第034話 王国の終わり
王は、床を這った。
赤い絨毯の上を、老いた手が掻く。
王冠は少し先に転がっている。金の輪は横倒しになり、玉座の段の下で止まっていた。王はそれへ手を伸ばす。指先は届かない。
王冠の内側には、汗の跡が残っていた。
宝石はまだ光っている。
だが、その光はもう誰にも命令しない。赤い絨毯の毛に引っかかり、横倒しの輪として転がっているだけだった。
さっきまで背にあった白黒の翼は、もうない。
玉座と王を繋いでいた輪もない。
残ったのは、薄い髪と、震える肩と、赤い絨毯に爪を立てる老人だけだった。
「待て」
王の声はかすれていた。
「待て。余を殺せば、国が乱れる」
黒銀は段を上がらない。
ゆっくり、床へ落ちた王の方へ歩く。
王は這った。
王冠へではない。
黒銀から離れるために。
「セヴランだ」
王は言った。
「大神官が進めた。余は報告を受けただけだ。術式も、妹の身体の処置も、あれが」
黒炎が、王の逃げる先の絨毯を焦がした。
王の手が止まる。
「イヴェナもいた。神殿が、神殿がそう言ったのだ。魔王因子は危険だと。民の不安を鎮めるには、公開の浄化が必要だと。余は王として」
「王として」
黒銀が繰り返した。
王は、その言葉にすがった。
「そうだ。王としてだ。国を保つためだった。だから、取引をしよう」
赤い絨毯の上で、老いた手が滑った。
汗で濡れた指が、王冠ではなく床を掻く。
「金をやる。土地もやる。爵位もだ。望むなら、王都の半分をくれてやる」
黒銀は、王の口だけを見ていた。
王は、その沈黙を許しと間違えた。
「民も出す。何人でもよい。神官でも、貴族でも、兵でも、好きなだけ処分すればいい。そなたの怒りが収まるまで、余が許す」
黒炎が、絨毯の毛先を焦がした。
王は気づかない。
鼻水が唇まで落ち、歯の隙間の唾と混ざった。
「妹が要るなら」
そこで、空気が変わった。
イシュカラの瞳が、冷えた。
王はそれにも気づかず、這いながら続けた。
「似た娘を探させる。白い髪でも、年頃でも、いくらでも集める。血筋が欲しいなら、血を調べさせる。好きにすればいい。だから、余だけは――」
黒銀の足が止まった。
止まっただけだった。
怒鳴らない。
踏み潰さない。
ただ、王を見る目から、最後の会話が消えた。
「終わりだ」
王の口が、まだ何かを差し出そうとした。
金。
土地。
民。
子ども。
名。
王冠。
どれも、口の端で泡になって崩れた。
残ったのは、前に言った言い訳だけだった。
「違う。あれは、必要な」
「必要だったか」
黒銀の声は、低い。
「妹の喉に縄をかけることが」
王は口を開けた。
答えは出ない。
代わりに、王はイシュカラを見た。
玉座の間の端で、フードをかぶり直した少女が立っている。頬の赤い傷は、まだ乾いていない。彼女は王を助けない。止めもしない。
王は、その顔を見た。
リネア・ノールの面影。
その奥にある、魔王の目。
王の唇が震えた。
「余は、知らなかった」
嘘だった。
玉座の間に、嘘だけが軽く浮いた。
イシュカラが短く笑う。
「王よ。嘘をつくには、少し遅い」
王の顔が歪む。
「余は、王だ」
その声は小さかった。
自分に言い聞かせる声だった。
「王は死なぬ。王は国だ。余が死ねば、民は」
「民を盾にするなと言った」
黒銀が一歩近づく。
王は後ずさろうとして、黒炎に阻まれた。
背中が玉座の段に当たる。
逃げ場はない。
「ロア」
王の口が、その名の形を作った。
黒炎が王の喉元へ巻いた。
締めない。
ただ、声を外へ出さない。
王の目が見開かれる。
ようやく、自分が何をしようとしたか理解した顔だった。
名へ縋ろうとした。
人として殺した男の名へ。
王として処理したはずの死者へ。
黒銀は、王の前に立った。
「その名を呼ぶな」
王は何かを言おうとした。
許し。
命乞い。
取引。
後継。
どれも、喉元の黒炎に触れて声にならない。
黒銀の右手が上がる。
黒炎の奥に、銀の剣筋が走った。
