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第36話 前夜


火の番というのは、もっと静かな仕事だと思っていた。

午後十時。深淵の中層、双頭竜のいた大広間。岩壁を背に野営の円ができて、焚き火が二つ。奥の火を囲んで五人ぶんの寝袋が並び、手前の火が、今夜の俺の持ち場である。

中継は、夜間モードに切り替えた。定点カメラが焚き火を一つ映すだけ。集音も、火の周りだけに絞ってある。人類に隠し事はしない主義だが、教え子の寝顔まで人類のものにする義理はない。

【焚き火しか映ってないのに視聴数の桁がおかしい】

【人類未踏の地下で燃える焚き火。情報量がすごい】

【今夜、全人類が同じ焚き火に当たってる】

世界はのんきでいい。こっちは明日、人類の誰も会ったことのない相手と会うのだ。俺はノートを開いて、今日の報告をまとめにかかり――最初の客で、手が止まった。

「……先生。少し、いいですか」

玲くんだった。当番には、まだだいぶ早い。

「どうぞ。お茶はないけど、火はあるよ」

玲くんは火を挟んだ向かいではなく、少しずれた隣に座った。相談のあるときの距離は、八年前から変わらない。

しばらく、薪の爆ぜる音だけがあった。

「……あの日、断られた理由が、今は分かります」

どの日のことか、聞き返す必要はなかった。二年前のあの夜。安い湯呑みを挟んで、専属契約を断った夜だ。

「うちのクランに、十九の剣士がいるんです。感覚型で、波があって……昔の俺に、嫌になるくらい似てる。先月、そいつに言われました。『ずっと隊長の下で学びたい』と」

「……うん」

「断りました。気付いたら、あなたと同じことを言っていました。『俺がそばにいると、お前は迷うたびに俺の答えを探すようになる』。――言いながら、分かったんです。あれは本当のことだった。それから、あれを言う側が、どれだけ寒いかも」

玲くんは火を見たまま、続けた。

「送り出す側だけが、教室に残るんですね。あなたはそれを、五回やった。五回とも、笑って」

「コーチの仕事だよ」

「……はい。今なら、それも分かります。分かった上で、言いに来ました」

人類最強の剣士は、そこで初めて、俺を見た。

「明日が終わっても、もう日数は数えません。再会までの日にちなんて、二度と。困ってなくても、顔を出します。――教室って、そういう場所でいいはずだ」

俺は返事の代わりに、火に薪を一本足した。それで通じるのが、八年という時間である。

入れ替わるように、次の客が来た。足音と呼べる音量では、なかったが。

澪さんは何も言わずに俺の前に立ち、何も言わずに、一冊のノートを差し出した。

新品ではない。角が丸くなるまで使い込まれた、分厚い一冊。表紙には、定規で引いたみたいな字で、こう書いてある。

『柊慎一・講座全記録』

めくって、息が止まった。

第一回、立ち方。第二回、下がり方。第三十六回、音の置き方――配信の全部が、日付と要点と、彼女自身の検証結果つきで綴じられていた。アーカイブを遡って書いたらしい古い回は、インクの色まで揃っている。第一回から、昨夜のぶんまで。一回も、欠けていない。

観察して、言葉にして、ノートに綴じる。俺が二十年、人にやってきたことを――この子は二年間、俺に、やり返していたのだ。

「澪さん、これは」

「補足。」と、彼女は言った。「二年前、私は置き手紙を書けませんでした。……それの、代わりです。書き終わるのに、二年かかりました。以上です」

最後のページだけが、白いままだった。

「明日のぶんが、まだなので」と、澪さんは言った。「帰還後に書きます。だから先生は、明日、いつも通りに喋ってください。記録者が困るような無理は、しないでください。以上です」

「……善処します」

「補足。善処では、困ります」

それだけ言って、彼女は寝袋に帰っていった。膝の上に、世界で一番重たい置き手紙が残った。

「親父。起きてるか」

声より先に、地面が少し沈んだ気がした。丸くんは焚き火の横にどっかりと座ると、懐から小さな金属の瓶を取り出した。

「……丸くん。攻略中だよ」

「分かってる。だから、注ぐだけだ」

カップが二つ並んで、瓶が傾いて、底に一センチだけ、琥珀色が揺れた。

「死んだ親方の教えでな。『でかい戦の前の晩は、注ぐだけ注いで、飲まずに寝ろ』。――帰ってから続きを飲むために、だとよ」

俺たちは一センチの酒を、火に透かした。

「二年前、俺はここから逃げた。盾も捨てて、がむしゃらにな。……明日は、手順がある。あんたの言う『綺麗な逃げ方』を、九日仕込んだ。だからもう怖くない――と言いたいが、半分は嘘だ。怖いもんは、怖い」

