第6話 飛び級
協会中央支部、第三試験場。
C級昇格の公開審査というのは、本来ひどく閑散としたものらしい。観客席にいるのは受験者の身内と、暇を持て余した協会職員くらいのもの――というのが、受付の職員の説明だった。
「本来は、ですけどね」
その日、五百人収容の観客席は開場三十分で埋まった。入りきらない野次馬が立ち見の列を作り、最前列には報道と配信者のカメラが三脚を並べている。協会は急遽、公式チャンネルでの生中継を決めた。
目当ては受験番号一番――というより、本日の受験者は、その一人しかいない。
天羽ヒナ。十七歳。E級。D級昇格試験、四連敗。
【来た。例の講座の生徒ちゃん】
【飛び級審査が満員て、協会も初めてだろ】
【相手、蛭田だってよ。C級上位の】
【うわ、よりによって】
模擬戦の相手役は、協会の依頼を受けた現役C級上位、蛭田猛。控室前の囲み取材で、彼はカメラに向かってこう言った。
「手加減はしませんよ。E級の子に変な夢を見せると、その子がいずれダンジョンで死ぬ。ここで折れるのも、優しさってもんでしょう」
意地が悪い。が、正論でもある。だから誰も反論できず、中継のコメント欄には【公開処刑】の四文字が、祈りと野次の混ざった速度で流れ続けていた。
◇
俺はといえば、その日は珍しく、平和ではなかった。
米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする健全な無職生活、十七日目。本日に限り、初めての外回りである。推薦者というのは、試験に立ち会う義務があるのだ。
関係者席の端。受付で「推薦者の方ですか」と二度確認された以外、誰も俺を気にしない。地味な中年というのは、こういうとき実に便利である。
試験開始の十分前、控室の前でヒナちゃんと少しだけ話した。顔が白かった。無理もない。四回落ちた場所より大きい会場で、五百人と中継カメラに囲まれているのだ。
「先生、私、あの、手が」
「うん、震えてるね。いいんじゃない」
「い、いいんですか!?」
「緊張は消さなくていい。消そうとすると、そっちに気を取られるから。震えたままでいいので、やることを一つだけにしよう。――最初の三十秒は、勝とうとしないこと。観察だけ。相手も人間で、人間の崩れには必ず一枚目がある。それを見つけてから、君の試験を始めればいい」
「……観察して、誘導して、最短の一手」
「そう。いつもの講座と同じ。地味だよ。多分、びっくりするほど地味」
ヒナちゃんは深呼吸を一つして、ようやく少しだけ笑った。
「――でも、死ななくなる、ですよね」
うん。よく言えました。
◇
開始の合図と同時に、蛭田は前に出た。
主任試験官・佐久間は、採点板を持ったまま、内心でため息をついていた。この仕事を二十年やっているが、飛び級審査が見世物になったのは初めてだ。そして見世物の結末は、だいたい決まっている。蛭田の三連撃は速い。E級が捌ける速度ではない。最初の十秒で転がされて、終わり――。
三十秒後、佐久間は採点板を下げて、目を細めていた。
転がされて、いない。
少女は防戦一方に見えた。観客席からは、そう見えただろう。実際、彼女は一度も攻撃していない。だが――下がり方に、一度の乱れもなかった。つま先は外に開き、カカトから落ちず、視線は決して下がらない。蛭田の猛攻はすべて、半歩ずつ、最小の距離で外れ続けている。
(……この子、避けながら、見ているのか)
ヒナは、見ていた。
(三連撃の、三発目で右肩が下がる。それから――突きの前、カカトが浮いてる)
見覚えのある癖だった。当たり前だ。四年間、鏡の中で毎日見てきた。踏み込みの最初に重心が浮く。上体が先に出て、目線がぶれる。――一ヶ月前の、自分と同じ癖。
(あなたも、誰にも言葉で教えてもらえなかったんですね)
ヒナは、初めて自分から動いた。左へ、誘うように半歩。空いた右側へ、蛭田の得意の突きが来る。カカトが浮く。上体が先に出る。目線が、ぶれた。
