第035話 焼け跡の袖
壇が沈んだ跡だけが、まだ白かった。
黒く焦げた石畳の中で、そこだけが閉じた継ぎ目を残している。
火に舐められた白い石の縁は欠け、聖印の彫りは半分ほど煤で埋まっていた。それでも、沈んだ壇の輪郭だけは薄い白を残していた。そこへ落ちた血も、灰も、叫びも、洗われたように見えた。
洗われただけだ。
消えたわけではない。
黒銀は、その前に立っていた。
王は死んだ。
大神官も死んだ。
聖女も、偽勇者も死んだ。
壇を作った者。壇へ運んだ者。壇の前で、処刑を祈りに変えた者。壇の上で名を奪った者。
殺せるものは、殺した。
それでも、白い光へ消えた妹は戻らない。
黒銀の外套の裾を、灰が撫でた。
止まった鐘楼の影が、広場の石畳に斜めに落ちている。鐘は割れたまま揺れない。人々の声も、まだ広場までは戻ってこなかった。
王都はまだ息をしていた。
祈りの鎖はほどけた。
手首を縛っていた白い跡だけが、民の肌に残っている。
だが、この跡は残った。
黒銀は動かない。
イシュカラも、隣で足を止めていた。
フードの奥で、彼女の息が一度だけ乱れる。
黒銀は見ない。
顔は妹のものだった。
息遣いも、袖を掴む指の細さも。
けれど、その奥で黒く笑う瞳は、魔王のものだった。
どちらかだけを本物と呼べば、残った方をまた殺す気がした。
イシュカラの指が、ゆっくり動いた。
細い指先が空を探る。
何かを押し返すように一度止まり、それでも抗いきれず、黒銀の袖を掴んだ。
布が、小さく鳴った。
黒銀は振り払わない。
イシュカラの指は強くない。縋るほどではない。ただ、離せなくなったように、袖の端を掴んでいる。
彼女の喉が震えた。
声にならない呼び名が、そこで潰れた。
音にはならなかった。
黒銀は、壇跡を見たまま言った。
「歩けるか」
イシュカラは答えない。
袖を掴む指が、わずかに強くなる。
それから、彼女は短く息を吐いた。
「……この身が、勝手に覚えていただけだ」
魔王の声に戻そうとした声だった。
だが、戻りきらなかった。
「残ったものが揺れた。深い意味はない」
黒銀は頷かない。
慰めない。
名を呼ばない。
ただ、袖をそのままにした。
「そうか」
それだけ言った。
イシュカラは黒銀を睨もうとした。フードの奥で目だけが上がる。けれど、その目もすぐ壇跡へ落ちた。
白い石の継ぎ目の上に、誰もいない。
妹は立っていない。
声を封じられた兄も、もういない。
あるのは焼け跡と、灰と、袖を掴む指だけだった。
しばらくして、イシュカラの指がほどけた。
完全には離れない。
袖を掴んでいた跡に、彼女の指先が触れている。
黒銀は、それ以上待たなかった。
一歩、壇跡から離れる。
イシュカラも歩いた。
遅れはしない。
ただ、黒銀の横ではなく、半歩後ろだった。
神官町の道は、崩れた白壁の粉で霞んでいた。
礼拝堂の扉は割れ、階段には折れた祈祷杖が転がっている。白い法衣を着た者たちは、壁際に寄って黒銀を見た。
誰も祈らない。
誰も礼を言わない。
手を組もうとして、途中で下ろす者がいた。
口を開きかけて、唇を閉じる者がいた。
彼らの目は、助けた者を見る目ではなかった。
広場で偽勇者を殺した黒い男。
王城から戻ってきた黒い影。
白い片翼を消した何か。
そのどれかであり、どれでもなかった。
黒銀が歩くと、人が道を開ける。
礼ではない。
恐怖で退いているだけだ。
イシュカラはフードを深くかぶり直した。頬の赤い傷は隠れない。隠しきれないまま、彼女は民の視線を受け流した。
道端に座り込んでいた女が、抱えた子どもの目を片手で覆った。
その子どもは、指の隙間から黒銀を見ていた。
泣かない。
泣けば見つかると知っている顔だった。
黒銀は足を止めない。
