第37話 人類初
「初めまして」は、言わないと決めていた。
三年前から知っている相手に、その挨拶は嘘になるからだ。
◇
朝飯は携行食だった。梅干しだけは、一人一粒ずつ配った。長い日になると分かっている朝は、あれに限る。
「親父、種は」
「飲み込まないで。持って帰ること。験担ぎだから」
向こうから開いた道を、俺たちは一列で降りた。夜鴉くんの標識が等間隔に灯り、世界の音が、また一段、遠くなる。点々と灯る他人の光は、降りるほどに数を増した。誰のものでもない。強いて言えば――家主の灯した、玄関の明かりだ。
「補足。招かれた客が玄関で引き返すのは、礼儀に反します。以上です」
「澪さん、それは励まし?」
「事実です」
午前六時五十分。下りが、終わった。
◇
最深部は、静かだった。
円形の大空洞。床は黒い鏡のように磨かれ、天井は見えない。広間の最奥に、ぽつんと石の台座がひとつ。
そして、その手前の闇が――立ち上がった。
墨を空に流したような巨体。輪郭は定まらず、胸のあたりに鈍く光る核がひとつ。たったひとつの大きな眼が、ゆっくりと、俺たちを見た。
公式の記録に、こいつの名前はない。倒した者が、いないからだ。
「……二年ぶりです」と、玲くんが言った。「俺はあれに、初速で負けました。最速の踏み込みを、踏み込む前に潰された」
「補足。私は演算で負けました。術式が組み上がる前に、組み上がった後の対処をされていました。以上です」
「俺は盾ごと弾かれた。受けた感触も、なかった」
「俺は気配で負けたぜ。隠れた瞬間、隠れた先を見られてた」
「私は……守る人がいなくて、負けました」
五人が五人とも、別々の負け方をした。それが三年間、ずっと引っかかっていた。最強の五人を、五通りの方法で、それぞれ完璧に否定する。そんな器用な怪物が、いるものか。
いるとしたら、一種類だけだ。
「あれは――観察してる」
俺はノートを開いた。『深淵・攻略仮説』。三年ぶんの、最後の一冊。
「戦う相手を観察して、学習して、最適の『否定』を返す。君たちは強さで負けたんじゃない。読まれて負けたんだ。……つまりあれは、俺と同業者だよ」
【は?】
【観察する怪物 vs 人類一の観察オタク】
【世界よ、これが頂上決戦だ】
「入る前に、二十一項目」
起こりそうなことを、起こる順番に、全員の脳へ入れていく。攻めは必ず三手で切ること。四手目は読まれる。一度通った手は、二度と通らないと思うこと。九日間仕込んだ撤退の手順は、今日は「技」として使うこと。
「最後に。ヒナちゃんは中継と台帳。剣は、俺が言うまで抜かないこと」
「……はいっ」
「点呼。次の一歩を」
「前へ」「前へ」「補足。前へ」「前へ、だ」「……前へ」「前へ!」
午前六時五十八分。交戦、開始。
◇
開幕の三十秒で、五人の負けを全部、見せられた。
玲くんの初速は踏み込む前に床ごと潰され、澪さんの術式は起動の寸前、核の明滅に掻き消された。二年前の再演だ。――ただし、今回は続きがある。潰された玲くんは、もう丸くんの盾を時計にしている。消された澪さんの設計図は、夜鴉くんの目で引き直されている。
「正午、移動!」
盾が据わり、円が回る。誰も、欠けない。
【止まらない。否定されてるのに、止まらない】
【一人ずつなら詰む手を、六人で回してる】
午前九時十二分、最初の好機。
「丸くん――時計の真上!」
盾が斜めに鳴り、人類最速が人類最硬を蹴って、垂直に跳んだ。双頭竜を落とした、あの踏み台だ。眼の死角から落ちた一刀が墨の巨体を肩口まで裂いて、核が初めて、剥き出しになった。
届く寸前――墨が、嗤うように閉じた。
着地した玲くんが舌打ちする。「……読まれた」
「ううん、いまので確認できた。あれの学習は一回。一度見せた手は、二度通らない。――逆に言えば、初見の手は必ず一回通る。手数の勝負です。九日間の型、全部使います」
◇
そこからは、消耗戦だった。
正午。三度目の「綺麗な撤退」で円を引き、息を整える。追ってきた巨体は、千切れたマーキングの先で獲物を見失い、眼を細めた。
「補足。敵の追撃は、撤退開始から平均四秒で停止します。深追いを、しません。以上です」
「賢いねえ。……でも覚えておいて。賢い観察者ほど――確信した瞬間に、深くなる」
午後三時。こころちゃんの円の中心は、一度も割れていない。掠り傷も消耗も彼女の半径の内側で全部拾われて、死者どころか、立てない者すら出ていない。
【あの聖女の立ち位置、誰が決めてるんだ】
チームで決めている。彼女の遠慮には、任せていない。
