第031話 玉座の偽神核
王城の内側に、兵はいなかった。
長い回廊に、足音だけが響く。
壁には歴代王の肖像が並んでいる。どの顔も、こちらを見ていた。金の額縁。白い衣。胸に重い勲章。王国を守った者たちの顔として飾られている。
その下を、黒銀は歩いた。
絨毯は赤い。
白い神殿の床に落ちた赤とは違う。最初から血の色に染めた、王のための道だった。
イシュカラは黙っている。
王城へ入ってから、外の悲鳴は遠くなった。聞こえないわけではない。壁の向こうで薄く震えている。だが、玉座へ続く回廊では悲鳴さえ礼儀を守らされているようだった。
玉座の扉が見えた。
大きな扉だった。
白い翼と王冠が彫られている。翼の下には、民が膝をつく小さな浮き彫りが並んでいた。
黒炎が扉の縁へ伸びる。
触れる前に、扉は内側から開いた。
玉座の間には、王だけがいた。
側近も、近衛も、神官もいない。
玉座の高みに、老いた男が座っている。王冠は頭にない。肘掛けの上に置かれていた。王はそれを片手で押さえ、もう片方の手で杖を握っている。
扉が閉じた。
外の音が消える。
厚い沈黙が、玉座の間に落ちた。
王は、黒銀を見た。
長い間、そうしていた。
まるで、見知らぬ怪物を初めて見る目ではない。
古い記録の余白を確かめる目だった。
「ロアン・ノール」
名が、玉座の間に落ちた。
黒銀の足元で、黒炎が一拍だけ濃くなる。
イシュカラの指が、フードの内側で動いた。
「そう呼ぶことを、そなたは嫌うか」
黒銀の目は動かない。
王は小さく笑った。
「嫌うだろうな。死体に戻した名だ。こちらも、公には二度と使うつもりはなかった」
黒銀が一歩進む。
玉座の段の下で、白い聖印が薄く光った。
王は杖で床を軽く打つ。
「止まれとは言わぬ。そなたは、止まる男ではなかった」
古い親しみのような言い方。
だが、そこに温度はない。
「セヴランからは、よく報告を受けていた。対象A。処理前名、ロアン・ノール。対象B。処理前名、リネア・ノール」
王の視線が、黒銀の横へ移る。
フードの少女へ。
「妹の身体も、そこにある」
空気が冷えた。
黒銀の黒炎が床を噛む。
イシュカラは、まだフードを外さない。
王は続ける。
「案ずるな。外には聞こえぬ。余が人払いをした。兵にも神官にも、そなたらの名を聞かせる価値はない」
「価値」
黒銀が、初めて声を出した。
王の眉がわずかに動く。
「価値だ。名は民の耳へ入ると厄介な種になる。勇者の名など、なおさらだ」
王は、扉の方へ目をやった。
「この扉の外にいる者は、黒い災いが来たとしか知らぬ。神殿の地下で何が動き、誰の身体が残り、誰の名を消したかなど知らぬままでよい。民は真実で動かぬ。分かりやすい恐怖と、分かりやすい救いで動く」
黒銀の黒炎が、扉の隙間を一瞬だけ黒く染めた。
外へ声は漏れていない。
この部屋は、王が作った秘密の箱だった。
秘密のまま、人を殺すための箱。
王は肘掛けの王冠を撫でた。
「そなたは強かった。強すぎた。魔王を倒し、民に見られ、歌にされた。王国の剣であるべき者が、王国より先に愛される。それは危うい」
「だから殺した」
「処理した」
王の声は静かだった。
「魔王因子を宿した者を、民の前で浄化する。王国は穢れを許さぬと示す。妹の身体は研究に回す。勇者人気は偽勇者へ移す。すべて、王国を保つための処置だ」
黒銀の黒炎が、床の赤い絨毯を焦がした。
火は広がらない。
王の言葉だけを聞いていた。
「そなたの怒りは分かる」
王は言った。
「だが、王は個人の怒りで国を動かさぬ。余は、余の椅子を守っただけだ」
「民を燃やしている」
「民は王のためにいる」
即答だった。
迷いがない。
黒銀の目が細くなる。
王は、そこで初めて少しだけ息を乱した。
恐怖ではない。
王の身体が、玉座の下から上がってくる何かを受け始めたのだ。
どくん。
玉座の床下が鳴った。
黒い拍動。
それを包む白い祈り。
玉座の石の継ぎ目から、細い光が漏れる。白い光の中に、黒い脈が混じっている。神殿地下で見た魔王因子の反応に似ていた。だが、玉座の下では王冠の形へ曲げられ、偽神核の奥で鳴っている。
イシュカラが低く笑った。
「貴様らは、本当に飽きぬな。魔王の標まで、玉座の飾りにするか」
王の視線が動く。
フードの奥の声へ。
「魔王か」
「まだそう呼ぶ舌があるか、王」
王は答えず、玉座の肘掛けを握った。
白い光が腕へ上がる。
老いた皮膚の下で、黒い筋が一本、また一本と浮かぶ。
王は苦痛に顔を歪めた。
だが、手を離さない。
「セヴランは、神を作ると言った」
王の声が太くなる。
喉の奥に、別の音が混じり始めていた。
「神でなくともよい。王が、王であり続けるなら」
「最終報告は聞いていないはずだ」
イシュカラが言った。
王は、苦痛に歪む顔で笑った。
「最終など要らぬ。余が欲しかったのは、そなたらの名ではない。そなたらの反応だ。死んでも動く勇者。妹の身体に宿った魔王の標。民の祈りに繋がる導線。そこまで聞けば、王には十分だ」
「十分、だと」
「王は研究者ではない。使えるかどうかを決める者だ」
王の手が、玉座の肘掛けを握り潰すように沈んだ。
その声には、恥じる響きが一つもなかった。
ただ、急ぐ者の息だけがあった。
金具が軋む。
「セヴランが細部を欲しがるなら、それは学者の病だ。余は違う。国は、完全な答えを待っている間に老いる。王も老いる。ならば、不完全な神でも先に被る」
玉座の背後で、白い片翼の影が広がる。
外の王都から、無数の祈祷紐が見えない壁を通って集まってきた。
黒銀は一歩踏み出した。
王は笑う。
「来い、処理に失敗した勇者」
玉座の下の偽神核がもう一度鳴った。
どくん。
玉座が低く軋んだ。
その拍に合わせて、王の背に白黒の冠が浮かび始めた。




