第032話 勇者と魔王を敵に回した王
白黒の冠が、王の背に浮かんだ。
本物の王冠ではない。
王都から引き上げられた祈祷紐が、玉座の背で輪を作っている。白い祈りの外側に、黒い拍動が絡む。神殿地下で見た魔王因子の鼓動を、無理やり王冠の形へ押し曲げたものだった。
王の肩が震えた。
老いた身体には、重すぎる力だ。
だが、王は肘掛けから手を離さない。爪が割れ、玉座の金具に赤がにじんだ。それでも、口元には笑みを残している。
「見るがよい」
王の声は、少しずつ低く太くなっていた。
「民が祈る。王が受ける。これが国だ」
王の足元で、赤い絨毯が白く染まり始めた。
染みではない。
絨毯の織り目一本一本に祈祷紐が入り込み、王へ向かって毛並みを逆立てている。玉座の段は喉のように開き、王都から来る息を飲み込んでは王の背へ送った。
そのたび、王の老いた胸が大きく上下する。
吸っている。
王都を。
玉座の間の壁に、白い影が走る。
王都の家々。
市場。
兵舎。
小さな礼拝所。
そこから伸びる祈祷紐が、見えない壁を越えて王へ流れ込む。紐の中には、祈りだけではなく恐怖も混ざっていた。息の浅さ。痛み。助けを求める声。王はそれらを区別せず、同じ光として飲んでいる。
黒銀の黒炎が床を這った。
王へ届く前に、白い祈りの盾が立つ。
盾の表面に、民の影が浮かんだ。
老婆。
兵。
子ども。
黒銀の黒炎は止まった。
王が笑う。
「切れまい。そなたは、そういう男だった」
黒銀の目が細くなる。
「知った口を利くな」
「知っているとも。余は報告を読んだ。勇者ロアン・ノールは、守るものがあれば前へ出る。妹がいれば、さらに単純になる」
王の視線が、イシュカラへ移った。
「リネア・ノールの身体も、まだ有効だ。セヴランが死んだのは惜しい。だが、動いているなら使える」
その瞬間、イシュカラがフードに手をかけた。
黒銀は止めなかった。
玉座の間は閉じている。
扉は厚く、外には誰もいない。
それを見た者は、王だけだ。
イシュカラは、フードを外した。
白い髪が、煤けた外套の上へ落ちる。
少女の顔。
公開浄化の日、王城の高窓から王が見下ろした娘の顔。
だが、その瞳だけが違った。
古く、深く、王より長い夜を知っている目。
王の笑みが、初めて止まった。
「その顔で」
声が、わずかにかすれる。
「その目をするな」
イシュカラは、静かに王を見た。
「我が目だ」
「妹の身体だ」
「貴様らがそうした」
玉座の間の空気が重くなる。
王の背の白黒の冠が、軋んだ。
イシュカラは一歩前へ出る。少女の足取りだった。だが、王を見る目は、かつて王国が討った魔王のものだった。
「我は敵を殺した」
低い声が、玉座の石に染みた。
「城を焼いた。恐れさせ、従わせ、逆らう者を踏み潰した」
王は唇を結んだ。
「魔王が、人の道を語るか」
「語らぬ」
イシュカラは即座に返した。
「我は人の道など知らぬ。善など名乗らぬ。恨まれるだけのことをした」
少女の声だった。
だが、玉座の間へ落ちたのは、王の声だった。
「だがな、ダルバ」
イシュカラの瞳が、古い夜の色に沈む。
「王冠とは、己が被るものだ」
王の背の白黒の冠が、軋んだ。
「貴様はそれを、自分では被らなかった」
一歩、イシュカラが前へ出る。
「勇者の首に掛けた。民の喉に掛けた。死者の身体にまで掛けた」
彼女の声が、さらに低くなる。
「それは王冠ではない。ただの首輪だ」
王の口元から、笑みが消えた。
「我は魔王だ。民を慈しむなどと、口が裂けても言わぬ」
イシュカラは言った。
「だが、王冠を首輪に変える王ではない」
王の顔から、少しずつ血の気が引いた。
恐れている。
魔王が怖いのではない。
自分が利用物として数えたものが、名と意思を持って立っていることが怖いのだ。
黒銀は、王のその顔を見た。
王は、ようやく理解し始めていた。
勇者を処理したのではない。
魔王の標を利用したのではない。
王は、勇者と魔王を同時に敵に回した。
「黙れ」
王の声が荒れた。
初めて、王らしい静けさが剥がれた。
「余は王だ。王である余が使うなら、それは国のためだ。勇者も、妹も、魔王の残り火も、民の祈りも、すべて王座へ納めてこそ秩序になる」
玉座の背後で、白い片翼がさらに広がった。
折られたはずの羽根が、王の背へ集まっていく。
王は両手を広げた。
「ならば、まとめて余が受ける」
王都中の祈祷紐が、強く引かれた。
玉座の間の壁に浮かぶ民の影が、苦しそうに歪む。
黒銀の黒炎が跳ねた。
王は笑う。
「怒るか。よい。怒りもまた、力だ」
白黒の冠が、王の頭上へ降りる。
冠だけではない。
背から翼骨が生えた。白い祈りでできた骨の間を、黒い拍動が流れる。王の老いた肌が内側から光り、しわの溝に黒が滲んだ。
王の内から湧いた力ではない。
玉座の下で歪められた拍動を、王が皮膚の上から被っている。
若返らない。
美しくもならない。
ただ、王という形の上に、民の息を塗り重ねた怪物になっていく。
イシュカラが、フードを握りしめる。
「偽神を、自分へ被せおったか」
王の目が白く濁った。
だが、その奥にあるものは神ではない。
老いへの恐怖。
玉座を失う恐怖。
民に忘れられる恐怖。
それだけが、黒い拍動に乗って膨らんでいた。
黒銀は右手を上げた。
銀の剣筋が、黒炎の奥で細く光る。
王は、白黒の翼を広げる。
「来い」
声はもう、人の喉から出る音ではなかった。
「余が、王国そのものだ」
黒銀は踏み出した。
「なら、玉座ごと終わらせる」
王の翼骨が、先に動いた。
白い骨が玉座の間の天井を掠め、石粉を降らせる。黒銀は低く身を沈めた。頭上を通った翼骨の下から、白い祈祷紐が何本も垂れ、彼の腕を縛ろうとする。
黒炎がそれを噛む。
噛んだ瞬間、紐の向こうで民の影が苦しげに歪んだ。
黒銀の黒炎が止まる。
王は、その止まり方を見て笑った。
白い歯だけが、老いた顔の中で浮く。
「やはり、そなたは刃を鈍らせる」
黒銀は、笑い返さない。
代わりに、足元の黒炎を薄く広げた。民の影へ触れない厚さで、祈祷紐の下だけを探る。白い糸の束が、どこで王へ繋がり、どこで民へ返るのかを探している。
王は、それを待たない。
二本目の翼骨が、横から来た。
玉座の間で、白と黒がぶつかった。




