第38話 書き換わる世界
帰り道は、三日だった。
行きにあれだけ俺たちを試した道が、帰りは何も言わなかった。«千の偽道»は相変わらず千本の顔をしていたが、もう迷わない。澪さんの設計図と、ヒナちゃんの歩数台帳がある。行きに六時間かけた層を、帰りは二時間で抜けた。
夜鴉くんの発光標識は、回収せずに置いていくことにした。
「次に来る誰かの、道しるべだ。……俺の仕事が人類の財産ってのは、悪くねえ響きだな」
最後の縦坑は、ヒナちゃんが先頭だった。
「先生! 光です、上! 空ですっ!」
三日ぶりの空は、夕方だった。
そして――音の、壁だった。
規制線の向こうの人垣が、地鳴りみたいな歓声を上げていた。報道のドローンが空の一角を埋め、誰かが泣き、誰かが笑い、誰かがずっと「おかえり」と叫んでいた。
【おかえり】
【おかえり!!!】
【世界トレンド1位「おかえり」】
【2位が「死者ゼロ」で3位が「基礎」。この攻略の全部が並んでる】
丸くんが盾を下ろして空に吠え、玲くんが珍しく、誰にでも分かる顔で笑った。こころちゃんは円の中心で、今日だけは自分のために泣いた。
俺は点呼の代わりに、ひとつだけ訊いた。
「種は」
「あります」「補足。あります。以上です」「あるぞ」「あるぜ」「……あります」「ありますっ!」
七人、全員。験担ぎは、果たされた。
「親父、約束だ。今夜は続きを飲むぞ」
「報告会が先。……の、あとでね」
◇
最深部の手記は、庁の研究機関に引き渡された。
素材は紙でも羊皮紙でもないらしく、年代の特定には時間がかかる。分かったのは「少なくとも数百年は古い」ことと、大半の頁が風化して読めないこと。
そして、最初の頁の一文だけが、昨日書かれたみたいに鮮明なことだった。
『この先へ進めるのは、最強の個ではなく、最良の群れである』
庁は議論の末、頁の画像をそのまま公開した。俺が現地で読み上げてしまった以上、いまさら隠す意味もない、という判断だったらしい。
一文は、その日のうちに世界中の言語に訳された。
学者たちは筆者を論じた。何百年前に、どんな装備で、何人で、あの最深部まで潜ったのか。帰れたのか。答えの出る材料は、何ひとつ見つからなかった。
けれど世界は、学説を待たなかった。みんな、もっと単純に読んだのだ。
何百年も前の探索者が命がけで最深部まで運んだ言葉が、「個の強さがすべて」と言い続けてきた現代の等級制度に、時間を越えて突きつけられた――そういう読み方を、した。
【B級の指揮官が人類初を達成して、死者ゼロで】
【最後の一撃は、ちょっと前までE級だった子で】
【で? 現行の等級表のどこを見れば、この二人の価値が書いてあるんだ?】
【どこにも書いてない。そもそも、書く欄が無い】
【欄が無いなら、表のほうが間違ってるんだよ】
「等級制度」は、一週間ずっと、世界トレンドに残り続けた。
◇
朝の来客には、もう驚かなくなった。チャイムの鳴り方で分かるようになってきたのだ。宅配便か、回覧板か――人生の方角が変わる類のやつか。
「おはようございます、柊さん。本日は、統計のご報告に」
六畳間に、湯呑みが三つ。何度目かの、いつもの配置である。真壁さんは鞄から分厚い綴りを出して、畳の上に置いた。
『探索者等級制度・改定案(最終)』
「来週、正式に発表されます。戦闘等級は残ります。ただし、それと並ぶ柱として――育成、指揮、支援。『戦わない強さ』の三部門が、新設されます」
頁をめくって、育成部門の認定基準のところで、手が止まった。
資格は「持っていると信用される」ためのものであり、持たない者の指導を禁じないこと。
実技試験は、戦う実技ではなく、教える実技であること。
いつかこの六畳間で言った二つのお願いが、条文の骨になって、そこに並んでいた。
「……通ったんですね」
「お言葉ごと、通しました」真壁さんは眼鏡を直した。「私は十八年、人が死んだ理由を分類してきました。これは、人が生きた理由に等級を付ける、最初の制度です」
