第027話 祈りが鎖になる日
最初に膝をついたのは、神官だった。
神官町の白い門の前で、若い神官が両手を組んだ。王城の鐘が鳴れば祈る。幼い頃からそう仕込まれた身体は、何が起きたか考える前に石畳へ膝を落とす。
「王に祝福を」
声は震えていた。
次の瞬間、その掌に浮いた聖印が開いた。
白い祈祷紐が、指の間から伸びる。
神官は目を見開いた。祈りの姿勢のまま、手首が上へ引かれる。首筋にも同じ印が浮き、細い白が喉へ絡んだ。
「あ、」
声が細く切れた。
祈祷紐は神官の身体を吊らない。
もっと悪い。
息だけを、少しずつ王城へ引いていく。
市場の方でも悲鳴が上がった。
戸口で祈った女が、抱いていた子どもごと倒れかける。子どもの掌にも白い印が浮いていた。小さな手首から伸びた祈祷紐が、母親の紐と絡まり、二人をまとめて王城の方へ向ける。
「助けて」
誰かが言った。
その声が、黒銀へ向いたものか、神へ向いたものか、分からない。
黒銀は動いた。
足元の影から、黒炎が細く伸びる。
燃え広がらない。石畳を這い、祈祷紐の根元だけを噛む。白い紐が、乾いた音を立てて切れた。
神官の身体が前へ倒れる。
黒炎はその身体に触れない。
石畳の影へ戻り、次の白い紐へ向かった。
「ば、化け物」
倒れた神官が、喉を押さえながら言った。
黒銀は見ない。
別の場所で、子どもが泣きかけていた。
母親の腕は子どもを抱いたまま硬直している。自分の腕から伸びる祈祷紐を外そうと爪を立て、爪が白く割れていた。紐は皮膚の上を滑らず、祈りそのものから生えたように抜けない。
黒銀の黒炎が、母親の腕の周りへ回った。
母親が息を呑む。
「やめ」
火は、腕を焼かなかった。
白い紐の編み目へ牙のように入り、一本ずつ噛み切る。最後の一本が切れた瞬間、母親は子どもを抱いて石畳に崩れた。
子どもの手首の紐も切れる。
泣き声が出た。
それは生きている声だった。
母親は顔を上げる。
目に礼が浮かんだ。
すぐに、それは恐怖へ戻った。
黒い火。
煤けた外套。
白い街の中で、黒銀だけが神の祝福を噛み殺している。
広場で新勇者を殺した黒い男だと、母親の目が思い出した。
「見るな」
イシュカラが、母親の前に立った。
フードの奥から落ちた声は冷たい。
「礼を言うなら、息をしろ。祈るな」
母親は唇を震わせ、子どもの口を手で覆った。祈りの言葉が出ないように。泣き声が王城へ吸われないように。
黒銀は次へ走った。
神官町の門を抜けると、王都の朝は壊れていた。
扉という扉に白い聖印が浮いている。屋根の上の祝福札が震え、井戸の縁から白い紐が何本も立ち上がる。人々は祈り慣れた膝の形で倒れていた。
祈れば縛られる。
祈らなければ、怖くて声が出ない。
王都は、その間で息を詰まらせていた。
兵が三人、通りの角から駆けてきた。
一人が槍を構える。
「黒い怪物だ! 王城へ近づけるな!」
言い終える前に、その兵の手甲へ聖印が浮いた。
白い祈祷紐が槍を持つ腕へ絡む。兵は槍を落とさないように歯を食いしばった。だが、紐は腕を王城へ引く。肩が嫌な角度に上がる。
「ぐ、ああっ」
黒銀の黒炎が走った。
槍の穂先を噛み、折る。
次に、兵の腕から伸びる祈祷紐だけを切った。
兵は尻餅をついた。
黒銀を見る。
助けられたと分かっている顔。
それでも、口から出たのは別の言葉だった。
「魔王の、穢れ」
黒銀は、その兵を踏まなかった。
許したわけでもない。
ただ、今殺す順番ではなかった。
「立つな」
短く言って、通りを抜ける。
兵は動けなかった。言葉に従ったのか、足が震えて立てなかったのか、自分でも分からない顔をしていた。
角のパン屋では、窯の前で男が倒れていた。
朝焼くはずだったパンが、半分だけ膨らんだまま焦げている。男の両手は祈りの形に組まされ、指の間から白い紐が伸びていた。棚の下には、粉だらけの少女が隠れている。
少女の目は、黒銀を見ていた。
助けを求める目ではない。
見つかったと思った目だった。
黒銀の黒炎が窯の下へ潜る。燃えている炭には触れず、床板の裏に仕込まれた白い釘を噛んだ。釘が抜けると、パン屋の両手から祈祷紐がほどける。
男は倒れたまま、まず少女の方へ手を伸ばした。
黒銀には礼を言わない。
言えない。
少女も、黒い火を怖がって棚の奥へ後ずさった。
黒銀は、それでよかった。
窯の中で、焦げたパンが小さく崩れた。
朝の匂いだったものが、灰の匂いへ変わっていく。
イシュカラが黒銀の横へ並ぶ。
「ずいぶん丁寧に切る」
黒銀は答えない。
「民を恨んでおらぬわけではあるまい」
黒炎が、路地の奥へ伸びた。
戸板の隙間からこちらを見ていた老人の首に、白い祈祷紐が巻きかけている。黒炎は戸板を焼かず、隙間から薄く入り、紐だけを噛んで戻った。
老人は声も出せずに座り込む。
黒銀の足は止まらない。
「恨んでいる」
ようやく、黒銀は言った。
声は乾いていた。
「だから王を殺しに行く」
イシュカラは笑わなかった。
「それで、道の者を拾うか」
「捨てておけなかっただけだ」
その言葉が終わる前に、王城の方角で白い光が膨らんだ。
空へ、翼が出た。
片翼だけだった。
白い羽ではない。祈祷紐と聖印の骨が束ねられ、王城の尖塔から斜めに広がっている。羽根の隙間には、人々の祈る影が薄く重なっていた。
市場にいた者たちが、それを見上げた。
泣きながら、また膝をつこうとする。
身体が勝手に祈りへ戻る。
黒銀の黒炎が石畳を叩いた。
黒い火筋が低く広がり、民の膝と石床の間に薄い壁を作る。祈りの姿勢へ落ちようとした身体が、そこで止まった。
イシュカラは王城の片翼を見た。
フードの奥の目が、細く光る。
「神ではない」
白い翼が、ゆっくり脈を打った。
そのたび、王都のどこかで誰かが息を失う。
「あれは、祈りを食うための口だ」
黒銀は王城へ向き直った。
白い片翼の下で、鐘はまだ鳴っている。




