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第020話 |背教式《アポスタシア》

「俺の妹にも、そう言ったのか」


その言葉は、刃より深く礼拝堂を割った。


イヴェナの涙が止まる。


祈り輪を握る指だけが、まだ震えていた。


「違います」


かすれた声が出た。


「リネアさんには、私は」


黒銀は待たない。


右手が上がる。


黒い影に火の縁がつき、祭壇の上へ細く伸びた。白い杯を噛み、銀の縁を歪ませる。


イヴェナが叫んだ。


「守って!」


礼拝堂の天井から、白い光が降りた。


柱に刻まれた聖印が一斉に光る。床の白い溝がつながり、黒銀の周囲を円で囲んだ。


神官たちが息を呑む。


祈祷結界。


聖女が王都を守るために張ると信じられている、白い祈りの壁。


外から見れば、美しいものだった。


白い羽根のような光が天井から降り、祭壇を包み、聖女の背に翼を描く。


幼い頃、王都の子どもたちはその絵を見て安心した。


聖女様が祈っているから大丈夫だ、と大人たちが言った。


その言葉を、イヴェナ自身も信じてきた。


信じるほど、自分の手は汚れていないと思えた。


だが、黒銀を囲んだその壁は、民の方へは向いていなかった。


礼拝堂の中央だけを守っている。


祭壇。


聖杯。


聖女。


守られているのは、それだけだった。


イヴェナは胸元の聖印を握りしめる。


「私はまだ、聖女です」


声が戻っていた。


涙よりも硬い声。


「神殿が私に祈りを預けた。民は私の祈りを必要としている。あなたが私を傷つければ、王都はさらに混乱します」


黒銀の足元で、黒炎が結界に触れた。


白い光は弾けない。


燃えない。


ただ、黒い火の縁に舐められた部分から、細い文字が浮かんだ。


祈りの文字ではない。


術式の継ぎ目。


恐怖を束ねる白い溝。


礼拝堂に集められた神官たちの声を、祭壇へ吸わせるための道。


イシュカラがフードの奥で笑う。


「祈りではないな」


イヴェナが睨む。


「黙りなさい。あなたのような魔のものに、聖女の祈りは分かりません」


「分かるとも」


イシュカラの声は冷たかった。


「これは民を守る壁ではない。貴様を綺麗に見せる檻だ」


イヴェナの顔が歪む。


「違う」


黒銀は右手を下ろした。


黒炎が床を走る。


神官たちの足には触れない。床の白い溝だけを噛み、光の継ぎ目へ入り込む。


一つ。


二つ。


三つ。


聖印が割れた。


割れるたび、礼拝堂の壁に貼られていた祈祷札がめくれた。


裏側には小さな文字が並んでいる。


献納量。


祈祷人数。


沈静記録。


神官の一人がそれを見て、顔色を変えた。


民の祈りとして集められていた声は、数えられていた。


重さを量られ、値をつけられ、祭壇へ送られていた。


割れた内側から、薄い赤がにじむ。


血ではない。


けれど、祈りを吸われ続けた神官の唇が切れ、白い床に赤い点が落ちた。


黒銀の目が動く。


黒炎は神官の喉へは行かない。


喉を縛っていた白い祈祷紐だけを噛み切る。


神官は咳き込み、床へ倒れた。生きている。声も残っている。


「何を」


イヴェナが叫ぶ。


「私の結界を壊さないで! それがなければ、穢れが」


黒炎の奥に、銀が立つ。


銀の剣筋。


冷たい光。


かつて魔王を斬った剣筋の残り。


イヴェナの喉が鳴った。


彼女は、その銀の剣筋を知っている。


凱旋前の幕営で見た。


傷だらけでも、聖杯を受け取る前でも、ロアンの背に残っていた剣の気配。


人を守るために前へ出る男の剣筋。


その同じ銀の剣筋が、今は自分へ向いている。


「やめて」


イヴェナは後ずさる。


「お願い。私には、まだ役目があります。私は、民を救わなければ」


「救ったか」


黒銀の声が落ちる。


「俺を」


イヴェナは息を止めた。


「妹を」


白い結界が揺れる。


彼女の涙がまたあふれた。


「私は祈りました」


「祈っただけだ」


「それしかできなかったのです」


「違う」


黒銀は、倒れた神官へ一度だけ視線を向けた。


まだ息はある。


子どものように丸まり、切れた唇を押さえている。


黒炎はその横を避け、彼の首に残っていた白い祈祷紐だけを焼いた。


紐が切れた瞬間、神官は初めて自分の声で泣いた。


その声を聞いて、イヴェナは顔をしかめる。


救われた声ではなく、自分の結界が壊れる音として聞いた顔だった。


黒銀の右手に、黒炎が集まる。


銀の剣筋が、その中心に沈む。


イヴェナは祭壇へ手を伸ばした。白い杯の欠けた縁に指が触れる。割れたところで指先が切れた。


赤が落ちる。


白い祭壇に、一滴。


イヴェナはその赤を見て、顔を歪めた。


自分の血だけは、こんなにも怖い。


黒銀が低く言った。


背教式(アポスタシア)


銀の裂光が走った。


それは聖女を直接斬らなかった。


まず、彼女の背に浮かんでいた白い翼を斬った。


羽根の形をした光が、ばらばらにほどける。


次に、祭壇へ向かう白い祈祷紐を斬った。


最後に、イヴェナの足元にだけ残っていた白い円を斬った。


聖女を聖女に見せていたものが、順番に落ちていく。


白い結界が外から割れるのではなく、内側から黒くなっていく。


柱の聖印が一つずつ煤ける。


天井の翼が、黒い染みに飲まれる。


祈りの歌を覚えさせられていた神官たちの喉から、初めて祈りではない息が漏れた。


安堵だった。


一人の神官が、胸元の札を外した。


札には祈祷番とだけ書かれていた。


名前ではない。


彼はそれを床へ置き、初めて自分の胸を押さえた。


周りの神官も、同じように息を探した。


白い歌が止まると、礼拝堂はようやく人の場所になった。


黒炎は神官たちへ向かわなかった。


喉に残っていた白い祈祷紐だけを噛み切り、床の聖印を砕く。


支えを失った神官たちは、咳き込みながら側廊へ崩れた。


「出ろ」


黒銀の声は、彼らへ向けたものではなかった。


邪魔なものを退ける声だった。


側廊の扉が、黒い火に押されて閉じる。


焦げた聖印が扉の隙間に貼りつき、外の息遣いを遠ざけた。


礼拝堂の中央に残ったのは、黒銀と、フードの少女と、聖女だけだった。


結界は民を守っていなかった。


彼らを聖女の白さへ縫いつけていただけだった。


イヴェナは祭壇に背をぶつける。


白い杯が倒れ、残っていた聖水が床へこぼれた。


聖水は黒くならない。


ただ、その中にイヴェナの顔が映った。


泣いている。


綺麗に泣いている。


けれど、もう誰も「お優しい」とは言わなかった。


結界が、内側から黒くなる。

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