第022話 救済済みの檻
イヴェナの指は、祈り輪へ届かなかった。
白い石床の上で、赤に濡れた爪だけが少し曲がっている。
側廊の扉は閉じたままだった。
外の神官たちは、まだ入ってこない。
入ってこられない。
焦げた聖印が扉の隙間を塞ぎ、黒い煤が細く震えていた。
礼拝堂の中央に残るのは、死んだ聖女と、黒銀と、煤けたフードの少女だけだった。
イシュカラは祭壇台座の前で膝を折る。
白い石の奥から、薄い金属音が続いた。
かちり。
かちり。
祈りのための台座ではなかった。
聖杯を置くためのくぼみの下に、小さな鍵穴が並んでいる。イシュカラが指を滑らせるたび、隠されていた白い板が一枚ずつ奥へ沈んだ。
石が開く。
冷たい空気が上がってきた。
花の匂いではない。
古い紙と、保存液と、乾いた血の匂いだった。
黒銀は動かなかった。
頬の返り血も拭わない。
イシュカラは奥から、細長い記録箱を引き出した。箱の側面には聖印が刻まれ、その下に小さな文字が並んでいる。
聖杯投与記録。
白い紙束が、黒銀の前へ広げられた。
紙は乾いていた。
けれど、端の一部だけが茶色く波打っている。
聖杯を飲ませた時の液か。
浄化壇から運ばれた時の血か。
書いた者は、それを拭きもせず、その上から新しい紙を重ねていた。
祈りの記録に汚れは残さない。
そういう神殿が、ここだけは汚れを資料として残している。
一枚目には、よく知った名があった。
ロアン・ノール。
黒銀の指が、わずかに止まる。
名の横には、細い線が引かれていた。
その先に、別の文字が押されている。
対象A。
聖杯投与、完了。
魔力封じ、完了。
公開浄化、完了。
救済済み。
赤い判が、何度も同じ位置に押されていた。
紙の端が、黒銀の手の中で折れる。
二枚目。
リネア・ノール。
黒銀の手に、黒い火筋が走りかけた。
イシュカラが何も言わず、紙の端を押さえる。
名の横に線。
対象B。
近縁関連体。
器候補。
公開浄化、完了。
救済済み。
救済。
その言葉だけが、白い紙の上で妙に明るかった。
下段には、処理者の名があった。
セヴラン・オド。
確認。
保管継続。
次回測定へ。
妹の死も、兄の叫びも、そこでは次回の測定へ送られていた。
「よくもまあ」
イシュカラの声は低い。
「殺すことに、これほど綺麗な名をつけられる」
黒銀の指が、記録箱の底へ動いた。
そこには、さらに古い束があった。
番号。
年齢。
血筋。
魔族混入率。
適性なし。
救済済み。
適性あり。
保存継続。
ひとつひとつの項目は、祈りの文と同じ筆で書かれていた。
乱れがない。
悩みもない。
黒銀は、紙束を閉じた。
黒炎が記録箱を燃やすことはなかった。
まだ読むべきものがある。
まだ殺すべき者がいる。
イシュカラが、箱の奥から小さな札をつまみ上げた。
白い木札だった。
片面には対象B。
裏には、リネア・ノール。
針で引っかいたような細い字で、兄名との照合済み、とある。
イシュカラの指が止まる。
その札を握り潰すことは、できた。
けれど、握り潰せば、リネアの名まで折れる気がした。
彼女は札を黒銀へ渡さず、胸元の内側へ入れた。
「借りておく」
黒銀は何も言わなかった。
祭壇台座の奥には、下へ降りる階段があった。
礼拝堂の白さは、階段を降りても消えなかった。
むしろ白くなる。
磨かれた壁。
乾いた床。
等間隔に灯る小さな聖火。
清潔だった。
人を壊すために、汚れを残さない清潔さだった。
壁には番号札が掛かっている。
空の檻が並んでいた。
鉄格子には、細い爪跡が残っていた。低い位置にいくつも。小さな手で掻いたような跡だった。
床の隅には、水椀が伏せられている。
白い椀の縁だけが、赤黒く変色していた。
床の溝も赤黒い。何度洗っても、そこだけは白に戻らなかった。
奥の檻には、人影があった。
黒銀の足音に、薄い肩がびくりと跳ねる。
少年なのか、少女なのか、分からないほど痩せている。首には札が下がっていた。名前ではない。三桁の数字だけが、揺れている。
その隣で、耳の先が少し尖った子どもが、目を伏せた。
泣かない。
泣くことを、とっくにやめた顔だった。
黒い火筋が床を走った。
子どもたちは身を縮める。
だが、火は檻の中へ入らなかった。
錠前だけを噛む。
かん、と乾いた音がした。
ひとつ。
またひとつ。
檻の錠が、白い床へ落ちていく。
「外へ出ろとは言わぬ」
イシュカラが、檻の前に立った。
声は尊大だった。
けれど、ほんの少しだけ、喉の奥が幼く震えた。
「扉は開けた。逃げるなら、黒い焦げを辿れ。上の連中は、しばらく立てぬ」
子どもは顔を上げない。
それでも、数字札が小さく揺れた。
別の檻の奥から、かすれた声がした。
「神官、さま」
その呼び方しか、残っていない声だった。
黒銀は立ち止まる。
黒い火筋が、声の方へは行かない。
床を這い、壁際の鍵箱だけを噛んだ。
鍵がまとめて落ちる。
白い音が、やけに軽かった。
黒銀は通路の奥を見る。
白い扉がある。
その中央に、大神官の聖印。
祈りではなく、封印の形をしていた。
扉の脇には、古い拘束台が置かれている。
革帯の跡。
押さえつけるための金具。
台の縁に、指先で掻いたような傷が幾筋も残っていた。
イシュカラの足が止まる。
黒銀も止まった。
その傷の高さは、ちょうど、かつてロアン・ノールが拘束された台と同じだった。
イシュカラの手が、無意識に胸元を押さえる。
フードの奥で、呼吸が一度乱れた。
「この身の記憶だ」
言い訳のように言う。
黒銀は振り向かない。
白い扉の奥で、何かが動いている。
紙をめくる音。
金属の針が、石に触れる音。
まだ祈っている者がいる。
まだ、記録している者がいる。
イシュカラは、拘束台の傷から目を離せなかった。
小さな指が、黒銀の袖を掴む。
強くはない。
逃げるためでもない。
ただ、そこに残った痛みに触れてしまった手だった。
彼女の喉が、細く震えた。
呼び名の形だけが、唇に浮かぶ。
音にはならなかった。
黒銀の背が、わずかに揺れた。
それでも、その名を拾わなかった。
拾えば、戻ったことにしてしまう気がした。
フードの奥で、目が拘束台の傷へ戻る。
落ちた声は、魔王のものとしては幼かった。
けれど、妹の声でもなかった。
「痛かったか」




