。兵か、母親か、それともただの通行人か。イヴェナは確かめなかった。
ただ、扉の内側で白い布を直し、汚れた指の跡が残っていないかだけを見た。
確かめなければ、選ばずに済む。
確かめなければ、罪にはならない。
イヴェナは祈り輪を額に当てる。
「神よ」
白い声が礼拝堂に響いた。
「どうか、王都をお守りください」
違う。
守ってほしいのは王都ではない。
自分だ。
黒い怪物から。
死んだはずの勇者から。
自分が差し出した杯の底から戻ってくる、あの静かな目から。
祈りの声が喉でかすれた。
イヴェナは慌てて息を整える。
泣けばいい。
涙なら、昔から許された。
兵が死んだ時も、村が焼けた時も、彼女が泣けば周囲は「聖女様はお優しい」と言った。
ロアンが聖杯を飲んだあとも、彼女は少しだけ泣いた。
だから大丈夫。
泣いていた私は、悪くない。
「私は」
声が小さく漏れる。
「悪くない」
祈り輪の聖印が、かすかに黒ずんだ。
イヴェナは息を呑む。
黒ずみは、すぐに消えた。
見間違いだ。
そう思おうとして、祈り輪を光にかざす。
けれど聖印の溝には、細い煤が残っていた。
聖女の手の中だけが、汚れている。
白い石床の上を、黒い火筋が一本、扉の下から伸びてきていた。
燃え広がる火ではない。
影に火の縁だけがついたような、細い火筋。
それは扉の閂へ向かい、白い鉄を静かに噛んだ。
かつん。
閂が落ちる。
礼拝堂の扉が、内側へ開いた。
黒い男が立っていた。




