第5話 玄武の嘲笑
玄武本部、最上階の大会議室。月例の幹部会議は、予定を二十分超過して、最後の議題に入っていた。
議題名は、資料の末尾に小さく載っている。――『個人配信「シンさんの初心者ダンジョン講座」について』。
「……以上の検証により、研究班は、配信者『シン』を元・当クラン専属育成コーチ、柊慎一氏本人と断定しました。声紋一致率、九十九・七パーセント。誤差の余地はありません」
研究班主任が報告を終えると、長机を囲む十数人の幹部の間に、何とも言いがたい沈黙が落ちた。
つい十日前まで、同じビルにいた男である。挨拶をすれば会釈を返し、廊下の自販機で新人に缶コーヒーを奢っているのを見かけた、あの地味な中年だ。それが今、業界の外側で、攻略wikiの二十年の定説を書き換えている。
最初に口を開いたのは、戦略企画部の南雲だった。三十代の若手で、数字に聡いことで知られている。
「会長。提携を進言します」
戸隠厳は、上座で目を閉じたまま動かない。南雲は構わず続けた。
「講座のチャンネル登録は本日昼で二万。伸び率は業界系配信の過去最高値です。wikiの改訂で、中堅以下の探索者の支持はほぼ固まりました。幸い、世間はまだ『シン』の正体を知りません。元・玄武のコーチだと公表した上で囲い直すなら、今しかない。先方に他クランが接触する前に――」
「南雲くん」
会長は、目を開けなかった。
「君は、玄武の看板を何だと思っている」
低い声だった。
「あれは、剣条たちの才能で食っていた寄生虫だ。S級五人に逃げられて、行き場がないから素人相手に講釈を垂れている。……うちが二十年かけて磨いた看板の隣に、B級崩れの暇つぶしを並べろと? 名前を出すことすら、玄武の格を下げる」
「ですが会長、数字は――」
「数字の話をするなら」と、戸隠は初めて目を開けた。「うちの売上の九割は、上位等級への装備供給と深層利権だ。初心者が何万人集まろうと、一円にもならん。会議の時間を素人の祭りに使うな。――次」
議題は、それで終わった。
散会の間際、広報部長がおずおずと手を挙げた。報道や提携先から、講座と玄武の関係を問う問い合わせが増えているという。声が元専属コーチに似ている、という指摘も、ごく一部で出始めていると。
戸隠は、上着を羽織りながら言った。
「『無関係』とだけ出しておけ。素人の祭りは、ひと月で終わる」
◇
その日の夕方、クラン玄武は公式サイトに声明を出した。
『昨今、SNS上で話題となっている個人配信「シンさんの初心者ダンジョン講座」について、当クランとの関係を問うお問い合わせを複数いただいております。当該配信は、当クランの育成メソッドとは一切関係ありません。当クランは、専門機関との連携による科学的・体系的な育成プログラムを運用しており、検証を経ていない個人の経験則に基づく理論の実践は推奨いたしません。探索者の皆様におかれましては、情報の出典にご留意くださいますようお願い申し上げます』
書いたのは広報の実務担当で、悪気はそれほどなかった。会長の「無関係とだけ出しておけ」を、社の体裁が保てる文章量まで水増ししただけである。
ただ、世間はそうは読まなかった。
【誰も玄武に関係あるかなんて聞いてないんだが?】
【聞かれてもいないのに否定するのは肯定って、ばあちゃんが言ってた】
【「検証を経ていない個人の経験則」←協会の事故データベースで検証されてwikiが書き換わったばかりなんですが】
【効いてて草】
【玄武の新人研修って入会金三百万だっけ。シン講座は無料。留意すべき出典はどっちですかね】
匿名掲示板の検証スレには、その夜のうちに『【悲報】業界最大手、無名のおじさん配信に公式声明を出してしまう』というまとめが立ち、声明の全文が一行ずつ突っ込まれた。大手クランが名指しで――正確には、名指しで「無関係」と言っただけで――個人配信の知名度は、一夜で別の段階に入った。
講座のチャンネル登録者数は、声明から二十四時間で二万から三万八千になった。
広報の実務担当は青い顔で増え続ける引用の通知を眺め、南雲は自席で「だから言ったのに」と天井を仰ぎ、戸隠厳はその日の報告を、すべて聞き流した。
素人の祭りは、ひと月で終わる。――そのはずだった。
◇
俺はといえば、その日も平和だった。
米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活、十日目である。
平和でないのは、相変わらず数字だけだ。登録者の伸び方が昨日からまた一段おかしくなっていて、調べてみたら、見覚えのありすぎる名前のニュースが出てきた。
