第7話 コメント欄に降臨する最強
深夜の匿名掲示板、探索者板。祭りの翌朝にしか立たない種類のスレッドが、その日も立っていた。
『【考察】講座に投げられた上限スパチャ「R」の正体を探るスレ』
【1:昨夜の合格祝い配信、見てたやつは知ってるな。上限額のスーパーチャット、メッセージは「おめでとうございます」だけ。送り主は一文字、「R」。考察班、仕事の時間だ】
【3:書籍化打診の編集説】
【5:大手クランの偵察説。玄武あたりが手のひら返しの準備してるんじゃね】
【8:ただの成金の初心者説。夢がない】
【11:Rで始まる探索者を洗ってみた。……一番有名なのは、まあ、アレだが】
【12:言うな】
【14:剣条玲。S級序列一位。人類最強。――はいはい、ないない。序列一位は今、九千キロ向こうの未踏破遠征の真っ最中だぞ】
【17:だよな。すまん、忘れろ】
【23:それより気になるもんを掘り当てた。協会の公式記録だ。E級からC級への飛び級合格、史上一人目――八年前、当時十七歳、無所属の剣士見習い。名前、剣条玲】
【24:それは昨日みんな知った】
【26:続きがある。推薦者の欄だ。クラン名じゃない。「認定コーチ個人による推薦」になってる。個人名は非公開処理。――つまり、無名時代の人類最強を最初に拾って育てたのは、どこの組織でもない、名前も残っていない個人コーチってことだ】
【29:……おい】
【31:やめろ】
【33:言わないぞ。俺は絶対に言わないからな】
【36:八年前、無所属の落ちこぼれを飛び級させた無名の個人コーチ。今年、無所属の落ちこぼれを飛び級させた無名の個人コーチ。――偶然って、二回続くんだなあ】
【38:オカルト板でやれ】
スレは結論の一歩手前で、誰も最後の一行を書けないまま、昼を過ぎても伸び続けていた。
◇
俺はといえば、その日も平和だった。
米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活、十八日目である。
平和でないのは数字と、それから昨夜のあれだ。上限額のスーパーチャット、送り主「R」。返そうにも、この配信サイトに返金の仕組みはない。仕方ないので昨夜のうちに「講座の運営費として、ありがたく使わせていただきます」と頭を下げておいた。運営費といっても、この講座の経費は中古三万円の機材と俺の米代くらいのものだが。
「……R、ねえ」
湯呑みを片手に、もう一度その一文字を眺める。やはり、妙に落ち着かない。
頭の隅に一瞬だけ教え子たちの顔が浮かんで、すぐに打ち消した。あいつらは人類の最前線で働いている。S級の時間は一秒単位で世界に予約されていて、無名のおじさんの配信に投げ銭をしている暇など、あるはずがないのだ。
「考えても分からんものは、分からん」
俺はノートをめくる作業に戻った。今夜は第十八回。テーマはずっと前から決めてある。基礎の中の基礎、本丸の一つ――「重心」の話だ。
◇
その夜。配信開始ボタンを押すと、視聴者数は開始一分で【50,000】を超えた。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【五万人がそれを聞きに来てる】
【Rの正体まだですか】
【考察スレから来ました】
「Rさんの件は、俺も知りません。本人がいつか名乗ってくれたら、改めてお礼を言います。――それじゃ、第十八回。今日は『重心はどこにあるのか』という話をします」
俺は、今夜のために選んでおいた一冊のノートを開いた。
「立った人間の重心は、だいたいへその少し下にあります。……という教科書の話は、前置きです。本題は、その重心が『動く』ということ。それも、自分の知らないうちに」
「三層までで死ぬ人の録画を見ると、被害の出る数秒前に、ほぼ必ず同じことが起きています。重心が浮いて、カカトに逃げてるんです。本人は一歩も動いていないつもりでも、重心だけが先に逃げ出してる。重心がカカトに乗った人間は、咄嗟に動けません。動けないから、食らう」
【あー……俺だ】
【先週の俺の話やめろ】
「で、ここからが今日の本題です。じゃあなぜ、本人も知らないうちに重心が動くのか。実は重心というのは――」
そのときだった。
コメント欄の奔流の中に、見慣れない印のついた一行が、すっと流れた。