「うん。怖くていいよ。怖さは、観察の入り口だから」

「はっ。……あんたのそういうとこだよ、親父」

丸くんは立ち上がり、満たされたままのカップを、焚き火のそばの岩の上に丁寧に置いた。

「帰ったら、親父の飯だ。次は七人前じゃ足りんぞ。釜ごと持ってこい」

四人目は、いつ来たのか分からなかった。気付いたら、灯りの輪のすぐ外に、しゃがんでいた。

「……残高の話、覚えてるか。先生」

「『俺は残高しか信じない』。覚えてるよ。いい啖呵だった」

「十七のガキの世迷い言だ。……あんた、あれから千八百行も振り込みやがって」

夜鴉くんは、火を見ずに笑った。

「あの三冊、まだ取ってあるんだろ。六畳間の段ボールの中に」

「もちろん」

「なら帰ったら、最後の行を直しておけ。あれは間違いだ」

『夜鴉の優しさは、いつも最短距離を通る。本人だけが、それを冷たさだと思い込んでいる』。最後の行なら、書いた俺も諳んじている。

「『思い込んでいる』は、過去形にしておけ。……いつからかは、言わねえけどな」

「訂正しておくよ。赤字でね」

「おう。それと、利子の話だがな」と、彼は立ち上がりながら言った。「あんたの口座、いま人類で一番貯まってるぜ。十万人どころか、もう数えるのも馬鹿らしい数が毎晩振り込んでる。……明日は、まとめて引き出せ。遠慮なく俺たちを使え、って意味だ」

影に溶ける寸前、夜鴉くんは振り向かずに付け足した。

「ま、あんたは『使う』んじゃなくて『観察する』んだろうがな。――それでいい。それが一番強え」

五人目は、律儀に小さく「失礼します」と言ってから、俺の隣に座った。

それきり、何も言わなかった。

俺も、何も言わなかった。

こころちゃんは薪を一本拾って、火の崩れたところに、そっと差し入れた。火が少し、背を伸ばした。それだけのことを、ずいぶん丁寧にやった。

二年間で五十一件の下書きを書いた子だ。言葉が出てくるまでの時間なら、俺はもう知っている。だから待ったが――結局、言葉は来なかった。代わりに彼女は火に向かって、ほんの少しだけ笑った。資格とか、謝罪とか、そういうもののぜんぶ外側にある顔だった。

立ち上がるとき、一度だけ口を開いた。

「先生。明日、私、円の中心にいます」

「うん。チームで決めた立ち位置だからね」

「はい。……あそこ、世界で一番あったかい場所だと思います」

おやすみなさい、と頭を下げて、聖女様は寝袋へ戻っていった。

最後の客は、当番の交代でやってきた。

「先生、交代です! ……って、あれ? 皆さんのカップ?」

「客が多くてね。人気の焚き火なんだ、ここ」

ヒナちゃんは俺の隣に座って、しばらく火を見ていた。それから、世界で一番偉そうじゃない自慢を始めた。

「先生。私、先生の講座の、視聴者第1号ですよね」

「うん。栄えある【1】だ」

「それ、一生自慢します。おばあちゃんになっても言います。『人類の攻略常識を書き換えた講座を、最初に見つけたのは私だ』って。……ふふ。孫とかには、絶対信じてもらえないやつです」

「証拠ならあるよ。アーカイブのコメント欄に、タイムスタンプ付きの質問が二十三件」

「あーっ、あれは消してください! 今読むと必死すぎて恥ずかしいです!」

「断る。あれはもう、人類の文化財だから」

ヒナちゃんは笑って、それから火に向かって、静かに言った。

「……四連敗してたころの私に、教えてあげたいです。もうすこし頑張ったら、人類で最初の夜に、先生と最強の皆さんと一緒に、火の番をしてるよって」

俺は、何か気の利いたことを言おうとした。

失敗した。

代わりに目の奥が、勝手に熱くなった。人前では、四十二年で、たぶん初めてだった。あいにく湯呑みもないので、顔の下半分を隠すものが、何もなかった。

「……先生?」

「いや。……煙が、目にね」

「焚き火、こっちに煙、来てないですけど」

「ヒナちゃん。観察眼を先生に向けるのは、校則違反です」

「ふふ。はーい」

膝の上には、二年がかりの置き手紙。岩の上には、一センチの酒がふたつ。ポケットには、もう数えないという約束と、赤字の訂正依頼。そして隣には、視聴者第1号。

……ああ、まったく。

「俺の人生、無駄じゃなかったなあ」

声に出すつもりは、なかったのだけど。

ヒナちゃんは何も聞かなかった顔で、火に薪を足した。いい生徒である。観察と言語化の、その次の段階――「気付いて、言わない」を、この子はもう使いこなしている。

「おやすみなさい、先生。あとは任せてください」

「うん。……おやすみ」

夢も見ずに眠って、目が覚めたのは、警報のせいだった。

澪さんの観測装置が、聞いたことのない音で鳴いている。時刻は、地上でいえば夜明けどき。全員が三十秒で装備を整え――九日間の訓練は嘘をつかない――坑道の奥を見た。

最深部へ続く下りの道に、薄い光が、点々と灯り始めていた。俺たちのマーキングでは、ない。

「補足。敵性反応では、ありません。圧力も、音も……これは」

澪さんが、観測装置から顔を上げた。

「……道が、開いています。向こう側から。以上です」

夜鴉くんが、低く笑った。

「おいおい。――招かれてるぜ、俺たち」

深淵の最深部が、人類を招いている。

俺はノートの新しいページを開いて、最初の一行を書いた。

【最終日。全員で潜り、全員で帰ること】


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