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第021話 |終油刃《ミセリコルデ》

黒くなった結界の中で、イヴェナは膝をついた。


白い法衣の裾が、こぼれた聖水を吸って重くなる。


側廊の扉は閉じていた。


焦げた聖印が扉の隙間に貼りつき、外の息遣いも、崩れた神官たちの咳も、遠くへ押しやっている。


礼拝堂の中央に残っているのは、黒銀と、煤けたフードの少女と、聖女だけだった。


聖水の上には、イヴェナの顔が揺れている。


泣いている。


まだ泣いている。


涙だけは、まだ綺麗に見せようとしていた。


「許して」


イヴェナは言った。


その言葉を口にした瞬間、礼拝堂の空気が変わる。


もう誰も、聖女を助けに入ってこない。


彼女はそれを、まだ理解していない顔をしていた。


イヴェナは膝で近づこうとした。


黒炎が床を横切り、彼女の進む先の石だけを割った。


「近づくな」


短い声。


イヴェナの肩が震える。


「私は、あなたを殺したかったわけではありません」


「結果は同じだ」


「違います。私は、あなたを救いたかった。穢れから。民から恐れられる前に。あなたがあなたでいられるように」


黒銀の胸の印が鳴った。


どくん。


黒銀はまだ答えた。


それだけで、イヴェナは許しの隙間を見つけたつもりになった。


涙に濡れた顔のまま、口元だけが笑う。


醜いほど、ほっとした笑みだった。


「そうでしょう。まだ聞いてくれる。あなたはそういう人でした。泣いている人を置いていけない。責めるより先に、待ってくれる」


言葉が早くなる。


白い息が、喉の奥で跳ねた。


「報告では、民には手を出していないと聞きました。今も、神官たちを殺していない。なら、私にも」


「お前は民じゃない」


黒銀は言った。


「被害者でもない」


イヴェナの笑みが止まった。


煤けたフードの少女が、黒銀の横へ立つ。


風もないのに、フードの縁が少し揺れた。


布の奥の瞳が、イヴェナを見る。


古い魔の色。


その底に、白い壇で消えた少女の面影が揺れていた。


イヴェナの唇が、小さな名の形を作る。


声にはならない。


違う。


違うはずだ。


あの子は、終わった。


白い壇で終わり、祈りの中で送られ、記録の中で済んだはずだ。


けれど、あの子は最後まで兄を見ていた。


目の前の少女も、同じ場所を見ている。


イヴェナは首を振る。


「私は泣きました」


黒銀も、イシュカラも、何も言わない。


「本当に泣いたんです。あの子が壇に立った時も、あなたが声を出せなくなった時も、私は苦しかった。だから、私は」


「祈った」


黒銀が言った。


イヴェナは頷く。


「そうです」


「止めなかった」


頷きが止まった。


白い礼拝堂に、沈黙が落ちる。


イヴェナの指が床を掴んだ。爪の下に白い粉が入る。


「止められるわけがない」


声が変わった。


涙に濡れたまま、奥から硬いものが出てくる。


「王が決めたのです。大神官が命じたのです。私一人が何を言っても変わらなかった。だったら、せめて祈るしかないでしょう。綺麗に送ってあげるしかないでしょう」


イシュカラが低く笑った。


「綺麗に殺した、か」


イヴェナの顔が歪む。


「違う!」


叫びは、閉じた結界の内側で跳ね返った。


外には届かない。


「違います。私は、悪い人間ではありません。私は聖女です。民に必要とされている。あなたも、私に救われたことがあったでしょう。戦のあと、傷を癒やした。祈った。あなたはいつも、ありがとうと」


黒銀の右手が動いた。


黒炎が祭壇の脇へ伸び、白い小瓶を一つ落とす。


聖油。


死にゆく者へ塗るための油。


瓶は割れ、透明な油が石床へ流れた。


黒炎はそれを燃やさない。


油の縁だけを黒く染め、細い刃の形へ持ち上げる。


その中心に銀が沈んだ。


イヴェナは後ずさる。


「待って」


黒銀は待たない。


「私は、許しを」


「ない」


イヴェナの唇が、昔呼んだ名の形を作った。


声にはならない。


黒い火が、その一音目さえ礼拝堂から奪っていた。


黒銀の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。


怒りではない。


懐かしさでもない。


その名で呼ばれていた男は、白い壇で死んだ。


目の前の女が差し出した杯の先で、声を奪われ、妹の手を取れずに死んだ。


だから、その名で縋られても戻らない。


黒銀の声が落ちる。


終油刃(ミセリコルデ)


黒い油の刃に、銀の剣筋が走った。


イヴェナの喉元を、静かに通る。


一瞬、何も起きなかった。


彼女はまだ、許しを求める形に口を開けている。


次の瞬間、白い襟元に赤が広がった。


白い指が、喉元を押さえた。


指の間から赤があふれる。


イヴェナは、すぐに側廊の扉を探した。


祈るためではない。


治させるためだった。


治癒を。


そう命じようとした。


だが、喉から出たのは言葉ではなかった。


濡れた息が、ひゅ、と小さく漏れただけだった。


イヴェナの目が見開かれる。


そんなはずがない、という顔だった。


聖女の言葉が、届かない。


聖女の命令が、形にならない。


白い法衣の胸元に、赤が広がっていく。


彼女は慌ててヴェールを掴んだ。


喉を隠そうとしたのか、血を押さえようとしたのか、自分でも分かっていなかった。


白い布は、すぐに赤を吸った。


イヴェナはそれを見て、泣きそうに顔を歪めた。


汚れる。


そんな顔だった。


黒銀は、見下ろしていた。


イヴェナは膝で床を擦り、閉じた側廊の扉へ手を伸ばす。


助けて。


治して。


聖女を。


そのどれも、声にはならなかった。


扉の向こうから、誰も入ってこない。


誰も「聖女様」と呼ばない。


イヴェナの手から、祈り輪が落ちる。


かちん。


白い石床を転がった。


彼女はそれを拾おうとした。


赤に濡れた指が床を滑る。


爪が石を掻いた。


かり。


もう一度。


かり。


祈り輪は、黒銀の足元で止まった。


イヴェナの口はまだ、許しを求める形に開いている。


けれど、もう涙を見せても、誰も彼女を聖女とは呼ばなかった。


膝が震える。


祭壇に縋った指が、ずるりと落ちる。


三度目の音は、なかった。


黒銀の頬に、細い返り血が散っている。


拭わない。


イシュカラが祭壇へ歩く。


倒れた聖杯の台座を見下ろし、細い指を鳴らした。


かちり、と。


白い石の奥で、何かが外れる音がした。


黒銀は振り返らない。


最後まで、彼女は許しではなく、治癒を待っていた。

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