第036話 灯りのある魔王城
王都の鐘は、もう聞こえなかった。
代わりに、土を踏む音がある。
黒銀の足音。
イシュカラの足音。
その後ろで、遅れてついてくる小さな足音。
日が傾くにつれて、王都の白い壁は遠くなった。門も、鐘楼も、崩れた王城の影も、灰色の霞の向こうへ沈んでいく。
誰も追ってこない。
誰も呼び止めない。
呼び止める名を、王都はもう持っていなかった。
道は荒れていた。
魔王城へ続く旧道は、長く人に使われていない。石畳は割れ、草が隙間から伸びている。ところどころに、昔の戦で焼けた荷車の軸だけが残っていた。
子どもたちは、その道を歩き慣れていない。
裸足の子が石を踏んでよろめく。
包帯を巻いた子が、その肩を支える。
一番小さな子は何度も止まり、王都の方を振り返った。戻れば暖かい寝床があるわけではない。それでも、知らない暗がりへ進むより、見知った白い壁の方がまだ形を持っている。
黒銀は振り返らない。
だが、歩く速さは落ちていた。
イシュカラが横目で見る。
「貴様、歩幅を変えたな」
「足場が悪い」
「我を子ども扱いするな」
「お前じゃない」
イシュカラは後ろを見た。
子どもたちは、目が合うとすぐ下を向いた。逃げる準備はまだ残っている。けれど、離れはしない。
イシュカラは小さく息を吐く。
「面倒なものを拾った」
「拾ってない」
「では何だ」
黒銀は、前を見たまま答えた。
「ついてきただけだ」
夕暮れの先に、黒い影が見えた。
魔王城跡。
尖塔の半分は折れ、外壁は大きく裂けている。かつて門だった場所には、巨大な扉の片側だけが斜めに残っていた。城というより、黒い骨が山肌に刺さっているように見えた。
子どもたちの足音が止まる。
一人が、小さく言った。
「魔王の城……」
声は震えていた。
王都で聞かされた昔話の中では、そこは近づくだけで魂を食われる場所だったのだろう。黒い壁。魔の玉座。人を殺す王。
黒銀は、その影へ歩いた。
イシュカラも続く。
数歩遅れて、子どもたちも歩き出した。
門の下には、古い骨ではなく、折れた槍と砕けた盾が埋まっていた。風雨に削られ、もう紋章も読めない。王国のものか、魔王軍のものか、今となっては区別がつかなかった。
黒銀は、倒れかけた門柱に手をかける。
石が軋んだ。
そのまま押すと、瓦礫が崩れて道を塞ぐ。
黒銀は右手を上げた。
剣はない。
黒炎も出ない。
黒の奥に残った銀の剣筋だけが、一度走る。
倒れた梁が、音もなく二つに分かれた。遅れて、片側が地面へ落ちる。土埃が上がり、門の奥に人ひとり通れる隙間ができた。
「入るなら入れ」
黒銀は言った。
振り向かない。
命令でもない。
誘いでもない。
ただ、追い返す言葉ではなかった。
最初に動いたのは、包帯の子だった。小さな子の手を引き、門の影へ入る。すぐに逃げられるよう、身体を半分だけ内側へ入れたまま止まった。
次に、裸足の子が入る。
それから一人。
また一人。
誰も礼は言わない。
顔を上げる者も少ない。
それでよかった。
魔王城の大広間は、天井の半分が落ちていた。
夜の色が、割れた屋根から入り込んでいる。壁に残る古い魔法陣は傷だらけで、黒い石柱は根元から折れていた。奥には王座がある。
いや、あった。
背もたれは砕け、肘掛けの片方は床に転がっている。王座の前に敷かれていた黒い布は、灰と雨で固まっていた。
イシュカラは、黙ってそれを見た。
魔王の城。
魔王の王座。
かつて、別の姿のイシュカラが座っていた場所。
黒銀は、そこへ向かわなかった。
王座の前を通り過ぎ、広間の入口近くに戻る。倒れた石を蹴り、壁際の瓦礫をどけた。子どもたちが雨を避けられるだけの場所を作る。
イシュカラが言う。
「そこが座る場所ではないぞ」
「知っている」
「王座は奥だ」
「座らない」
イシュカラの目が、少しだけ細くなる。
「勇者でも、王でもないからか」
黒銀の視線は、奥の壊れた王座を過ぎた。
答えなくても、その空席が答えていた。
子どもたちは壁際に固まっている。
火はない。
夜は早い。
王都から運ばれてきた灰が、まだ服に残っている。小さな指が震え、白い跡の残る手首が袖の中へ隠された。
イシュカラは広間を見回した。
古い燭台が、柱の根元に倒れている。銀でも金でもない。黒い鉄で作られた、魔王城の燭台だった。半分は錆び、半分は煤で固まっている。
