第39話 答え合わせ
会場の一番うしろの席は、来賓席でも、報道席でもなかった。
あとで庁の人に聞いたところでは、あれは抽選制の一般席だという。
つまり、あの人は並んだのだ。クラン玄武を一代で築いた男が、官報の告知を見て、申し込みをして、抽選に並んだ。
拍手が鳴りやんで、もう一度そちらを見たときには、席は空だった。角の擦り切れた封筒ごと、人混みのどこにも見つからなかった。
観察歴二十年の目が、人ひとり見失ったのである。……いや、違うな。
見失ったんじゃない。背中を見せない男が、顔を見せられなかったのだ。
◇
その夜、六畳間の玄関に、靴が七足は入らなかった。丸くんのブーツだけ、外階段で留守番になった。
「親父、約束の続きだ」
丸くんが、あの金属の瓶を振った。深淵の前夜、一センチだけ注いで岩の上に置いてきた、あの瓶である。
「全員、湯呑みはあるね。うちのコップはこれで全部だから、割らないこと」
約束どおり釜ごと炊いた米が、十分で消えた。報告会と認定式が終わって、世界中の中継が引き上げて、ようやくの打ち上げだった。
酒が一周したところで、俺は押し入れから茶封筒を五つ出した。
「式は昼間ので終わりだけど、もうひとつだけ。……八年やって、俺は君たちに、卒業式をやったことがなかったから」
中身は、賞状用紙ではない。文房具屋の前まで行って、やめた。性に合わない。代わりに、それぞれのノート――『足運び』『呼吸』『荷重』『最短距離』『視線誘導』――の最後の白紙を切って使った。
『卒業認定。剣条玲。もう俺が教えることは何もない。胸を張って行きなさい』
五枚とも、文面はほとんど同じである。コーチの語彙なんて、そんなものだ。
玲くんは両手で受け取って、長いこと動かなかった。「……額に、入れます」
澪さんは封筒の中身を検分して、言った。「補足。日付が今日になっています。二年前では、なく」
「卒業の日付は、渡した日でいいんだよ」
「補足。では、私の卒業は今日です。記録を訂正します。……以上です」
そう言って彼女は、あの分厚い『講座全記録』を開いて見せた。白いままだった最後のページが、埋まっていた。
『最終回、深淵。先生は、いつも通りだった。検証完了。以上』
丸くんは封筒を押し頂いて、「飾る場所はもう決めてある」と笑った。声が、少しだけ湿っていた。
夜鴉くんの番では、先に俺が、彼の三冊目を開いて見せた。最後の一行。『本人だけが、それを冷たさだと思い込んでいる』――の末尾に、赤字でひとつ。
『訂正。思い込んでいた。過去形』
「約束の訂正。赤字でやっておいた」
「……おう」
それだけ言って、人類最高効率の暗殺者は、卒業証書を懐の一番深いところにしまった。
こころちゃんは封筒を胸に当てて、それから小さく笑った。
「私……二枚目、です」
「原本は君のノートのほう。そっちは式典用の再交付。聖女様は人前に出る仕事だから、飾れる用があったほうがいい」
「……はい。両方、宝物にします」
「せ、先生! 私のは!?」
「ヒナちゃんはまだ在校生です」
「えーっ!?」
「不満そうだね。じゃあ言い方を変えよう。――俺がまだ、君を卒業させる気がない」
「……っ。そ、それなら、いいですっ」
良くないだろう、と最強五人の顔が言っていたが、本人が良いなら良いのである。
夜が更けて、湯呑みが何度も回し洗いされた。誰も、等級の話をしなかった。世界で一番強い教室の、ただの打ち上げだった。
◇
翌朝の来客は、チャイムより先に分かった。
外階段を上がってくる足音が、一段ずつ、錆を確かめるように遅かったからだ。
ドアを開けると、戸隠厳が立っていた。名代も、秘書も、黒塗りの車の影もない。八年仕えた雇い主の、初めて見る、ただの背広姿だった。
「……上がっても、いいか」
「狭いですが」
六畳間に、湯呑みが二つ。国が座り、古巣の名代が座った場所に、古巣の主が座った。
戸隠は茶に手を付けず、あの封筒を畳に置いて、こちらへ滑らせた。
「昨日、式で渡すつもりだった。……直前で、出来んかった」
中身は、一枚の古い綴りの写しだった。『新人合同選抜・視察記録』。日付は、二十五年前。所見の欄に、今より角の立った、若い字が並んでいる。
『柊慎一、十七。身体は並。反射も並。おそらく、上へは行けん』
『だが、目が良すぎる。年長者の動きを盗んで、ノートに言葉で書き直している。訊けば「自分は感覚で覚えられないので」と言う。ああいう目は、百人に一人も出ん。――面白い若手がいる。覚えておけ』
