第8話 乱入
世界が、騒がしい朝だった。
『人類最強・剣条玲、無名の初心者講座に降臨――「先生」発言の衝撃』
『同時視聴41万、国内記録を更新。「シン」とは何者か』
『クラン玄武の「無関係」声明、再び注目集まる』
ニュースの見出しを三つ眺めたところで、俺は端末を伏せた。通知は昨夜から鳴りやまないので、音はもう切ってある。
俺はといえば、その日も平和――と言い張るには、さすがに無理が出てきた。それでも、やることは変わらない。米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活、十九日目。
……の、はずだった。
昼前。チャイムが鳴った。
このアパートのチャイムが鳴るのは、宅配便か、回覧板か、どちらかである。俺はドアを開けて――どちらでもないものを見た。
上等なコートを着た長身の男が、キャリーケースの取っ手を握って、薄暗い外廊下に直立していた。世界中の誰もが画面越しに知っていて、俺だけが画面の外で知っている顔だった。
「……玲くん」
「先生。お久しぶりです」
人類最強の剣士は、築三十二年のアパートの外廊下で、深々と頭を下げた。
「二年と、十四日ぶりです」
「数えてたの、それ」
「数えていました」
即答だった。昔から、こういう男である。
◇
六畳の部屋に、人類最強が正座している。
世界が見たら騒ぎになる絵面だが、本人はいたって真剣な顔で、出された茶を両手で持っていた。手土産にもらった茶葉である。俺の月の食費くらいの値段がしそうな缶だった。
玲は、部屋を一度だけ見回した。壁際の段ボール箱四つ。中古三万円の配信機材。それから、何も言わなかった。何も言わない代わりに、湯呑みを持つ手の関節が白くなっていた。
「先生は、ここに住んでいるんですか」
「家賃五万八千円。いい部屋だよ。駅から遠いぶん、静かだし」
「……そうですか」
人類最強は、それきり家賃の話をやめた。やめて、湯呑みを置いて、畳に手をついた。
「先生。まず、謝らせてください。昨夜は配信を荒らしました。本当は、今日こうして伺って、順番に話すつもりだったんです。それから――あのスーパーチャットも、俺です」
「やっぱり君か」
薄々、そんな気はしていたのだ。Rの一文字を見るたびに落ち着かなかったのは、要するに、見慣れた名前の頭文字だったからだ。
「あれは多すぎる。返すよ」
「受け取れません。受講料です」
「うちは無料だよ」
「八年分の後払いです」
言い出したら聞かない目だった。昔から、こういう男である。
「……それで。『全部、話します』って言ってたけど」
玲は頷いた。頷いて、しばらく黙って、それから顔を上げた。
「言いたいことが、二年分あります。でも、ここで先生にだけ言うのは、違うと気付きました」
「というと」
「世界が、間違ったままだからです。先生を知らないまま、先生の講座だけが騒がれている。順番が逆なんです。――今夜の講座に、俺を出してください。生徒として」
「初心者講座だよ。うち」
「俺は今でも、先生の生徒です」
即答だった。……まあ、ゲストの等級を確認する規約はない。
「ギャラは出ないよ」
「スーパーチャットを投げます」
「君はもう投げなくていい」
◇
その夜。配信開始ボタンを押した瞬間、視聴者数の表示が一度、更新を止めた。
再描画された数字は【210,000】から始まり、見ている間に桁の景色が変わっていく。昨日の騒ぎで、今夜何かが起きることだけは、世界中に知れ渡っていたらしい。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【今日だけはその口上、嘘だろ】
【後ろ! 後ろに誰かいるぞ!】
「で、今日はゲストが来ています。本人の強い希望です。――どうぞ」
俺の隣、安い座布団の上に、玲が座った。カメラに向かって、深く一礼する。
「剣条玲です。S級探索者をしています。今日は、この講座の生徒の一人として来ました」
コメント欄が、爆発した。というより、流れることをやめた。負荷警告の表示が画面の隅に出て、消えなかった。
【本物だああああ】
【人類最強が座布団に正座してる】
【生徒の一人として、って言った】
【世界トレンド1位になったぞ。「シン先生」が】
「先に言っておきますが」と、玲は静かに続けた。「今日は技の話をしに来たんじゃありません。八年前の話をしに来ました。――先生、いいですか」