イシュカラはそれへ歩いた。
「まったく」
倒れた燭台に触れる。
指先の下で、黒い魔王文字が薄く浮いた。消えかけの文字だった。
敵を拒め。
命を奪え。
恐怖を返せ。
かつて城を守るために刻まれた命令が、燭台の根に残っている。
イシュカラは、その文字を指でなぞった。
削らない。
壊さない。
向きを変える。
拒む先を、外へ。
灯す先を、内へ。
消えかけた魔王文字が、燭台の根で小さく裏返った。
イシュカラは命じた。
『灯れ』
短い言葉だった。
燭台の芯に、火がともる。
黒い炎ではない。
白い祈りの光でもない。
小さな赤い火だった。
もう一つ。
また一つ。
広間の壁際に残っていた古い燭台が、低く赤く灯っていく。割れた床に、揺れる明かりが落ちた。王都の白い儀式光とは違う。人を消すための光ではない。
寒さを押し返すだけの、ただの火だった。
子どもたちは、最初は動かなかった。
火を見ている。
信じていない。
黒銀とイシュカラは、少し離れた場所からそれを見ていた。
子どもたちは、こちらを見ない。
見ないようにしているのか、本当に火しか見えていないのかは分からない。
一番小さな子が、そっと手を伸ばした。
火に触れる前に、何度も止まる。
包帯を巻いた子が、その肩に手を置いた。
止めるためではない。
逃げる時に引けるように、ただ触れているだけだった。
火は噛まなかった。
白い紐も伸びない。
命令も降らない。
誰も叱らない。
小さな指が、赤い灯りのそばで止まる。
その時だった。
イシュカラの手が、わずかに動いた。
止めようとしたのか。
支えようとしたのか。
ただ、熱に触れすぎるなとでも言いたかったのか。
彼女自身にも、分からなかった。
指先が半寸だけ上がり、そこで止まる。
何も起こらない。
子どもは気づかない。
火のそばで、ただ息を吐いた。
イシュカラの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
ほっとしたように見えた。
黒銀は、それを見てしまった。
赤い火に照らされた横顔。
白かった頬に、薄く血の色が戻って見える。
伏せた睫毛。
小さく緩んだ口元。
誰かを叱る前に、少しだけ安心してしまう顔。
そこに、リネアがいた。
いつものように、台所の灯りのそばで。
薬湯の匂いをさせて。
振り向く前の横顔で。
兄さん。
声はしない。
今この場で聞こえたものではない。
黒銀の奥に、勝手に残っていた記憶が、そう鳴っただけだった。
イシュカラが、はっと顔を上げた。
黒銀の視線に気づいた。
そして、自分の手が動きかけていたことにも気づいた。
彼女はゆっくり、その手を下ろす。
「見るな」
魔王の声だった。
黒銀は答えない。
「今のは、妹ではない」
イシュカラは火を見たまま言った。
「リネア・ノールは死んだ。戻らぬ」
赤い火が、彼女の瞳の奥で揺れる。
「残っているのは断片だ。記憶の欠け端。恐怖に焼かれて、それでも消え残った感情の煤だ」
黒銀の黒炎が、足元でわずかに沈んだ。
「だが、断片なら分かる」
イシュカラの声は淡々としていた。
慰めではなかった。
「リネアは、恐怖に堪えて死んだ」
黒銀は動かない。
「声を奪われ、光に削られ、それでも最後まで貴様を探していた」
火が、小さく爆ぜた。
「恨みではない。呪いでもない。最後に残っていたのは、信頼だ」
イシュカラは黒銀を見た。
同じ顔で。
けれど、妹ではない目で。
「貴様の中に残っている妹まで、この断片で塗るな」
火が、もう一度小さく揺れた。
「だからこそ、戻らぬことを忘れるな」
黒銀は、しばらく何も言わなかった。
礼もない。
否定もない。
救われた顔もしない。
ただ、足元の黒炎だけが、一度、深く沈んだ。
「……知っている」
それだけだった。
風が、割れた天井から入ってくる。
赤い火が揺れた。
消えない。
子どもたちの影が、壊れた壁に映る。小さな影。細い影。肩を寄せた影。その奥に、壊れた王座が暗く沈んでいる。
黒銀は、そこへ座らない。
イシュカラも座らない。
二人は扉のそばにいた。
外の夜は、まだ冷たい。
赤い火は、それを追い払うほど強くはない。
ただ、扉の内側だけを、少しだけ暖かくしていた。
かつて魔王の城だった場所に、初めて、人を追い払わない灯りがともっていた。