「三十のときの、俺の字だ」と、戸隠は言った。「八年前、アンタの採用稟議に判を押したとき、俺はこれを忘れておった。経歴のBの字だけ見て、安く使える、と。それだけだった」
太い指が、膝の上で握り込まれた。
「俺はアンタを見出した。そして、俺の作った物差しが、アンタを潰した。自分の目で見つけたものを、自分の表で、二十五年かけて消したんだ。……許せとは言わん。ただこれは、書いた本人が返しに来るべきものだと思った」
そして戸隠厳は、畳に両手をついて、深々と頭を下げた。
正面から入り、正面から出る男の、これが詫び方だった。
俺は、しばらく黙っていた。
二十五年前の字を、もう一度、最初から読む。身体は並。反射も並。上へは行けん。――全部、当たっている。この目は、最初から良かったのだ。
それから俺は、笑ってしまった。
「顔を上げてください、会長。……ひとつ、種明かしをします」
合同選抜の帰り道だ。落ち込んでいた十七歳に、教官のひとりが言ったのである。「視察のお偉いさんが、お前を面白いと言ってたぞ」と。誰が言ったのかは、最後まで教えてもらえなかった。
「並の身体で、並の反射で、それでも俺がこの業界に残って、ノートを書き続けたのは――あの一言があったからです。誰かは知らないが、世界にひとりだけ、俺の目を買った人がいる。なら、磨く価値はあるんだろうと」
湯呑みを置く。
「会長。俺を最初に『面白い』と言ったのは、あなたですよ。……俺のコーチ人生の、最初の生徒は、あなたのその評価だった。二十五年、観察して、言葉にして、育てました。――どうです。人類の常識くらいは書き換える、いい評価に育ったでしょう」
戸隠は顔を上げ、何か言おうとして、二度、失敗した。あの会議室で「寄生」と言い切った声は、もうどこにもなかった。
「……アンタは、化け物か」
「いえ、コーチです」
やがて戸隠は、背広の内側から、今度は新しい封筒を出した。
「報告だ。玄武の会長職は、今月で退く。最後の決裁として――アンタの十六件、全部通した。育成棟は下位等級向けに無償で開ける。撤退基準の標準化も、報告の共有も、全部だ。……二十年遅れの判で、悪かったな」
「いい判子です。決裁は、遅れても無効になりませんから」
それから俺は、立ち上がって押し入れを開けた。
「会長。実は俺にも、渡しそびれたものがあるんです」
茶封筒の、六つ目である。昨日の式で姿を見かけて、人混みで渡しそびれた。
戸隠は怪訝な顔で封を切り――固まった。
『卒業認定。戸隠厳。
三十歳のあなたの目は、正しかった。証明に二十五年かかりました。
物差しは、何度でも作り直せます。
もう俺が言うことは何もない。胸を張って、次へ行きなさい』
「……俺に、こんなものを貰う資格は」
「卒業に資格は要りません。要るのは、次へ行く本人だけです。それに――」
俺は、二十五年前の視察記録を、そっと自分の手元に引き寄せた。これは貰っておく。家宝というやつだ。
「最初の生徒を卒業させないと、俺の答え合わせが、終わらないので」
帰り際、外階段の一番上で、戸隠は一度だけ振り返った。
「柊。……アンタの講座は、わ――俺が見ても、いいのか」
今、わしと言いかけたな、とは指摘しないでおいた。歳を取ると、人は素に戻るのである。
「どうぞ。初心者向けですから」
錆びた階段を、来たときと同じ遅さで、しかし今度は顔を上げて、五十五歳の新入生が降りていった。
◇
部屋に戻ると、畳の上には湯呑みが二つと、古い視察記録が一枚。
壁際の段ボールには、ノートが百冊と少し。
「人類最強五人を育てた男」。その呼び名を聞くたび、俺はずっと、内心で訂正を入れてきた。育ったのは本人たちで、俺は横で観察していただけです、と。
今日は、訂正の言葉が出てこなかった。
二十五年前の「面白い若手」は、どうやら、ちゃんと面白い男になったらしい。……自分で言うのは、最初で最後にするけれど。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【答え合わせ、終了。二十五年ぶん、全部】
【俺は、いいコーチだった。――以上。検証完了】
◇
そして、すべてが終わった朝が来る。
俺はいつもと同じ時間に目を覚まし、米を研ぎ、いつもと同じように――配信機材の電源を、入れた。




