第026話 王は眠らない
王は眠らなかった。
夜は、とっくに終わっている。
王城の尖塔の向こうで、朝の色が薄く滲んでいた。だが、寝所の燭台はまだすべて灯っている。分厚い天蓋の下に寝る者はおらず、老いた王は寝台の脇に置かれた小卓の前で、白い封緘の束を見下ろしていた。
封緘には神殿の印。
その下に、セヴラン・オドの細い筆跡。
王は一番上の紙を開いた。
対象A。
処理前名、ロアン・ノール。
聖杯投与、成功。
公開浄化、完了。
死後反応、継続。
王の指は止まらなかった。
驚きも、嫌悪もない。そこにある名は、すでに何度も読んだ名だった。
二枚目の紙。
対象B。
処理前名、リネア・ノール。
近縁関連体。
帰巣先誘導、継続。
最適器判定、上方修正。
王は、紙の端を爪で軽く叩いた。
乾いた音がする。
ロアン・ノール。
その名を民は、まだ覚えていた。
魔王を倒した勇者。
凱旋の道で花を投げようとした娘。酒場で歌を作った若者。門前で、勇者様に握手を、と騒いだ子ども。王はすべて聞いていた。聞かされていた。聞きたくなくても、王城の壁は民の声を拾う。
勇者は、王より先に民の心へ座ろうとしていた。
それが許せなかった。
魔王を倒した褒賞なら与えてもよい。金も、称号も、辺境の小さな領地も、必要なら与えた。だが、民の口が王の名より先に勇者を呼ぶなら、それは忠誠ではない。
王国は王のものだ。
王を守るために勇者は剣を振るう。
勇者のために王国が揺れるなど、あってはならない。
王は、あの日の広場も見ていた。
高窓の奥から、垂れ布の隙間越しに。
白い壇の上で、ロアン・ノールは声を奪われていた。民は泣き、怒鳴り、やがて神官の言葉に押されて祈った。あの時、民の声はまだ一つではなかった。勇者を信じる声と、魔王の穢れを恐れる声と、何も分からず周りに合わせる声が混ざっていた。
だから、王は決めた。
民の声には、堤が要る。
王座へ向かう堤が。
王は紙束の下から、古い報告書を引き出した。
黒炎反応。
銀色剣筋、残存。
対象A、再稼働の可能性。
対象B内、魔王因子の反応あり。
最後の欄は空白だった。
本来なら、セヴランの最終記録が届くはずだった。対象Aと対象Bを再固定し、王都祈祷網へ接続する。その確認印が、夜明け前にはここへ来る予定だった。
来ない。
王は、紙を置いた。
「死んだか」
声は低い。
悲しみではない。
道具のひとつが折れた時の声だった。
王は、セヴランを信頼していたわけではない。
あの老神官の目が、信仰より数字を好んでいることは知っていた。だが、数字を好む者は便利だ。民の涙を数に変え、死体の反応を行に変え、王の不安に答えを出す。
その便利な男が沈黙した。
ならば、待つ理由はない。
寝所の扉の外で、老臣が息を呑む気配がした。王は名を呼ばなかった。中へも入れなかった。この部屋で読まれる名は、王と死んだ大神官だけが知っていればよい。
「セヴランめ。最後まで書かずに逝きおった」
王は椅子から立ち上がった。
膝が鳴る。
細い脚に、寝間着の布が重く絡んだ。老いは毎朝、王の身体へ新しい税のようにのしかかる。指は以前より震え、喉は乾き、息は浅い。鏡の中の顔は、日に日に王冠に似合わなくなっていた。
だが、玉座はまだ王のものだ。
王だけのものだ。
王は壁に掛かった小さな鐘を鳴らした。
扉の外で控えていた老臣たちが入ってくる。彼らは寝所の机に並ぶ白い紙を見ないように目を伏せた。見れば死ぬと知っている目だった。
「陛下。神殿からの確報は、まだ」
「下がれ」
王は言った。
老臣たちは顔を上げかけ、すぐに伏せた。
問い返す者はいない。
王は、寝所の奥を杖で示した。
「礼拝室を開け。お前たちは外で伏せていろ」
老臣たちは、白い扉を開けるところまでしか許されなかった。
王が何を読んだのか。
何を起こすのか。
彼らは知らない。
知る必要もない。
知れば、王はその耳ごと処理しただろう。
扉が閉じる。
王は、ようやく一人で息を吐いた。
「動いたなら、材料は目覚めたということだ」
唇だけで言う。
「セヴランが死んだなら、なおよい。死に際の反応ほど濃いものはない」
王はゆっくり歩いた。
寝所の奥には、小さな礼拝室がある。王族だけが入る白い部屋。祭壇の上には翼を広げた聖印が刻まれ、その下に王冠が置かれていた。
王は王冠を手に取らない。
代わりに、祭壇の前へ掌を置いた。
白い石の下で、何かが鳴った。
どくん。
黒い鼓動に似た音。
それを覆うように、白い鐘の音が王城中へ広がる。
礼拝室の外で、老臣たちは膝をついた。
祈りではない。
立っていられなくなったのだ。
「民は王のために祈る」
王の声が、礼拝室に響く。
「民は王のために働く。王のために産み、王のために死ぬ。ならば、恐怖も祈りも、王のものである」
祭壇の聖印が白く開いた。
光は温かくない。
薄い骨のような光だった。
「偽勇者は死んだ。聖女も死んだ。大神官も沈黙した。ならば、余が受ける」
扉の外で、老臣の一人が顔を上げかけた。
唇が震えていた。
声は、厚い扉に遮られた。
「王がなければ民もない」
王は、祭壇に置いた掌へ力を込めた。
老いた皮膚の下で、白い筋が浮かぶ。血管ではない。祈りの溝だった。
「起こせ」
王城の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度目で、王都のすべての小鐘が答えた。
市場の軒先で、老婆が抱えていた籠を落とした。石畳に転がった果実の表面へ、白い聖印が浮かぶ。
兵舎の壁に、翼の骨のような線が走った。
戸口で眠っていた子どもの掌にも、同じ印が浮いた。子どもはくすぐったそうに指を握ろうとした。だが、握れない。白い印から細い祈祷紐が伸び、手首へ絡んだからだ。
神官町の外れでは、黒銀が足を止めた。
遠く、王城が白く鳴っている。
イシュカラがフードの奥で目を細めた。
「始めおったな」
黒銀の胸の印が、低く一度だけ鳴った。
王都のあちこちから、祈りの声が上がった。救いを求める声だった。いつもの朝の祈りの声でもあった。
だが、その祈りは空へ昇らなかった。
白い糸になって、人々の手首を縛った。
王城の方へ、引かれていく。
王は礼拝室の奥で、白い光を浴びていた。
寝所の机には、開いたままの報告書が残っている。
ロアン・ノール。
リネア・ノール。
王は二つの名が載った紙を、燃料記録の束へ重ねた。
ためらいはなかった。
王都の鐘は、まだ鳴っている。