認証マーク。公式アカウントにだけ付く、青い印。
【剣条玲・公式】『その解説、続きがあります。「重心は心の位置に釣られる」――ですよね、先生』
コメント欄が、止まった。
五万人のいる教室で、誰一人、何も打たなかった。三秒。長い三秒だった。
それから、爆発した。
【は????】
【!?!?!?】
【認証マーク。認証マークだぞ。なりすましじゃない】
【人類最強??? なんで??? ここ初心者講座だぞ???】
【今、「先生」って言わなかったか】
【言った。「ですよね、先生」って言った】
【先生って言ったぞ!!!!】
【考察スレ、当たってたのか!?】
【け、剣条玲!? ほ、本物ですか!?】
ヒナちゃんのコメントまで奔流に飲まれていく。画面の更新が、一拍遅れ始めた。視聴者数のカウンタが、桁の繰り上がりに追いつかなくなっている。サイト全体に負荷警告が出ているらしい。
俺はといえば。
眼鏡を押し上げて、その一行を、二度読んだ。
……認証マーク。公式。本名。最近の配信サイトは便利になったものだ。それにしても。
「……玲くん?」
二年ぶりに口にした名前は、思ったより普通に出た。
「玲くん、遠征中にサボっちゃだめだよ」
コメント欄が、もう一度爆発した。
【サボっ……】
【人類最強が叱られる図】
【知り合いだ。マジの知り合いだ】
【「先生」が確定してしまった】
【世界よ、これが伝説の無名講座だ】
【剣条玲・公式】『サボっていません。あちらの仕事は片付けてきました。……それと、その授業、俺の一番好きなやつなので。つい』
「つい、じゃないんだよ。あと、人の授業を先取りしない。今日いちばんいいところだったのに」
【剣条玲・公式】『すみません』
【素直に謝った!?】
【序列一位が正座してる(イメージ映像)】
「……まあ、いいか。せっかくなので、続けます。――今、剣条選手が言ってくれた通り」
俺はノートに目を落とした。八年前、最初の生徒のために書いたページだ。
「重心は、心の位置に釣られます。怖いと、心は後ろへ逃げたがる。重心も釣られて、カカトに乗る。焦ると、心は早く終わらせたくて前のめりになる。重心も釣られて、つま先で浮く。――体だけ直そうとしても、直らないんです。だから重心の訓練の半分は、心の置き場所の訓練です。息を長く吐く。足の指で床をつかむ。あれは筋肉の話ではなくて、心を足の裏まで降ろすための手順なんです」
【鳥肌立った】
【初心者講座で何を聞かされてるんだ俺は】
【剣条玲・公式】『俺は今でも、ダンジョンに入る前に靴の中でグーを握ります。八年間、一日も欠かしていません』
【人類最強が??? あの基礎を??? 毎日???】
【おい、わかったぞ。わかってしまったぞ】
【人類最強の基礎を作ったの、このおじさんなんだ】
【世界の答え合わせが始まってる】
配信終了の間際、画面の隅の数字を、俺は初めてまじまじと見た。
同時視聴者数【418,229】。
あとで知った話だが、この国のダンジョン関連中継の最高記録は、三年前に玄武が総力を挙げて打った「深層五十層・一斉攻略」の公式中継の三十九万だったらしい。
それを、初心者向けの、重心の話が抜いた。
「……それじゃ、今日はこのへんで」
俺は、いつも通りに配信を切った。
◇
成田空港、到着ロビーの隅。
剣条玲は、キャリーケースの取っ手を握ったまま、端末の画面を見下ろしていた。
本当は、こんな予定ではなかった。着いたら宿に入り、夜が明けたら身なりを整えて、二年分の言葉を順番に並べて、それから会いに行く。九千キロの機内で組み立てた、完璧な計画だった。
だが、着陸して端末を開いたら、講座が生放送中で、よりにもよって「重心」の回で――気付いたときには、指が動いていた。
計画の崩れ方を、玲は師に叩き込まれた「観察」で省みる。焦ると、心は前のめりになる。重心はつま先で浮く。――二年間、浮きっぱなしだった自覚なら、ある。
玲は息を長く吐き、革靴の中で、そっと足の指を握った。それから、配信のアカウントではない方の――八年前に登録したきり、この二年は消すことも押すこともできなかった連絡先を開いて、短い文を打った。
【明日、そちらに伺います。――全部、話します】
送信。
人類最強の剣士は、二年ぶりに重心が床へ降りるのを感じながら、ゆっくりと夜の出口へ歩き出した。




