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第023話 対象A、最適器

黒銀は答えなかった。


痛かったか。


その問いに、答えられる身体ではもうなかった。


喉を裂くほど叫んだことも、封じられた声が妹へ届かなかったことも、白い壇の熱も、胸の黒い印の鼓動も、全部そこにある。


だが、痛みという名では足りなかった。


イシュカラの指は、黒銀の袖を掴んだまま止まっている。


次の瞬間、彼女ははっとしたように手を離した。


「この身の」


「分かっている」


黒銀は白い扉へ歩いた。


イシュカラの言い訳を最後まで聞かなかった。


白い扉には、大神官の聖印が刻まれている。


表の礼拝堂にある翼の印とは違う。


翼の骨だけを取り出したような、細く、硬い印だった。


黒炎が扉の下を這う。


火筋は扉を焼かず、聖印の溝へ入り込んだ。白い溝が、内側から黒く滲む。


重い音を立てて、扉が開いた。


奥は広い。


礼拝堂よりも、広場よりも静かだった。


白い柱が円形に並び、その間に透明な板が吊るされている。板の中には、細い文字と魔術図が重なっていた。


部屋の端には、白衣の神官が三人いた。


神官と呼ぶには、祈りの匂いが薄い。


袖は短く、指先には革の覆いをしている。聖印を切ったり、札を結んだり、血を測ったりするための手だった。


黒銀を見た瞬間、そのうち一人が悲鳴を飲み込んだ。


対象札を落とす。


木札が床を滑り、黒銀の足元で止まった。


番号だけ。


名前はない。


胸元の伝声符へ、白衣の指が伸びる。


影火が先に届いた。


符だけが黒く焦げ、指は残る。


続けて、耳に掛かった記録輪が砕けた。


残りの二人が息を吸う。


黒い膜が、声を壁へ押し戻した。


悲鳴は、喉の内側で潰れる。


壁際の小さな処置室が開いた。


黒炎は三人の喉へ向かわない。


足元の床だけを押した。


三人は処置室へ押し込まれ、扉が閉じた。


扉の隙間に、影火が薄く貼りつく。


声も、記録も、研究中枢の外へ出なくなった。


魔王因子濃度。


器候補。


魂着床率。


王都祈祷網。


黒銀は、最後の語だけを見た。


王都。


イシュカラも同じものを見ていた。


「祈りを、網にしたか」


「網ではない」


声が降ってきた。


乾いていて、穏やかで、老人の声にしてはよく通った。


円形の部屋の奥。


一段高い記録台の前に、白い法衣の男が立っている。


セヴラン・オド。


大神官は、逃げていなかった。


彼だけは、黒銀を見ても祈らなかった。


怯えもしなかった。


白い瞳の奥で、何かが速く計算されている。


死への恐怖より先に、測定値を欲しがる目だった。


手元の台帳へ羽根ペンを置き、ゆっくり顔を上げる。


「導線だ。祈りは集め、整え、上へ送る。無駄にするには惜しい」


黒銀の足元で、黒炎が低く揺れた。


「イヴェナは死んだ」


「そうか」


セヴランは、まぶたひとつ動かさなかった。


「聖杯投与記録は残っていたかね」


イシュカラの唇が、笑みの形になる。


笑ってはいない。


「弟子の死より先に、それか」


「聖女は役職だ。記録は成果だ」


セヴランの視線が、黒銀へ移る。


白い眉の下で、目だけが細くなる。


「対象A。処理前名、ロアン・ノール」


その呼び方に、黒銀の胸の印が鳴った。


どくん。


「心停止後も魂の残響が定着。肉体損傷後、魔王因子を核として再稼働。実に興味深い」


黒銀は一歩進む。


透明な板が、数枚砕けた。


文字が雨のように床へ落ちる。


セヴランは目を細めた。


怒りではない。


惜しんでいる目だった。


「不用意に壊すな。君は自分の価値を分かっていない」


「俺を呼ぶな」


「名は必要ない。名は情を呼ぶ。対象で十分だ」


黒銀の右手が動く。


黒炎が記録台へ伸びかけた瞬間、床の聖印が白く光った。


火筋が弾かれる。


セヴランの口元に、わずかな満足が浮かんだ。


「対象Aは強い。だが、主ではない。君は器を守る外殻として優秀だ」


視線が、イシュカラへ移る。


フードの奥で、魔の瞳が細く光った。


「対象B。処理前名、リネア・ノール」


セヴランは言い直す。


「いや、最適器」


部屋の空気が冷えた。


黒銀の黒炎が、床を薄く焦がす。


セヴランは、それすら観察していた。


「魔王因子は感染ではない。帰巣の錨だ」


イシュカラが低く言う。


「錨、だと」


「倒した者の魂へ残る標。魔王が再び世界へ戻るための針だ。だが、針の向きは変えられる」


セヴランは、白い図の一部を指で弾いた。


兄妹の名を結ぶ細い線が、王都祈祷網へ吸い込まれる。


「勇者本人は抵抗が強い。ならば、近い血と魂を持つ身体を同じ封印に置けばよい。祈祷網で帰り道を曲げれば、因子はそちらへ流れる」


「我が選んだ道ではないな」


「君の意思など、記録上は不要だ」


イシュカラの声が、さらに低くなった。


「我が残したのは、勇者への標だ。貴様らは、その標で妹の喉に縄をかけた」


「実際にかけた。結果は目の前にある」


セヴランの声には、誇りがあった。


人を殺した者の声ではない。


実験が成功した者の声だった。


「王は恐れていた。勇者の人気を。魔王の再来を。老いを。私は答えを示した。魔王因子を制御できれば、神も作れる」


透明な板の奥で、白い図が動いた。


翼のような形。


王都へ伸びる祈りの糸。


何千もの小さな点が、白く脈を打っている。


点のひとつひとつに、小さな文字が添えられていた。


居住区。


市場。


兵舎。


孤児院。


礼拝所。


祈る場所だけではない。


怯える場所にも、白い点が置かれていた。


イシュカラが一歩前に出た。


「神ではない。玩具だ」


「魔王が神を語るか」


「貴様らの神は、檻と台帳でできておるのか」


セヴランは答えなかった。


代わりに、指を上げる。


円形の部屋の柱が、一斉に光った。


白い聖印が床から壁へ走る。


祈りの歌が聞こえた。


遠い。


礼拝堂からではない。


神殿全体の石の中から、歌が湧いてくる。


黒炎が床を噛む。


白い溝が黒く焼ける。


だが、次の溝がすぐに光った。


セヴランは台帳を閉じる。


「標本は動きすぎた。再固定する」


白い鎖が、柱から伸びた。


鎖ではない。


祈祷紐だ。


何重にも撚られた白い祈りが、黒銀の腕とイシュカラの足元へ絡みつく。


床の白い溝が、息をするように明滅した。


イシュカラが舌打ちした。


黒銀は銀の剣筋を抜く。


その前に、天井の聖印が開いた。


白い光が落ちる。


神殿全体が、ひとつの檻になった。


セヴランの声が、静かに響く。


「聖術式、起動」

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