第9話 平常運転
世界トレンド一位、二日目の朝である。
『「乱入回」同時視聴数、集計不能のまま終了――配信サイト「正確な記録の特定は困難」と声明』
『剣条玲の「先生」発言、各国メディアが翻訳報道。「SHIN-SENSEI」が国境を越える』
『無名コーチ「シン」は何者か。業界関係者、クラン玄武の「無関係」声明との矛盾を指摘』
見出しを三つ眺めたところで、俺は端末を伏せた。昨日と同じ手順である。違うのは、伏せた端末が、朝から一度も黙っていないことだ。
俺はといえば、米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活、二十日目。……と言い張るのは、さすがに無理が出てきた。無職の定義に「世界トレンド一位」は、たぶん含まれていない。
朝のうちに、玲から律儀なメッセージが届いていた。
【先生。昨日はありがとうございました。茶葉は、なくなる頃にまた送ります】
「もう送らなくていい」と返したら、既読だけ付いて、返事はなかった。送る気だ。昔から、こういう男である。
昼までに、知らない番号からの着信は六十件を超えた。留守番電話の中身は、報道の取材依頼が半分。残りはテレビ番組、出版社が三社、海外メディアが二社、講演の依頼――そして、大手クランの専属契約のオファーが四件。
折り返せるものには、昼飯を挟んで全部折り返した。社会人を二十年やった身としては、留守電を溜めるほうが落ち着かないのだ。
「――はい、シンです。……ええ、お話はありがたいんですが、取材はお断りしています。理由ですか。初心者講座なので、話すことは全部講座で話してまして。取材用に取ってある話が、ないんです」
「――はい。……いえ、書籍はまだ考えていません。ノートをそのまま本にしても、読めたものにならないので」
四件目あたりで断りの口上が固まってきた頃、ひときわ丁寧な電話が来た。業界で玄武に次ぐ規模のクランの、育成部門統括を名乗る人物だった。提示された契約条件を聞いて、俺は思わず桁を二回数えた。年俸が、俺のB級時代の生涯収入より多かった。
「……ありがたいお話ですが、お断りします」
『り、理由を伺っても』
「俺は今、ヒナちゃ――生徒の育成で手一杯なので」
電話の向こうで、統括氏は長いこと黙り、『また改めてご連絡します』と言って切った。改められても、答えは変わらないのだが。
別に、痩せ我慢ではない。コーチというのは、生徒を持っている間が一番いい時間なのだ。あの時間は、年俸の桁では買えない。二十年やって、それだけは知っている。
◇
その夜。配信開始ボタンを押すと、視聴者数は開始十秒で【300,000】を超えた。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【世界で一番有名になった口上】
【昨日の今日で、いつも通り始まりやがった】
「えー、それから。昨日は騒がしくてすみませんでした。今日はいつも通りやります。――第二十回、『ロープの結び方』です」
【ロープwwww】
【世界トレンド一位の翌日に、ロープの結び方】
【この落差である】
【それでこそ先生なんだよなあ】
「正確には、結び方と、ほどき方の話です。先に結論を言うと――探索者は、ロープが結べなくて死ぬより、ほどけなくて死ぬことのほうが多い」
【……ん?】
【どういうことだ】
「滑落や宙吊りの事故報告を読むとですね、ロープ自体はちゃんと仕事をしている場合が多いんです。問題はそのあと。濡れた手、かじかんだ手、利き腕を怪我した状態で、固く締まった結び目はほどけません。ほどけないまま、魔物の回遊時間が来る。……だから今日覚えるのは一つだけ。荷重がかかっている間は絶対に緩まない、なのに端を引けば片手で五秒でほどける結び。『引き解け』といいます」
俺はカメラの前で実演した。手元は見ない。目線を落とした瞬間に死ぬ場面で使う結びだから、練習も最初から手元を見ないで覚える。目線の話はこの講座で何度目か分からないが、何度でもやる。基礎とは、そういうものだ。
最初の三分は【地味】の弾幕だったコメント欄は、いつもの具合に変わっていった。
【……おい、今ベルトで試したけど、本当に片手でほどけた】
【「ほどけなくて死ぬ」は盲点すぎるだろ】