王は両手を上げた。
それは祈りの形にも、降伏の形にも見えた。
だが、誰も祈っていない。
銀の剣筋が落ちた。
王の首が、赤い絨毯へ落ちる。
王冠ではない。
王の首だった。
身体は、玉座の段にもたれて崩れた。上げたままの手だけが、少し遅れて床へ落ちる。
落ちた手は、まだ王冠の方へ伸びていた。
指先は届かない。
開いた目も、民ではなく、金の輪の方を向いていた。
開いた口は、まだ言い訳の形をしていた。
黒銀の頬に、赤がひとつ散った。
彼は拭わなかった。
玉座の間が揺れた。
王が死んだ瞬間、壁の中を走っていた白い祈祷紐がほどけ始めた。
一斉に消えたのではない。
まず、玉座の間。
次に王城の回廊。
それから大通り。
遅れて、市場と兵舎と神官町の外れ。
王都は、長い息を吐くように沈黙していった。
塔の鐘が、内側から割れる。
遠くで、鐘楼が崩れる音がした。
王城の上に広がっていた片翼が、空でほどけていく。白い羽根の骨は光の粉になり、黒い拍動は煤になって落ちた。
玉座の下の偽神核も鳴らなくなる。
どくん。
最後の一拍だけが、床の奥で低く響いた。
それから、沈黙した。
王都では、人々の手首から白い紐が遅れてほどけていた。
手首に残った白い跡を見つめる者がいた。
喉を押さえたまま、まだ祈れずにいる者がいた。
救いは、一瞬では来なかった。
ただ、王へ吸われる痛みだけが止まった。
市場の母親は、子どもを抱きしめたまま空を見た。兵舎の若い兵は、自分の腕が動くことを確かめて泣いた。小礼拝所の老婆は、息子の名札を胸に押し当てた。
誰も、何が終わったのか分からない。
王城の上から白い片翼が消え、黒い影が一つ、城門を出てきたことだけを見た。
黒銀は名乗らなかった。
王を殺したとも言わなかった。
勇者の名も、妹の名も、民へ返さなかった。
イシュカラはフードを深くかぶって、彼の少し後ろを歩く。
王都は、助かった後の息をしていた。
それは感謝の声ではない。
混乱と恐怖と、まだ祈ってよいのか分からない沈黙だった。
黒銀は、その中を抜ける。
途中、門前にいた近衛兵が黒銀を見た。
兵は膝をつきかけた。
礼ではない。
降伏でもない。
王命を聞けば膝を折るように仕込まれた身体が、命令を失ってもまだ同じ形を取ろうとしていただけだった。
黒銀の黒炎が、兵の前の石畳を軽く焦がす。
膝は止まった。
祈るな。
黒銀は言わない。
だが、兵は顔を伏せたまま、二度と手を組まなかった。
誰も、彼を止めなかった。
止める王命が、もうなかった。
城門の外では、王都が夕方の色へ沈み始めていた。
朝に鳴っていた鐘は割れている。
白い片翼は空から消えている。
石畳には、ほどけた祈祷紐の切れ端だけが残っていた。
市場の隅で、潰れた果物が甘い匂いを放っていた。
誰かが拾うはずだった花が、白い泥にまみれている。
新勇者の旗は裂けたまま、屋根の端に引っかかっていた。
道端で、小さな子どもが、割れた木剣を抱えていた。
新勇者の祭りで買ってもらったものだろう。
柄には、白と金の紐がまだ結ばれている。
黒銀が通ると、子どもは木剣を背中へ隠した。
黒銀は見なかったことにした。
見れば、また何かが残ってしまう。
神官町へ戻った。
白い門は半分崩れている。
礼拝堂の鐘は止まっていた。
広場の中央に、浄化壇跡があった。
白い壇そのものは沈み、残っているのは縁を囲んでいた白い石と、閉じた継ぎ目だけだった。
火に舐められた石は欠け、聖印の彫りは半分ほど煤で埋まっている。
それでも、そこだけは薄く白かった。
かつて、勇者を殺した場所。
かつて、妹が兄を見て泣いた場所。
王は死んだ。
大神官も、聖女も、偽勇者も死んだ。
だが、そこにはまだ、壇が沈んだ跡だけが残っている。
黒銀は、その前で足を止めた。
イシュカラも止まる。
風が吹いた。
灰が、二人の足元を薄く撫でていく。
黒銀は、閉じた継ぎ目を見ていた。
そこに、白い光へ消えた妹だけは、戻らなかった。