そして俺はその間、戦いと関係のない指示を、三度だけ出した。
「ヒナちゃん、中継位置を第二標識へ」
「中継、第五標識へ」
「――第七標識へ」
台帳と中継機を抱えた一番小さい背中が、戦場の縁を少しずつ移動していく。眼は、一度もそれを追わなかった。
当然だ。あれは観察者で、観察者は脅威に序列をつける。開戦から半日近く、一度も剣を抜いていない人間の序列は――ゼロだ。
【そういえばヒナちゃん、今日ずっと運搬と実況だな】
【先生、なんで一番の愛弟子を遊ばせてるんだ?】
ごめんね。あとちょっとだけ、内緒だ。
◇
午後六時十分。手札が、双方ほとんど尽きた。
初見の型は出し切った。巨体は学習済みの否定を完璧に回し、こちらは三手で切る攻めと綺麗な撤退で、致命だけを避け続けている。膠着。ただし対等の膠着じゃない。体力に限りがあるのは、人間のほうだ。
「先生」と、夜鴉くんが影の中から言った。「そろそろ、まとめて引き出す頃合いだろ。……口座のやつをよ」
「うん。――最後の一手、いきます」
三年ぶんの仮説の、最後のページ。あれは確信した瞬間に深くなる。五回の勝利で、あれはひとつの成功体験を持っている。『この獲物は、崩れたら終わる』。なら、世界で一番上手な「崩れ」を見せればいい。
「全員に通達。次の攻めのあと、九日間の総仕上げ――世界一綺麗な撤退を、全力で。本物と同じ顔でやること」
「補足。……囮ですね。以上です」
「そう。あれに、勝利を確信させます」
午後六時二十三分。玲くんの三手が閉じ、丸くんの盾が引き、円が反転した。完璧な足順。捨てる荷物の順番まで完璧な、誰がどう見ても撤退で――誰がどう見ても、終わりかけの獲物だった。
眼が、見開かれた。
墨の巨体が初めて全力で伸び上がり、追撃のために――核が、眼の真下まで降りてきた。
五回、それで勝ってきたのだ。確信は、深い。
「――全員、一旦下がって」
そして俺は、半日越しの三手先に、言った。
「ヒナちゃん、君の番だ」
第七標識。撤退する円の延長線上。降りてきた核の、真正面。
そこに最初から立っていた一番小さい影が、初めて、剣を抜いた。
眼は、追わない。序列ゼロは、視界に入らない。
ヒナちゃんは教わったとおり、半歩下がった。呼吸を数えた。靴の中で足の指が床をつかみ、左前に、半歩。
構えは、教科書の正面。癖は、もうない。直してもらったからだ。
「――先生の基礎、舐めないでくださいっ!!」
まっすぐの、一突きだった。
今日の戦場で誰よりも遅く、誰よりも正確な一撃が、人類で一番無防備になった核を、撃ち抜いた。
◇
音は、なかった。
墨が解けるように崩れて、眼が、最後に俺を見た気がした。同業者のよしみで、俺は小さく頭を下げた。三年前から知ってたよ。君は、強かった。
午後六時二十五分。交戦時間、十一時間二十七分。
「報告を」
「全員、立ってます!」
「補足。死者ゼロ。重傷ゼロ。……人類初の、深淵踏破です。以上です」
一秒の静寂のあと、コメント欄が、決壊した。
【死者ゼロ】
【人類初】
【11時間27分】
【最後の一撃、ちょっと前までE級だった子だぞ】
【中継位置の移動、全部このためだったのか……鳥肌が止まらない】
【総指揮・柊慎一。この名前は歴史に残る】
ヒナちゃんが剣を取り落とし、こころちゃんに抱きついて、わんわん泣き出した。丸くんが盾を置いて吠え、玲くんと夜鴉くんが無言で拳を合わせ、澪さんはもう、あの白かった最後のページに何かを書き始めている。
俺はその全部を観察して、言葉にしないことに決めた。世界には、台帳に載せないほうがいい数字もある。
ノートを閉じて、最後の点呼を出した。
「次の一歩を」
「帰りましょう」「帰って続きを飲むぞ、親父」「補足。帰還を開始します。以上です」「帰投。……悪くねえ響きだ」「帰りましょう。みんなで」「帰って、ごはんですっ!」
六人、見事にばらばらだった。
八年で一番、いい点呼だった。
◇
帰り支度の途中で、ヒナちゃんが広間の最奥を指差した。
石の台座――祭壇のようにも見えるそれの上に、風化した革表紙の手記が、一冊だけ置かれていた。俺たちのものより、ずっと古い綴り。最初の頁に、こうあった。
『この先へ進めるのは、最強の個ではなく、最良の群れである』
何百年前かの探索者が、ここまで来て、これを書き残した。最強の個では、なく。
俺は声に出して読み上げた。中継が、それを世界に運んでいく。
この一文を、地上の世界がどう読むのか。
――答え合わせは、帰ってから始まる。




