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第030話 まだ勇者の動き

折れた片翼の下を、黒銀は走った。


白い羽根の骨が頭上で軋んでいる。一本が折れるたび、王都のどこかで誰かの祈りが引き千切られたように震えた。


王城門まで、あと少し。


だが、足元に白い紐が何本も走っている。


黒銀は止まった。


止まりたくなかった。


止まれば、王が息をつく。


止まれば、次の民が吸われる。


それでも、石畳に倒れた少年の首へ祈祷紐が絡みついていた。口が青い。指は、もう祈りの形に固まりかけている。


黒炎が黒銀の足元から伸びる。


少年の首に触れないよう、紐の下へ薄く滑り込む。白い編み目を噛み、一本ずつ切る。


少年は息を吸った。


咳き込んで、石畳に涙を落とす。


黒銀はもう見ていない。


次の鎖へ黒炎を飛ばしていた。


イシュカラが、彼の背を見る。


「貴様」


黒銀は返事をしない。


王城門の前に、近衛兵が並んでいた。


数は少ない。


多くは鎖に倒れたのだろう。残った兵たちも、鎧の隙間から白い祈祷紐を伸ばしている。王の命令で立っているのか、王の術式で立たされているのか、もはや分からない。


「王命である!」


隊長らしき男が叫んだ。


声は裏返っている。


「黒き穢れを、城内へ入れるな!」


黒銀は歩みを緩めない。


兵たちが槍を構えた。


槍先が震えていた。敵が怖いのか。背後の王が怖いのか。自分の手首を締める白い紐が怖いのか。


隊長の背後には、王家の旗が立っていた。


白地に金の王冠。


その旗からも祈祷紐が伸びている。兵たちの背中へ、首へ、肘へ。旗は彼らを鼓舞していない。逃げるなと縫い止めている。


隊長の口が、本人の恐怖より先に動いた。


背中の旗から伸びた白い紐が、喉へ入り込んでいる。


王命を声にさせられている。


「退くな! 王の前で恥を晒すな!」


自分の声で、自分を立たせている。


黒銀は旗を見た。


旗の下で震える兵ではなく、旗そのものを。


黒炎が地を這う。


槍の穂先だけを噛む。


金属が黒く煤け、次々に折れた。


兵の腕へは触れない。


折れた槍を握ったまま、兵たちは呆然と立っていた。


一人が恐怖で剣を抜く。


黒銀の影火が先にその剣の鍔へ巻きつき、壁へ叩きつけた。兵の身体も一緒に飛ぶ。石壁に背を打ち、息を吐いて崩れた。


骨は折れていない。


立ち上がるには、しばらくかかる。


それだけで十分だった。


黒炎の一本が、王家の旗竿へ巻きついた。


兵たちが身構える。


黒銀は、旗を燃やさなかった。


旗布の裏に縫い込まれていた白い札だけを引きずり出す。札には祈りの文字ではなく、命令の文字がびっしりと書かれていた。


不退。


献身。


王命優先。


黒炎が札を噛む。


札が砕けた瞬間、兵たちの背中から伸びていた紐がゆるむ。隊長は膝をつき、初めて自分の意思で後ろへ下がった。


黒銀は、そこへ刃を向けない。


「殺さぬのか」


イシュカラが問う。


声は低い。周囲の鐘と悲鳴に紛れ、倒れた兵には届かない。


黒銀は門を見たまま答えた。


「邪魔なら退ける」


「殺せば速い」


「王を殺す方が速い」


イシュカラは、ほんの少し黙った。


そして笑った。


今度の笑いは、皮肉に近い。


「貴様、まだ勇者の動きをしているぞ」


黒銀の足が、わずかに止まった。


白い片翼が頭上で脈を打つ。


王城門の聖印が、彼の胸の黒い印と同じ拍で鳴った。


どくん。


黒銀は振り返らない。


「勇者は死んだ」


「そうだな」


イシュカラの声が、少しだけ柔らかくなる。


「死んだはずの勇者の動きだけが、まだ面倒な場所に残っておる」


黒銀は答えなかった。


答えれば、その言葉に名前が戻る気がした。


勇者なら、その場で兵へ声をかけたかもしれない。


逃げろ、と。


もう大丈夫だ、と。


昔のロアンなら、そうした。


だが、黒銀の口は開かない。助けた者へ名乗る気も、安心させる気もなかった。救ったのではない。王へ届くまで邪魔な鎖を断った。そのはずだった。


それでも、倒れた兵の首が白い紐から解けていくのを、黒銀の黒炎は最後まで確認していた。


彼は門へ近づく。


王城門は白い石でできていた。門扉の中央には王冠と翼を重ねた聖印。その周囲に、細い溝が何重にも刻まれている。


ただの門ではない。


王都中から集めた祈りを、王城内へ通す喉だった。


門の前に倒れた近衛兵たちの鎧からも、白い紐がそこへ伸びている。


黒銀の黒炎が広がった。


今回は、門全体を焼かない。


門の下の影へ潜り、聖印の裏へ回り込む。白い溝の奥で、硬い核が脈を打っていた。


王の命令。


神殿の術式。


民の祈り。


魔王因子の黒い拍動。


全部を混ぜて作った、白く濁った核。


黒炎がそれを押さえる。


銀の剣筋が、黒い火の奥に走った。


一閃。


門の表面では、何も起きなかったように見えた。


次の瞬間、門に刻まれた翼紋だけが縦に割れた。


空の片翼ではない。


王城へ祈りを通す喉。


その門核だけを、黒銀は断った。


白い溝から光が噴き出し、すぐに黒く染まる。王城へ伸びていた祈祷紐が、門の前で次々にほどけた。


倒れていた近衛兵たちが、一斉に息を吸う。


誰かが黒銀を見た。


恐怖と、理解できない救命の間で、目だけが揺れている。


黒銀は、その視線を置いていった。


門が開く。


重い音だった。


中は暗い。


外の王都が白く鳴り、悲鳴を上げているのに、門の内側だけは異様に静かだった。


王が、兵を退けている。


待っている。


イシュカラはフードをかぶり直した。


「この先で、あやつは名を武器にするぞ」


黒銀は門の闇を見た。


門の向こうから、白い光は漏れていない。


暗い。


王都中を白く縛っているくせに、王のいる場所だけが黒く沈んでいる。その暗さが、黒銀の胸の印と同じ拍でゆっくり鳴っていた。


白い石の冷気が、門の隙間から足元へ流れてくる。


冷たい。


どくん。


外では民が息を奪われている。


内では王が待っている。


「呼ばせるな、ではない」


イシュカラが低く言う。


「呼ばれてやるな」


「俺が止める」


黒銀は王城へ入った。


背後で、折れた槍と、切れた祈祷紐と、まだ息を取り戻せない民の声が残った。


門は、ゆっくり閉じていく。

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