【この講座、理屈の一個一個の後ろに死体の数を感じるんだよ(定期)】
【集計サーバーを落とした伝説の翌日が、ロープ。逆にすごみがある】
「それと、業務連絡を一つだけ。昨日から取材や契約のお誘いをたくさんいただいています。ありがたいことです。が、全部お断りしています。俺は今、生徒の育成で手一杯なので。――ヒナちゃん、来週から課題を一段階上げます。覚悟しておくように」
【は、はいっ! よろしくお願いします!】
【大手の年俸オファーを蹴った「手一杯」の中身が、C級の生徒一人】
【こんなん信用するしかないだろ】
【わかった。シン先生は本物だ。昨日ので確信して、今日ので確定した】
【祭りの翌日に平常運転できる人間が、一番こわい】
平常運転で何が悪いのか。祭りは昨日で終わりだ。教室は、続く。
「それじゃ、今日はこのへんで。次回は『荷物の詰め方』。重いものは上に入れるか下に入れるか、という話です」
【地味!】
【楽しみにしてます】
◇
同じ夜。玄武本部、最上階の大会議室では、臨時の役員会が二時間を超えていた。
議題は一つしかない。昨夜の「乱入回」と、剣条玲のあの一言――『なのに、業界はこの人を捨てた』。「業界」が具体的にどこを指すのか、報道各社はとっくに調べがついている。問い合わせは朝から広報の回線を塞ぎ続けていた。
「会長、ご心配には及びますまい」
口火を切ったのは、営業統括の古参幹部だった。
「あれは剣条の、感傷的なパフォーマンスですよ。独立組は世間の風当たりが強い。恩人に頭を下げる絵を一枚撮らせれば、好感度が買える。打算です。ひと月もすれば世間は忘れ――」
机が、爆ぜた。
戸隠厳が、拳を叩きつけた音だった。
「……剣条玲が」
低い声が、静まり返った会議室を這った。
「六年、うちの最前線にいた男だぞ。報酬の交渉ひとつしたことがない。カメラの前で笑ったことすらない男だ。あれが、打算で頭を下げるか。感傷で目を潤ませるか。――節穴どもが」
幹部たちは凍りついた。そして誰より、戸隠自身が、自分の怒声に驚いていた。なぜ怒鳴ったのか、うまく説明がつかなかったからだ。
散会後。一人になった会長室で、戸隠はあの夜のアーカイブを、もう一度再生した。
六畳間の安い座布団に正座した人類最強が、まっすぐカメラを見て言う。『俺を人類最強にしたのは、この人です』。その目の中に、打算を探した。感傷を探した。二十年、人を値踏みして組織を築き上げてきた目で、何度も探した。
――どちらも、なかった。あるのはただ、事実を述べる人間の目だった。
ふと、頭の隅に、つまらない記憶が浮かんだ。廊下の自販機の前で、新人に缶コーヒーを奢っていた地味な中年。契約解除の通知を黙って二つ折りにし、「長い間、お世話になりました」と頭を下げた、あの背中。
素人の祭りは、ひと月で終わる。――そう言い捨てた自分の声だけが、妙に安っぽく耳に残っている。
戸隠は、内線を取った。
「……研究班に伝えろ。例の講座の資料、最初の報告から全部、会長室へ運ばせろ。それから――八年前の、剣条の飛び級審査の記録もだ」
受話器を置いて、窓の外の夜景を見下ろす。自分が何を切り捨てたのか、その正体を、戸隠厳はまだ正確には知らない。ただ――「知らない」のだということにだけは、気付き始めていた。
◇
さらに同じ夜、日付の変わる頃。
とある高層マンションの一室で、氷堂澪は、灯りもつけない部屋の真ん中に立ったまま、端末を見下ろしていた。
画面には、再生の終わった配信アーカイブ。『シンさんの初心者ダンジョン講座・第二十回』。アカウント名は、本名とは似ても似つかない、ただの文字列。第一回から今日まで、彼女が見ていない回は、一つもない。
指が画面を撫でて、発信履歴を開く。一番上に、昨夜の一件。非通知設定。通話時間、十一秒。
十一秒のあいだ、何も言えなかった。何度も息を吸って、何度も言葉を呑んで――そして向こうは、たった一言で言い当てたのだ。『……澪?』と。二年ぶりに名前を呼ばれた瞬間、指が勝手に、通話を切っていた。
玲はいい。玲は、まっすぐ会いに行ける側の人間だ。昔から、そうだった。
でも、自分は。
「……何を、今さら」
呟きは、誰もいない部屋の床に落ちた。氷堂澪には――かけられない理由が、あった。




