第019話 あなたなら許してくれる
黒銀は、礼拝堂の中へ一歩入った。
白い石床が、黒く鳴る。
神官たちは動けなかった。
悲鳴を上げる者もいない。声を出せば、祈りの場そのものが壊れてしまうとでも思っているようだった。
イヴェナだけが、祭壇の前に立っている。
白いヴェールの下で、顔は青ざめていた。
それでも、両手は祈りの形を崩していない。
「来ないで」
最初に出た声は、聖女のものではなかった。
ただの女の声だった。
イヴェナは自分でそれに気づき、唇を噛む。すぐに息を整え、柔らかい声を作り直した。
「ここは礼拝堂です。穢れを鎮める場所です」
黒銀の足元から黒炎が伸びる。
床を這う黒い影は、神官たちの足には触れなかった。祭壇へ向かう白い布の縁だけを噛み、布を留めていた金具を砕く。
白布が落ちた。
その下から、古い傷のある石が見える。
何度も何かを洗い流した跡。
「やめて」
イヴェナの声が震えた。
「神聖な場所なのです」
「神聖」
黒銀が初めて言った。
短い声だった。
イヴェナの肩が跳ねる。
その声を、彼女は知っていた。
灰のように変わっている。
冷たく、低く、遠い。
それでも、言葉を削る前の優しさの跡だけが、どこかに残っている。
「あなたは」
イヴェナは目を見開いた。
先に首を振った。
「違う」
声が震える。
「そんなはずがない」
黒銀は名乗らない。
名乗る必要がない。
イヴェナの視線は、黒銀の胸にある黒い印へ落ちた。そこが、生きた心臓の代わりに鈍く鳴っている。
どくん。
白い礼拝堂の空気が、その音に押された。
「違う」
イヴェナは一歩下がる。
「だって、あなたは浄化されたはずです。神殿が、確かに」
黒銀は近づく。
「浄化」
「そうです。魔王の穢れを、国から取り除くために」
「妹もか」
その一言で、イヴェナの口が止まった。
礼拝堂の横で、煤けたフードの少女が足を止める。
顔は見えない。
けれど、布の奥の瞳だけが、白い祈りを見下ろしていた。
イヴェナはその少女を見ないようにした。
見れば、何かが繋がってしまう。
「私は」
イヴェナは祈り輪を握る。
「私は、決めたわけではありません。王と大神官が決めました。私は聖女として、杯を差し出しただけです」
その言い方を、彼女は何度も心の中で練習していた。
誰かに責められた時のためではない。
自分が眠れない夜のために。
王が決めた。
大神官が決めた。
私は差し出しただけ。
その三つを順番に唱えると、胸の奥のざらつきは少しだけ薄くなった。
黒銀の足が止まる。
イヴェナは、その沈黙を赦しの隙間だと思った。
「あなたなら分かってくれる」
言ってから、胸が少し軽くなった。
そうだ。
それが言いたかった。
彼はいつもそうだった。
傷ついた兵を責めない。
逃げ遅れた民を責めない。
戦えない者に剣を向けない。
だから、イヴェナも許されるはずだった。
「あなたは勇者でした」
声に涙が混ざる。
今度は自然に出た涙だった。
イヴェナは、それに縋る。
「誰より優しかった。私が泣けば、いつも困った顔をして、何も言わずに待ってくれた。だから、今回も」
黒銀は黙っている。
「仕方なかったのです」
イヴェナは早口になった。
「魔王の穢れがあなたに残ったと聞きました。王都を守るためだと。もしあなたが本当に魔王の器になったら、民が危ないと。私は、聖女として」
黒銀の目が、少しだけ細くなる。
「杯を差し出した」
「はい」
「知っていたのか」
「何を」
「俺の魔力を封じるものだと」
イヴェナの唇が震える。
答えは喉の手前まで上がった。
知らなかった、と言えばいい。
詳しくは知らなかった。
すべては聞かされていなかった。
嘘ではない。
全部を知っていたわけではないのだから。
「聖杯は、清めのためのものです」
イヴェナはそう言った。
黒銀の表情は動かない。
「質問に答えろ」
礼拝堂の空気が冷えた。
かつてのロアンなら、そんな時は目を伏せてくれた。
言いたくないことは、無理に言わせなかった。
泣きそうな相手には、先に水を差し出した。
その優しさを、イヴェナは知っている。
知っていたから、利用した。
その事実だけは、祈りの言葉で包んでも形を変えなかった。
黒炎が祭壇の周囲を薄く囲んだ。
神官たちの足元には届かない。
けれど、白い床に刻まれた祈りの溝だけを黒く塞いでいく。
礼拝堂の音が遠くなった。
祭壇の内側の声も、外へ出なくなる。
神官の一人が膝をつく。祈るためではない。自分の声が、自分の耳へ戻らなくなったからだった。
イヴェナは目を伏せる。
「知っていました」
小さな声だった。
「でも、あなたを殺すためではありません。封じるだけだと聞いていました。少しの間だけ、王都のために、民のために」
「そのあと、妹が連れて行かれた」
イヴェナの指が祈り輪へ食い込む。
「それは」
「止めたのか」
イヴェナは答えない。
白い祈り輪の聖印が、手の中で軋んだ。
止めようとは思った。
本当に、思った。
リネアが泣いているのを見た時。
リネアが兄へ手を伸ばしたのも、見ていた。
でも、自分が動けば儀式が乱れる。
そう思って、祈りの形に指を戻した。
ロアンが声を奪われたまま暴れているのを見た時。
胸が痛かった。
涙も出た。
けれど、足は動かなかった。
手は祈りの形に戻った。
「私は弱かったのです」
イヴェナは言った。
「だから、責めないでください。私は、強い人間ではありません。あなたのようにはできなかった」
黒銀の足元で、黒炎が静かに揺れる。
「弱かった」
「そうです」
イヴェナは頷く。
「私は怖かった。王にも、大神官にも逆らえなかった。でも、心ではずっと苦しかった。あなたのために祈っていました。リネアさんのためにも」
フードの少女の指が、外套の袖を掴んだ。
ほんの一瞬だけ。
黒銀はそれを見た。
イヴェナは気づかない。
「だから」
彼女は涙で濡れた顔を上げる。
「あなたなら許してくれる」
その言葉を言えば、昔の勇者が戻ってくると思っていた。
困ったように笑い、ひとつ息をつき、仕方ないなと言ってくれる男。
彼女の中にいるロアンは、いつもそこで止まっている。
裏切られる前の、杯を飲む前の、妹を奪われる前の顔で。
黒銀は、ゆっくりと祭壇の前まで進んだ。
聖女の白い法衣が、黒い影に覆われる。
「俺の妹にも、そう言ったのか」