母親の前の石畳に、白い祈祷紐の切れ端が残っていた。まだ薄く光っている。黒銀の影がかかると、その光は細く縮んだ。
黒炎は出ない。
黒銀は何も焼かなかった。
祈祷紐は、風に押されて側溝へ落ちた。
王都の大通りへ出ると、空が広くなった。
王城の上にあった片翼はもうない。代わりに、灰色の雲が低く垂れている。塔の頂は崩れ、王旗は半分だけ残っていた。
王の旗も、新勇者の旗も、風を掴めずに裂けている。
兵たちは門の近くに集まっていた。
命令する者がいない。
祈る者もいない。
剣を抜く者もいなかった。
ひとりの若い兵が黒銀を見て、肩を震わせた。手は剣の柄へ伸びかける。だが、柄に触れる前に止まった。
兵の目は、黒銀の外套ではなく、その横のフードの少女へ移る。
すぐに逸れた。
何かに気づいたわけではない。
ただ、見てはいけないものを見た顔だった。
黒銀は通り過ぎる。
王都の門は開いていた。
門番の姿をした兵はいた。
だが、門を閉じる命令はもう残っていなかった。
門の上に残った聖印は、中央から割れている。白い粉が風に削られ、少しずつ落ちていた。
門を出る前に、イシュカラが口を開いた。
「行くあてはあるのか」
黒銀は、王都の外へ続く道を見た。
遠く、焼けた丘の向こうに、崩れた城の影がある。
かつて魔王がいた場所。
王国が恐れ、勇者が向かい、すべてが始まった場所。
黒銀はそこへ歩き出した。
「貴様」
イシュカラの声が少し低くなる。
「我の城へ行くつもりか」
「城と呼べるものが残っているならな」
「残っておらぬ」
「なら、跡だ」
イシュカラは鼻で笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「勝手な男だ」
黒銀は否定しない。
門を越えた。
王都の石畳が土の道に変わる。
足音が変わった。
黒銀の重い足音。
イシュカラの軽い足音。
その後ろに、別の音が混じった。
小さい。
ひとつではない。
距離を置いて、止まり、また進む。
黒銀が振り向かなくても分かった。
子どもの足音だった。
イシュカラが後ろを見る。
門の影に、何人かの子どもがいた。
神官町で見た顔。
礼拝堂の隅にいた顔。
市場の倒れた屋台の下から這い出てきた顔。
人間の子ばかりではなかった。
耳の形を布で隠した子がいる。
尾を外套の下へ押し込んでいる子がいる。
裸足の子がいる。
包帯を巻いた子がいる。
まだ白い跡の残る手首を、もう片方の手で握っている子がいる。
首に、白い細い輪を残した子もいた。
神殿の管理輪だった。
誰も近づかない。
誰も声をかけない。
逃げる準備を残したまま、ついてきている。
イシュカラは黒銀を見る。
「ついて来ておるぞ」
「追い払わぬのか」
黒銀は、門の影へ一歩だけ戻った。
首の輪を残した子が、逃げようとして転んだ。
白い輪が石に当たり、乾いた音を立てる。
黒炎が、黒銀の足元から細く伸びた。
子どもは目を閉じる。
火は肌に触れない。
白い輪の留め具だけを噛んだ。
かちり、と音がした。
首輪が落ちる。
子どもは、落ちた輪を見た。
次に黒銀を見た。
礼は言わない。
黒銀も何も言わない。
ただ、歩き出した。
後ろの足音が、一度止まる。
彼が何かを言えば、散るだろう。
黒炎を牙のように立てれば、二度と近づかないだろう。
王都へ戻れと言えば、戻るかもしれない。
戻る場所があるなら、最初から門の外まで来ない。
黒銀は振り向かなかった。
風が吹く。
王都の灰が門の外まで流れてきて、土の上に薄く落ちた。
黒銀は歩く。
少しだけ、歩幅が狭くなっていた。
イシュカラはその隣へ戻った。
後ろの子どもたちは、まだ距離を詰めない。
それでも、離れもしない。
黒い外套の後ろを、小さな足音がついてくる。