『クラン玄武、話題の「シン講座」と無関係と声明』
「……無関係」
俺は茶を一口飲んで、頷いた。
「うん、無関係だな」
事実である。講座で話している中身は、全部俺のノートだ。玄武にいた間に書いたものも含めて、あのノートは俺の私物で、俺の二十年で、誰の備品でもない。先方がそう言ってくれるなら、こちらとしては何の文句もない。
「大手も大変だなあ」
俺は他人事のような感想だけ残して、ニュースを閉じた。実際、他人事だった。今夜の配信の準備のほうが、よほど大事である。
机の上には、ヒナちゃんから今朝届いた「課題報告」が開いてある。
ここ数日、彼女には宿題を出していた。二層での潜行を録画して、リンクをアーカイブのコメント欄に貼ること。講座でやった基礎を、一つずつ実戦の中で確認すること。報告は毎日、几帳面な箇条書きで届いた。
その最新の録画を、俺は朝から三回見ていた。
「……うん」
足の指は、もう癖になっている。下がり方に迷いがない。ポーションは利き手と逆の腰、正面寄り。視線が一度も地面に落ちない。灰犬二体の同時の跳びかかりを、半歩と剣の角度だけで捌いて、深追いせずに離脱している。
派手さは、何もない。スキルも魔法も平凡なままだ。ただ、画面の中の彼女は――「何が起きても転ばない人間」になっていた。
E級の動きではない。もう、D級のでもない。
二十年、人の動きを見てきた目が言っている。これは、等級で言うなら――。
◇
その夜、第十回の配信は、視聴者数【4,000】で始まった。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってた】
【玄武の声明から来ました】
【公式が無関係って言うから来た。無関係なら来るしかない】
【理屈がおかしい】
「今日は予定を変えて、最初に生徒の課題報告を見ます。本人の許可は取ってあります。――ヒナちゃん、いる?」
【は、はい! います!】
俺は彼女の潜行録画を画面に映して、十分ほど、いつも通りの解説をした。どこが良くなったか。どの基礎が、どの場面で彼女の命を守ったか。コメント欄は途中から、様子がおかしくなっていた。
【待て待て待て。この子、なんで二層をこんな「散歩」みたいに歩けるんだ】
【一ヶ月前に試験で四十秒で転がされてた子だよな?】
【動きが派手になったんじゃない。危ない瞬間が一個もなくなってるんだ。なんだこれ】
【E級の安定感じゃないだろ、これ……】
そう、そこなのだ。みんな、ちゃんと見えている。いいコメント欄である。
「――というわけで、ヒナちゃん。相談なんだけど」
俺は録画を止めて、いつもの調子のまま、言った。
「来週のC級昇格試験、受けてみようか。飛び級で」
コメント欄が、一秒止まって、爆発した。
【!?】
【C!? Dじゃなくて!?】
【飛び級なんて制度あるのか】
【待て、E級からC級って二段抜かしだぞ!?】
【で、でも先生、私、D級の試験に四回落ちて……!】
「うん、知ってる。四回分の録画も全部見た。――ヒナちゃんが落ちた理由は毎回同じ一つだけで、それはもう君の中にない。今の君の基礎の安定度は、俺の見立てだとC級の合格水準を超えてる。D級の試験じゃ、もう測るものがないんだよ」
【さらっととんでもないこと言ってないか?】
【この人の「見立て」、wikiを書き換えた実績があるからな……】
「協会の規定に、認定コーチの推薦があれば飛び級受験ができる、というのがありましてね。俺のコーチ資格、まだ生きてるんです。クランとの契約は切れたけど、資格は個人のものなので。……ただし、一つだけ。飛び級の審査は、通常の試験と違って公開でやることになってる。注目される。怖かったら、断っていい」
コメント欄の奔流の中で、ヒナの返信は、少しだけ遅れて届いた。
【やります】
【四回落ちた場所より、先生が見ててくれる場所のほうが、ずっと怖くないです】
「……そう。じゃ、決まり」
俺はノートの新しいページに、彼女の名前と試験日を書き込んだ。教え子の試験前というのは、何度やっても少しだけ落ち着かない。六人目でも、そこは変わらないらしい。
――なお、このとき俺もヒナちゃんも、騒いでいる視聴者の誰一人として、確認していなかったことがある。
協会の公式記録上、E級からC級への飛び級合格者は、制度開始から今日まで、ただ一人。
八年前、十七歳。当時の推薦者の欄に「認定コーチ個人による推薦」の一行だけを残し、後に人類最強と呼ばれることになる剣士――剣条玲、ただ一人である。
その記録の意味を、世間が知るのは、もう少しだけ先の話だ。




