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第029話 翼を畳め

白い片翼は、王城へ続く大通りを塞いでいた。


羽根ではない。


骨だった。


祈祷紐が束になり、一本一本の羽根の形を作っている。表面には小さな聖印が無数に浮かび、触れたものから祈りを吸っていた。


兵の一人が、逃げようとして翼壁へ肩をぶつけた。


鎧が白く鳴る。


兵は悲鳴を上げる前に膝をついた。首筋から伸びた祈祷紐が翼へ吸い込まれ、頬から色が抜けていく。


黒炎が走った。


翼壁へ触れる寸前、喉元ではなく、空中へ伸びた白い紐の途中だけを噛み切る。兵は石畳へ転がった。槍を握ったまま震えている。


黒銀は兵を見下ろさない。


白い翼壁だけを見る。


王城の門は、向こう側にある。


近い。


だが、翼を切れば、翼に繋がれた民へ反動が返る。


黒銀の黒炎が低くうなった。


イシュカラは、翼壁の前へ出た。


「下がっておれ」


「足が震えている」


「石畳が悪い」


言いながら、彼女は片膝をついた。


黒銀は、翼壁の内側を見た。


白い羽根の一本に、無数の小さな影が貼りついている。祈った者の影だ。顔までは分からない。だが、肩を丸めた老婆の形、子を抱く母親の形、槍を握ったまま倒れた兵の形だけは分かる。


肉ではない。


息と恐怖と痛みを薄く写した影だ。


それでも、影の奥には王都のどこかで喉を押さえる本体がいる。


王は、彼らを翼にしていた。


翼は空を飛ぶためではない。


王を地上に縫い止めるために広げられていた。


黒銀の黒炎が、翼壁の根元で低く揺れる。


切りたい。


一息で、王城まで道を開けたい。


だが、その奥で貼りついた影が震えるたび、黒炎は牙を引っ込めた。王はそこまで読んでいる。読んだうえで、民を羽根の裏へ縫い込んでいる。


白い翼壁から伸びる細い祈祷紐が、フードの裾へ触れた。布が焼けるように白く変色する。イシュカラの肩が小さく跳ねた。


黒銀の黒炎が、すぐにその紐を噛み切る。


「余計なことをするな」


「触らせるな」


「我が命じる前に切れば、向きが読めぬ」


イシュカラの声は鋭かった。


だが、息は少し乱れている。


少女の身体が、白い術式に近づくたび軋んでいた。喉の奥で短い呼吸が引っかかり、指先が石畳を掻く。爪の下に黒い煤と白い粉が混じった。


黒銀は、彼女の横へ立った。


翼壁から飛び出す細い紐を、黒炎でひとつずつ押さえる。切りすぎない。戻しすぎない。ただ、イシュカラが読むための間だけ、白い祈りの牙を止める。


「王城から来ている命令は単純だ」


イシュカラは、石畳に刻まれた白い溝へ指を置いた。


「祈れ。差し出せ。王へ上げろ。民の恐怖も、息も、痛みも、全部同じ箱へ放り込んでおる」


「畳めるか」


「翼ならな」


イシュカラの指が、白い溝をなぞる。


聖印の文字が、その下から滲んだ。祈りの言葉ではない。命令だった。


広がれ。


覆え。


集めろ。


王を守れ。


イシュカラの口元が歪む。


「神の翼にしては、ずいぶん命令が世俗だ」


彼女は、石畳へ三本の指を置いた。


足元に、黒い王冠の陣が開く。


半分だけだった。


少女の身体に押し潰された、欠けた王冠。


それでも、王都の白い溝が深く鳴った。


フードの奥で、白い髪がふわりと逆立つ。


「――黒冠勅令、第七章」


声は大きくない。


だが、王都の空気が一段沈んだ。


「――天を僭む翼に、夜の軸を」


翼壁に浮かんでいた白い聖印が、ひとつずつ震える。


イシュカラの指先から、黒い魔王文字が石畳へ沈んだ。


「――開かれし羽は閉じ、掲げられし威は墜ちる」


白い片翼が、音もなく軋んだ。


黒銀の黒炎が動く。


羽根には触れない。


骨にも触れない。


民の影にも触れない。


ただ、翼を広げている根元だけを押さえる。


「――空は玉座に属さず、翼は鎖に仕えず」


王城へ向かっていた白い流れが、一拍だけ止まった。


白い命令文が、翼壁の根に浮かぶ。


広がれ。


集めろ。


王を守れ。


その文字が、イシュカラの瞳の中で反転する。


イシュカラの喉が軋んだ。


細い手首に、白い祈祷紐が食い込む。


唇の端に、赤がにじむ。


それでも、魔王の瞳は伏せない。


「――黒き座より、閉じる理を下す」


欠けた王冠の輪が、翼壁の根元へ噛みついた。


羽根ではない。


骨でもない。


民の影でもない。


翼を広げるための、蝶番。


黒い魔王文字が、欠けた王冠の内側で術式名を組む。


閉翼勅令(アーラ・クラウサ)


イシュカラは、白い片翼を見上げた。


本来の身なら、王都ごとの祈祷網を一声で黙らせていた。


今は違う。少女の喉で、蝶番一つへ力を絞る。


『翼を畳め』


大通りの空気が折れた。


白い片翼の先端が震える。


祈祷紐でできた羽根が、一本ずつ内側へ折れていく。羽根の間に挟まっていた民の息が解け、王城へ向かっていた白い流れが乱れた。


轟音ではない。


巨大な紙を濡れた手で畳むような、嫌な音だった。


翼の骨が曲がる。


大通りを塞いでいた白い壁に、細い隙間が開いた。


王城門が見える。


黒銀はイシュカラの腕に絡んでいた祈祷紐を、今度は迷わず切った。


切れた紐の先が、蛇のように跳ねた。


黒銀の頬をかすめ、薄く白い傷を残す。血は出ない。死んだ身体の表面に、ただ白い焦げ跡だけがついた。


イシュカラはそれを見た。


一瞬だけ、眉が動く。


イシュカラの唇が、短い呼び名の形を作った。


だが、白い片翼の軋みに呑まれ、音にはならなかった。


彼女は舌打ちした。


「……黒銀。前を見ろ」


彼女の身体が少し傾く。


黒銀の手が支える。


「我を子ども扱いするな」


「立て」


「命令する相手を間違えておる」


そう言いながら、イシュカラは立った。


唇の端に血がにじんでいた。白い術式に喉を擦られたのだろう。彼女は親指でそれを拭い、黒銀へ見せるように赤を見た。


「この身は、よく血が出る」


黒銀の黒炎が、一拍だけ荒れた。


「怒るな」


イシュカラは低く言う。


「まだ返す相手は、前におる」


その時、王城の鐘が止まった。


一瞬だけ、王都が静かになる。


次の拍で、折れた片翼の内側が白く膨らんだ。


王は、足りなくなった分を取り戻そうとしていた。


市場の方で、子どもの泣き声が細く消える。


井戸端で、老人が胸を押さえて倒れる。


祈祷紐が、さっきより太くなって民へ戻った。


イシュカラの顔から笑みが消えた。


「畳めば、余計に吸うか」


黒銀は王城門を見た。


開いた隙間は狭い。


戻れば、倒れる民を何人か救える。


進めば、根を殺せる。


黒炎が石畳を焦がした。


黒銀は、開いた隙間へ走った。


背後で、白い片翼が内側から軋んでいる。

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