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第024話 跪け

白い光は、火ではなかった。


冷たかった。


落ちた先から、床の聖印が開いていく。


祈祷紐が黒銀の腕へ巻きつき、手首を柱へ引いた。別の紐が足元を絡め、膝を折らせようとする。


黒銀は折れなかった。


石床に、黒い足跡だけが深く残る。


イシュカラの足首にも白い紐が巻いていた。


少女の細い身体が、少し傾く。


「我を」


彼女の声が低くなる。


「まだ器と呼ぶか」


「器でなければ何かね」


セヴランは記録台の奥にいた。


彼の周囲だけ、白い膜に包まれている。膜の内側には小さな文字が流れ続けていた。


対象保護。


術者保護。


標本再固定。


文字は祈りではなかった。


命令だった。


黒銀の黒炎が床を這う。


祈祷紐の根元を噛む。


一本が切れた。


白い繊維が、焦げた羽根のように散る。


だが、柱の内側からまた別の紐が伸びた。


セヴランは目を細める。


「対象Aは力で押す。予想どおりだ。君は勇者だった頃から、そうだった」


黒銀の視線が上がる。


セヴランは、初めて言葉を選んだ。


「勇敢で、単純で、守るものがあれば前に出る。だから扱いやすかった」


黒炎が跳ねた。


白い膜へ牙のように立ち上がる。


膜の表面で弾かれ、黒い煤だけが落ちた。


「怒るな。褒めている」


セヴランは静かに言った。


「君は王国に必要だった。魔王を倒す剣として。魔王因子を得る器として。民の不安を清める処刑対象として。そして今は、最適器を守る外殻として」


イシュカラの肩が、ゆっくり上下した。


笑っている。


「人をここまで物にして、まだ神官の顔をしておる」


「神官だからだ。魂を扱う者は、情に溺れてはならない」


「違うな」


イシュカラの指が、白い祈祷紐へ触れた。


紐が震える。


彼女は引き千切らない。


読む。


撚られた祈りの向き。


柱へ戻る力。


床の聖印に刻まれた命令。


黒銀は動かなかった。


イシュカラが読む時間を、ただ作る。


黒炎が何度も走り、銀の剣筋が聖印の端を切る。支点だけを削り、檻の奥にいる子どもたちの方へは一筋も飛ばさない。


祈祷紐は増え続ける。


通路の向こうで、開いた檻の扉が揺れた。


中の子どもたちは、まだ出てこない。


白い光が怖いのか。


黒い火が怖いのか。


それとも、自由になってよいと言われたことがなかったのか。


黒銀は振り返らなかった。


だが、黒炎の一筋だけが、檻と戦場の間に低く横たわった。


壁のように。


境界のように。


白い祈祷紐がそこへ触れるたび、黒く焦げて床へ落ちた。


黒銀の肩に食い込んだ白い紐が、黒い衣を裂いた。裂け目から、死んだ身体の冷たい肌が見える。


赤は少ない。


生きた肉の赤ではない。


それでも、黒い印だけが胸の奥で脈を打っていた。


どくん。


セヴランの目が輝く。


「やはり心臓ではない。魔王因子が拍動している。対象Aは、死者の魂を因子で縫い戻した外殻だ。素晴らしい」


羽根ペンが、台帳の上で走る。


「まだ書くか」


黒銀の声は低い。


「書くとも。神は記録から生まれる」


イシュカラが、短く息を吐いた。


「貴様の神は、ずいぶん安い」


白い祈祷紐が、彼女の喉元へ伸びた。


黒銀が動く。


銀の剣筋が走り、紐を切る。


切られた白い繊維が、イシュカラの頬をかすめた。


細い赤が一筋だけ浮く。


黒銀の黒炎が、一拍だけ荒れた。


イシュカラは指先でその赤に触れる。


赤を見て、黒銀を見る。


「この身に傷がつくと、よく燃えるな」


黒銀の視線は、イシュカラの頬の赤に残っていた。


「我を案じた顔ではない。分かっておる」


黒銀の目が細くなる。


「その身体の傷だ」


「ならば、返す相手は決まっておる」


その声に、ほんの一瞬だけ、この身体に残る軽さが混ざった。


戦場に似合わない、昔の部屋の返事のような音だった。


黒銀は、その音に名をつけなかった。


すぐに魔王の声へ戻る。


イシュカラはそれを誤魔化さなかった。


今は、誤魔化す暇がない。


イシュカラは床へ手をついた。


少女の掌の下で、白い聖印が歪む。


光線ではない。


爆発でもない。


床に刻まれた命令の向きが、反対へ向いた。


柱から伸びていた祈祷紐が、ふ、と緩む。


次の瞬間、それらは一斉に記録台へ戻った。


セヴランの周囲の白い膜が揺れる。


初めて、大神官の顔に焦りが走った。


「対象B、貴様」


「名で呼ぶなとは言わぬ」


イシュカラは立ち上がった。


フードの奥で、古い魔の瞳が光る。


「だが、貴様の名で我を測ることは許さぬ」


白い膜の文字が乱れた。


術者保護。


標本再固定。


術者保護。


術者保護。


同じ文字が重なり、潰れ、読めなくなる。


セヴランが記録台へ手を伸ばした。


「再起動」


声はまだ落ち着いていた。


指だけが、わずかに震えている。


その指は、多くの台帳に承認印を押してきた指だった。


対象。


救済。


保存。


廃棄。


痛みのない四つの語で、人間を仕分けてきた指だった。


今、その指先に白い祈祷紐が絡む。


自分が書いた命令に、自分の関節が引かれていく。


イシュカラの足元に、黒い魔法陣が開いた。


開いたというより、少女の身体に合わせて無理やり潰された王冠だった。


欠けた輪だけで、祭壇の白い溝がきしむ。


「――高き名を借りる者よ」


セヴランの足元で、白い祈祷紐が震えた。


「――地はすべての冠を量る」


祭壇の白い溝が、彼の影へ伸びる。


「――膝は王冠を知らず、ただ重みに従う」


黒い王冠の欠けた輪が、大神官の影を押さえた。


古い魔王文字が、石床の上で術式名を組む。


降膝勅令(ジェヌフレクト)


『跪け』


本来の魔王なら、膝を選ばせるまでもなかった。


今は大神官一人へ絞る。その絞った一人の骨が、命令に逃げ場を失う。


部屋の白が、音を立てて反転した。


柱から伸びた祈祷紐が、大神官の膝へ絡む。


白い膜は彼を守らなかった。


守る向きが、変えられていた。


セヴランの膝が、石床へ落ちる。


ごん、と鈍い音がした。


白い法衣の裾が跳ね、膝の下から赤がにじむ。


赤は、祈りの模様をゆっくり汚した。


「ぐ、」


声が漏れた。


祈りではない。


痛みの声だった。


セヴランは両手を記録台へ伸ばす。


立とうとする。


だが、祈祷紐は背中と首の後ろを押さえ、彼の額を床へ近づけた。


黒銀が一歩進む。


白い術式の檻が、影火に噛まれて崩れていく。


セヴランは、床に手をついたまま目を見開いた。


自分が何の前にいるのか、ようやく分かった顔だった。


彼の背後では、無人の記録板だけが白く明滅していた。


誰も助けに入らない。


大神官の命令を待つ者たちは、もうこの部屋の声を聞けない。


神ではない。


標本でもない。


器でもない。


彼は、魔王の前に跪いていた。

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