足の指で、床をつかむ。半歩で外す。素振りと同じ軌道で振られた剣が踏み込んだ蛭田の籠手を打ち、返す一動作で、喉元の前――紙一枚の距離で、止まった。
会場が、静まり返った。
「……勝負あり」
佐久間の声が、静寂に落ちる。蛭田は喉元の剣先を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。やがて、絞り出すように言った。
「……今の、誘われたのか。俺は」
誰よりも先に、敗者である彼が理解していた。佐久間は採点板に手早く記入すると、規定通り、中継のマイクに向き直った。講評の原稿は用意してあった。だが、最初の一言で全部が要らなくなった。
「――文句なし。合格」
コメント欄が、爆発した。
【うおおおおおおお】
【無傷!? 無傷だぞ!?】
【C級上位を誘い込んで一本て、なんだそれ】
【講座、マジだったんだ……】
【俺も今日から見る】
【E級からC級、史上二人目の飛び級だってよ】
観客席の隅で、小柄な女性が口元を両手で覆ったまま泣いているのが見えた。ヒナちゃんのお母さんだろう。「高校卒業までに芽が出なかったら辞める」――あの約束は、今日で要らなくなった。
俺はノートに短く一行だけ書き込んで、誰にも気付かれないうちに席を立った。
【天羽ヒナ・C級。基礎、完成。次の課題――勝ったあとの癖】
◇
その夜の講座は、視聴者数【30,000】で始まった。もう数字に驚くのは、やめにした。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【今日のどこが地味だったんですかねえ】
【優勝パレード会場はこちらですか】
「で、今日は特別ゲストが来ています。本人の希望で、音声だけ。――ヒナちゃん、どうぞ」
『……は、はいっ』
スピーカーの向こうの声は、最初から少し湿っていた。
『あの、今日、見てくださったみなさん、ありがとうございました。それで、あの……先生』
「はい」
『私、四回落ちて、お母さんにも、ギルドの教官にも、もう辞めなさいって言われて。自分でも、才能がないのは分かってて……』
言葉は何度もつかえた。コメント欄は珍しく、流れを緩めて待っている。
『でも、先生だけが、ダメな理由は一個だけだって言ってくれて。廊下で足の指を握るだけの、あんな地味な――あんな地味なことの向こうに、こんな景色があるなんて、知らなくて……っ。全部、先生のおかげです。本当に、本当に、ありがとうございました……!』
画面の向こうで、頭を下げる気配がした。マイクが布に擦れる、ごそ、という音。律儀な子である。
「うん。……でもね、ヒナちゃん。一個だけ訂正」
俺は、いつもの調子のまま言った。
「俺が教えたのは、廊下で足の指を握る方法だけ。それを千回やったのは、君だよ。今日、蛭田さんの癖を見つけたのも、誘ったのも、最後に剣を止めたのも、全部君だ。努力したのは君だよ。――『先生のおかげ』は、半分だけもらっておきます。コーチはそのくらいが、ちょうどいいんです」
『……先生ぇ……』
【いい話だ……】
【この師弟、ずるいだろ】
【泣いてるの俺だけじゃないよな?】
【登録者見ろ。今101,847。一晩で10万超えたぞ】
――そのときだった。
コメント欄の奔流の中に、金色の枠が一つ、浮かび上がった。
スーパーチャット。この配信サイトで投げられる、上限額。講座開設以来、初めて見る色だった。添えられたメッセージは、たった一言。
【おめでとうございます】
金額の桁を二度数えてから、俺は送り主の名前を読み上げようとして――止まった。
「……ありがとうございます。その、なんだ。多すぎませんか」
送り主の名は、ただ一文字。
【R】
コメント欄が【誰!?】で埋まっていく。俺にも分からない。分からないが、なぜだろう。その一文字を眺めていると、どこか懐かしいような、落ち着かないような、妙な感じがした。
――その送り主が今、九千キロの空を越えて、成田へ向かう機内にいることを。
このときの俺たちは、まだ誰も知らない。