それで、と調査官は綴りの最終頁を開いた。
「発表に合わせて、育成部門の第一号認定が行われます。等級は、S。――氏名の欄だけが、まだ空白です」
湯呑みを置いた。嫌な予感しか、しなかった。
「真壁さん。第一号なら、もっとふさわしい人がいるでしょう」
「どなたです」
「……全国で、新人に飯を食わせながらコツを教えている、現場の先輩のみなさんとか」
「その方々が信用されるための制度です。第一号が軽いと、その方々の資格まで軽くなります」
役人は、綴りの下からもう一束、書類を出した。推薦書、とあった。
推薦人の欄に、剣条玲。氷堂澪。獅子王丸。夜鴉。白瀬こころ。天羽ヒナ。ダンジョン庁長官。――そして続紙に、受講生有志、署名三百二万筆。
「タグは確か、#うちの先生、でしたか。統計上、該当者は国内に一名です」
「……その統計、前から思っていたんですが、最初から答えありきでは」
「統計とは、現実を数えることです」真壁さんは、平らな目のまま言った。「数えたら、こうなりました」
三日考えて、断る理由は見つからなかった。
代わりに、お願いをひとつだけ付けた。肩書きが付いても、講座の中身は変えないこと。
「むしろ変えないでください」と真壁さんは言った。「変わられると、統計が崩れます」
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【等級制度、変わる。死なせない仕事に、名前が付く】
【第一号は荷が重い。が、軽くしたら全国の先輩たちに失礼になる。背筋を伸ばすこと】
◇
認定式の朝も、米を研いだ。二度、研ぎ損ねた。
緊張は、しているらしい。
会場は、庁の大講堂だった。発表された改定案は、議会も世論も、ほとんど素通りに近い速さで通過した。反対の声が無かったわけじゃない。ただ、反対意見が画面に出るたび、死者ゼロの十一時間二十七分のアーカイブが貼られて、議論が終わるのだ。
壇の下の最前列に、見慣れた顔が並んでいた。正装の玲くん。ノートを膝に置いた澪さん。礼服の肩がはち切れそうな丸くん。どう見ても警備動線ばかり観察している夜鴉くん。背筋を伸ばしたこころちゃん。そして、世界一姿勢のいいB級がひとり。
八年と、二年と、それからの日々。ぜんぶが、一列に座っている。
長官の手から、認定証が渡された。
『探索者等級制度・育成部門 S級 第一号 柊慎一』
二十年、書類の等級欄に「B」と書いてきた。その続きに並ぶには、ずいぶん見慣れない文字だった。
【うおおおおおおお】
【B級止まりの男が、世界の基準のほうを書き換えやがった】
【違うぞ。書き換わったんじゃない。「最初から間違ってた採点」が、やっと直ったんだ】
【総指揮・柊慎一、育成S級。歴史の教科書、確定です】
スピーチを求められたので、俺はマイクの前で、いつものように紙を三行、掲げた。
『この等級は、廊下で足の指を握った全員のものです』
『教室は、今までどおり続けます』
『次回講座・来週月曜。題は「基礎」』
【泣かせにきてる】
【月曜、行きます】
【人類の攻略常識を書き換えた男の次回作が「基礎」】
【それでこそ、うちの先生だ】
基準を書き換えたのは、俺じゃない。
何百年も前にあの一文を最深部まで運んだ誰かと、それを証明してみせた教え子たちと、毎晩廊下で足の指を握った、何百万人の生徒たちだ。俺は横で、観察して、言葉にしていただけである。
――そう言ったら、最前列の六人が六人とも、ものすごく複雑な顔をしたが。
万雷の拍手の中で、ふと、視線を感じた。
来賓席でも、報道席でもない。会場の一番うしろの、一番目立たない席。
戸隠厳。
かつて俺を「寄生コーチ」と呼んで切り捨てた男が、背筋だけは昔のままに、まっすぐこちらを見ていた。
その手に――角の擦り切れた、古い封筒が、ひとつ。
観察と言語化を二十年やってきたが、あの目の意味だけは、まだ言葉にならなかった。