「……手短にね。今日は『転び方』の回なので」
【この期に及んで通常回をやる気だったのか】
玲は、話し始めた。
「八年前、俺は十七歳で、行き場がありませんでした。昇格試験には落ち続けて、どこの道場にも、どこのクランにも、拾う価値がないと言われました。みんな、俺の剣を『荒い』『雑だ』と言いました。でも、直し方を言葉で教えてくれた人は、一人もいなかった」
【……おい、これ】
【ヒナちゃんと同じだ】
「最後に流れ着いた先で、一人のコーチが、俺の試験の録画を三秒で止めて言いました。『君、踏み込みの最初に重心が浮いてるね。それじゃ三層で死ぬよ』――って」
【完全に一致】
【三秒も一致してるんだが】
【鳥肌が止まらない】
「それから三年間、この人は俺に、技をひとつも教えませんでした。立ち方。下がり方。重心。呼吸。薬の差し場所。……皆さん、聞き覚えがありますよね。この講座で話していることと、全部同じです。つまり皆さんが毎晩、無料で聞いているのは――人類最強の作り方です」
視聴者数のカウンタが、また更新を止めた。
「俺がS級に昇格した日、この人は『もう教えることがない』と笑って、俺を送り出しました。俺の剣の一番深いところには、今もこの人のノートが入っています。ダンジョンに入る前、靴の中で足の指を握る。八年間、一日も欠かしたことはありません」
玲は一度、言葉を切った。切って、まっすぐにカメラを見た。
「俺を人類最強にしたのは、この人です。――なのに、業界はこの人を捨てた。誰も名前を知らないまま、この人は六畳の部屋から、無料で、人類の死亡率を下げている。俺は今日、それを世界に言いに来ました」
コメント欄は、もう文字の形をしていなかった。世界中の言語の感嘆符が、滝のように流れていた。
俺はといえば。
隣で茶を一口飲んでから、静かに首を振った。
「玲くん」
「はい」
「君が強くなったのは、君の才能だ。俺は地図を渡しただけだよ。歩いたのは、君の足だ」
本当のことを言っただけだった。三年間、夜明けまで素振りをしていたのは玲で、靴の中で指を握り続けたのも玲だ。俺はそれを、横で言葉にしていただけだ。
だが、なぜか。
玲は、唇を結んだまま、しばらく動かなかった。人類最強の目元が、照明のせいか、少し光って見えた。
「……その地図が」
絞り出すような声だった。
「世界のどこにも売っていないことを。それを描けるのが地球で一人だけだということを。――先生だけが、知らないんです」
コメント欄が、決壊した。
【泣いてる。人類最強が泣いてるんだぞ】
【俺も泣いてる】
【「俺は地図を渡しただけ」で泣かされると思わなかった】
【先生、無自覚なんだ。本物の無自覚を初めて見た】
【世界よ、これが先生だ】
【せ、先生……! 剣条さん……! 私、画面の前で立てなくなってます……!】
ヒナちゃんまで決壊している。困った教室である。
「……ええと。地図の在庫なら、まだ段ボール四箱あるんだけど」
【在庫て】
【百冊のノートのことか】
【人類の国宝が段ボールに入ってる】
「まあ、その話はまた今度。――それじゃ、時間も過ぎたので、今日の本題です。第十九回、『転び方』。実は、転ばない練習より先にやることがありましてね」
【やるのか!?】
【この流れで通常回をやるのか!?】
【それでこそ先生だよ】
後にこの夜の配信は、『乱入回』という素っ気ない呼び名で、伝説として語られることになる。同時視聴者数の最終記録は、結局、誰にも正確には分からなかった。集計サーバーの方が、先に音を上げたからだ。
◇
配信終了後。玲を駅まで送って戻ると、伏せたままの端末が、机の上で震え続けていた。
着信履歴は協会、報道、知らない番号、知らない番号、知らない番号。明日からしばらく、平和な無職生活には戻れそうにない。
ため息をついたところで、画面がまた光った。
【非通知設定】
出るか、三秒迷って、出た。
「はい、もしもし」
返事はなかった。
無言電話――ではない。耳を澄ますと、回線の向こうに、息を吸う気配だけが、何度もあった。何かを言いかけては、やめる。言いかけては、やめる。沈黙の置き方が、ひどく不器用で、ひどく真面目だった。
俺は二十年、人を観察して生きてきた。声がなくても、分かる沈黙というものがある。
「……澪?」
通話は、切れた。




