第028話 黒銀、王都を走る
黒銀は、王都を走った。
屋根の上ではない。
石畳の上を、民の間を、倒れた荷車と祈る身体の隙間を抜けて走った。
王城へ行くなら、屋根を越えた方が速い。
だが、白い祈祷紐は地上に生えていた。掌から、扉から、井戸から、礼拝所の床から伸びていた。上を走れば、下で誰が息を失うか見えない。
黒銀の足元から、黒炎が何本も伸びる。
一本は影の腕のように路地へ入った。倒れた女の足首に絡む白い紐だけを掴み、石畳へ押さえる。
もう一本は低く這い、子どもの口元へ伸びた祈祷紐の先を噛んだ。
三本目は兵の槍に巻きつき、白い聖印ごと柄を折った。
火は人を焼かない。
だが、優しくもない。
用が済めば、切れた白い紐を踏み潰すように煤へ変え、黒銀の影へ戻る。
銀の剣筋は、その奥に一瞬だけ走る。
広い場所では使わない。逃げる者の腕や、抱かれた子どもの髪や、倒れた馬の首に触れる危険がある。
銀は、必要な点だけを断った。
井戸の縁に刻まれた聖印。
街灯の根元へ隠された白い釘。
礼拝所の扉の蝶番に見せかけた祈りの節。
黒炎が押さえ、銀が断つ。
そのたび、王城へ向かう白い流れが一本ずつ切れた。
だが、切った端から別の紐が生える。
王都そのものが、祈りの畑に変えられていた。
「根を追え」
イシュカラが言った。
黒銀の少し後ろを走っている。フードは深く、顔は見えない。だが、足取りは先ほどより重い。
「扉や手首を切っても、また出る。王城から流れた命令が、礼拝所で枝分かれしておる」
「どこだ」
「次の角。小さな祈り場だ。花を供えるだけの場所に、ずいぶん太い管を仕込んでおる」
角を曲がる。
小礼拝所があった。
壁は白く、扉は開いている。中には十人ほどの民が膝をついていた。祈っているのではない。床から伸びた白い紐に、額を石へ押しつけられている。
奥の小さな祭壇が鳴っていた。
鐘の音ではない。
喉を鳴らして何かを飲んでいる音だった。
黒銀の黒炎が祭壇へ伸びる。
途中で、白い羽根のような膜が立った。黒炎を弾く。
礼拝所の床に伏せた老婆が、かすれた声で言った。
「壊さないで」
黒銀の足が止まる。
老婆は床へ額を押しつけられたまま、祭壇を見ていた。
「そこは、息子の名札を置いたところなんです。戦で、帰らなかったから」
白い祈祷紐が、老婆の喉をさらに締める。
黒銀は祭壇を見た。
花。
古い名札。
擦り切れた布。
そこへ重ねるように、白い聖印が刻まれている。王城へ祈りを送る管は、供えられた死者の名札の下に隠されていた。
「黒銀」
イシュカラの声が短い。
壊せ、とも、待て、とも言わなかった。
黒銀は祭壇を焼かなかった。
黒炎が床へ潜る。
石の継ぎ目を這い、名札の下へ回り込む。黒い火舌が白い管だけをくわえ、床の下から引きずり出した。
白い管は生き物の腱のように震えた。
老婆が悲鳴を上げる。
名札は動かない。
花も燃えない。
黒銀が銀の剣筋を下ろした。
管だけが切れた。
切る直前、黒銀の手は一度だけ止まっていた。
名札の紐と、王城へ伸びる白い管が、同じ穴を通されていたからだ。少しでも刃筋がずれれば、息子の名札ごと裂く。壊しても戦いは進む。だが、黒銀は壊さなかった。
黒炎が先に名札を持ち上げ、銀の剣筋が下を通るだけの隙間を作る。
それだけで、数拍を使った。
王城は、その数拍の間にも民を吸っている。
黒銀の奥歯が鳴った。
礼拝所にいた者たちの背が、一斉に緩む。額を床から離せた者が、泣くように息を吸った。
老婆は名札へ手を伸ばす。
指先が震えていた。
「どうして」
黒銀へ向けた声だった。
責めているのか、礼を言っているのか、本人にも分からない声だった。
黒銀の視線は、もう王城大通りへ向いていた。
答える資格がないと思っている顔でもない。
ただ、時間がなかった。
礼拝所を出ると、イシュカラが壁に手をついた。
黒銀は振り向く。
「歩けるか」
「誰に言っておる」
イシュカラは顎を上げた。
だが、指先が少し震えていた。白い術式の流れを読み続けた反動が、少女の身体へ来ている。
黒銀は何も言わず、少し歩幅を落とした。
イシュカラの目が細くなる。
「気遣いなら不要だ」
「遅れるな」
「貴様が遅くしたのだろう。民の首輪を一つ一つ外しておるからな」
黒銀は返さなかった。
大通りへ出る。
王城は近かった。
そのはずだった。
大通りの両側では、祝福旗が勝手にほどけていた。白い布の中から細い祈祷紐が抜け出し、路上へ落ちた人々の手首へ絡んでいく。
黒銀は走りながら、旗竿の根元を切った。
旗は燃えない。
ただ、祝福を名乗っていた白い布だけが煤けて崩れる。
屋根の上から、鐘楼の小鐘が落ちてきた。下には逃げ遅れた男がいる。黒炎が影の腕のように立ち上がり、鐘の縁を横から叩いた。小鐘は軌道を変え、石畳を砕いて転がる。
男は腰を抜かしたまま、黒銀を拝もうとした。
黒炎が、その膝の前を叩く。
祈るな。
言葉にしなくても、男は理解した。
男は組みかけた手をほどき、自分の膝を握った。
広場で新勇者を殺した黒い男を見る目のまま。
その指が震えている間に、黒銀はもう先へ行っていた。
だが、大通りの先に、白い壁が降りていた。
壁ではない。
空に広がっていた片翼の骨が、地上へ突き刺さっている。羽根の一本一本が祈祷紐の束になり、建物の屋根から石畳までを塞いでいた。
白い羽根の隙間で、民が数人、動けなくなっている。
触れるたび、彼らの頬から血の気が引いていく。
王城の門は、その向こうに見えた。
近い。
遠い。
イシュカラが、白い翼壁を見上げた。
「片翼のくせに、よく食う」
黒銀の胸の黒い印が、低く鳴った。
どくん。
白い翼壁も、同じ拍で脈を打つ。
イシュカラはフードの奥で笑った。
笑い声は、少しだけかすれていた。
「道を開けるには、畳ませるしかないな」
白い羽根が震えた。
王都の悲鳴が、その内側で細く鳴っていた。




