第025話 答えは墓に持っていけ
セヴラン・オドは、膝をついたまま動けなかった。
白い祈祷紐が、首の後ろから背骨へ絡みついている。少しでも身を起こそうとすると、紐は彼の身体を床へ押し戻した。
膝の下の白い石に、赤が広がっていく。
大神官は、それを見なかった。
彼の目は、記録台だけを見ていた。
羽根ペン。
開いた台帳。
あと半歩。
あと指先ひとつ。
そこへ届けば、書ける。
震える膝や、割れた爪や、床へ広がる赤など、彼にとっては後回しだった。
肉体は古い器に過ぎない。
記録だけが残る。
そう信じている顔だった。
「仮説は」
セヴランの声は震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
「仮説は正しかった」
イシュカラが、彼を見下ろす。
「まだ言うか」
「魔王因子は、再来の標。帰巣の錨。対象Bは、帰り道を曲げた最適器。対象Aは、死後に因子で縫い戻された外殻」
セヴランは笑った。
唇の端が切れて、赤い泡が白い髭に混じる。
それでも笑った。
「王へ送れば、完成する。王都祈祷網に重ねれば、民の祈りと恐怖を燃料に、王を神座へ載せられる」
「偽神だ」
黒銀が言った。
短い声だった。
セヴランの笑みが深くなる。
「民は祈る。王は受ける。何が違う」
「民を燃やす」
「民は王のためにいる」
セヴランの指が、台帳へ伸びる。
「待て。まだ書いていない」
声が、初めて割れた。
「これは、まだ記録になっていない。記録にならねば、答えではない」
黒炎が、床を薄く舐めた。
遠くの檻で、誰かが息を呑む気配がした。
火はそちらへ行かない。
セヴランの耳にも、その息は届いたはずだった。
けれど彼は振り返らない。
檻の奥にいる者たちは、彼にとって証明に使った数だった。
今も、失敗値か成功値かでしかない。
影火は記録台の脚を回り、台帳の端を押さえる白い金具だけを噛んだ。
金具が弾ける。
台帳の頁がめくれた。
乾いた紙が、ひどく軽い音を立てる。
そこには、番号が並んでいた。
対象。
適性。
処理。
救済済み。
同じ語が、何度も何度も書かれている。
人の名は少ない。
名前があっても、すぐ隣で線を引かれ、番号へ置き換えられていた。
セヴランは床を這うようにして、台帳へ手を伸ばした。
「それを燃やすな」
初めて、声が荒れた。
「燃やせば失われる。何年かけたと思っている。何人使ったと思っている」
「数えているのか」
黒銀が問う。
セヴランは即座に答えた。
「当然だ」
迷いがなかった。
「数えねば、成果にならない」
イシュカラの顔から、笑みが消えた。
「そうか。貴様には、数でしかなかったか」
「違う。数は祈りだ。多くを捧げるほど、神は近づく」
黒銀は、台帳を見た。
ロアン・ノール。
線。
朱墨が紙の繊維を裂き、名の上で乾いた血のように固まっていた。
対象A。
リネア・ノール。
線。
対象B。
その下に、セヴランの細い文字が残っている。
最適器。
黒銀の指が、頁の端へ触れた。
黒い火は、紙を燃やさない。
代わりに、赤い判を拾い上げた。
救済済み。
イヴェナの記録にも、地下の檻にも、何度も押されていた判。
黒炎がそれを浮かせ、セヴランの開いた台帳へ落とす。
セヴラン・オド。
その名の下に、赤い文字が押された。
救済済み。
セヴランの顔が歪んだ。
セヴランは、自分の名の下へ押された赤い判を爪で削ろうとした。
白い紙が破れ、爪の先がまた割れる。
赤い判は消えない。
「私は対象ではない」
「お前が作った言葉だ」
「私は記録する側だ」
「記録される側に、痛みは不要だったのだろう」
イシュカラの声が冷える。
「ならば、不要なものを捨てて死ね」
「終わった」
黒銀は近づいた。
セヴランは必死に手を伸ばす。
羽根ペンへ。
台帳へ。
自分の答えへ。
白い祈祷紐が、彼の手首を床へ縫いつける。割れた爪が石を掻き、赤い筋が白い床へ残る。
「待て」
大神官の声が、初めて命令ではなくなった。
「この答えは必要だ。王が知れば、王国は」
銀の剣筋が、黒炎の奥に沈む。
セヴランはそれを見た。
目が見開かれる。
「その剣筋」
声がかすれた。
そこで、ようやく彼は台帳から顔を上げた。
記録の中の対象Aではない。
処理前名、ロアン・ノール。
浄化壇で声を奪い、死体として地下へ運ばせた男。
その男の剣筋が、黒炎の奥にまだ残っている。
「対象A……」
言いかけて、違う、と目が動いた。
対象ではない。
王国が殺した勇者の動きだった。
そして、フードの奥からこちらを見下ろす古い魔の瞳。
その底に、対象Bとして処理した少女の影がある。
最適器。
そう書いた。
だが、目の前のそれは、台帳の語では収まらなかった。
セヴランの唇が、記録から消した名の形を作った。
黒炎が喉元へ巻いた。
その一音目さえ、外へ出なかった。
セヴランの目だけが、黒銀とイシュカラを往復する。
番号。
旧名。
処理。
救済済み。
どの欄にも、目の前の意思は収まらない。
黒銀は、その目を見下ろした。
「答えは墓に持っていけ」
銀の剣筋が走った。
白い法衣の胸元が裂ける。
赤が、台帳へ散った。
セヴランの手が跳ねた。
羽根ペンに触れかけた指が、届かないまま落ちる。
ペンは転がり、床の赤を吸って止まった。
大神官はまだ口を動かしていた。
記録。
成果。
神。
そのどれも、声にならない。
黒炎は彼の身体を焼かなかった。
白い祈祷紐だけを噛み、柱へ戻っていく術式を切った。
支えを失ったセヴランの身体が、台帳の前へ崩れる。
膝をついたまま。
額を床へ近づけたまま。
最後まで、祈りの姿に似ていた。
だが、誰も祈っていない。
イシュカラは台帳を閉じた。
「偽神は王都にある」
黒銀は、割れた透明板のひとつを拾う。
そこには、王城へ向かう祈りの導線が描かれていた。
導線の先で、白い点が脈を打っている。
黒銀の胸の黒い印も、低く鳴った。
どくん。
遠くで鐘が鳴る。
礼拝堂の鐘ではない。
王城の方角から、王都全体へ広がる白い音だった。
透明板のその点が、鐘に合わせてもう一度白く脈を打った。
イシュカラがフードを深くかぶり直す。
「行くぞ、黒銀」
黒銀は頷いた。
背後では、大神官の台帳に押された赤い判だけが、まだ乾かずに光っていた。
救済済み。
鐘は、大神官の答えなど待たずに、王都の方角で鳴り続けていた。




