第36話 前夜
火の番というのは、もっと静かな仕事だと思っていた。
午後十時。深淵の中層、双頭竜のいた大広間。岩壁を背に野営の円ができて、焚き火が二つ。奥の火を囲んで五人ぶんの寝袋が並び、手前の火が、今夜の俺の持ち場である。
中継は、夜間モードに切り替えた。定点カメラが焚き火を一つ映すだけ。集音も、火の周りだけに絞ってある。人類に隠し事はしない主義だが、教え子の寝顔まで人類のものにする義理はない。
【焚き火しか映ってないのに視聴数の桁がおかしい】
【人類未踏の地下で燃える焚き火。情報量がすごい】
【今夜、全人類が同じ焚き火に当たってる】
世界はのんきでいい。こっちは明日、人類の誰も会ったことのない相手と会うのだ。俺はノートを開いて、今日の報告をまとめにかかり――最初の客で、手が止まった。
「……先生。少し、いいですか」
玲くんだった。当番には、まだだいぶ早い。
「どうぞ。お茶はないけど、火はあるよ」
◇
玲くんは火を挟んだ向かいではなく、少しずれた隣に座った。相談のあるときの距離は、八年前から変わらない。
しばらく、薪の爆ぜる音だけがあった。
「……あの日、断られた理由が、今は分かります」
どの日のことか、聞き返す必要はなかった。二年前のあの夜。安い湯呑みを挟んで、専属契約を断った夜だ。
「うちのクランに、十九の剣士がいるんです。感覚型で、波があって……昔の俺に、嫌になるくらい似てる。先月、そいつに言われました。『ずっと隊長の下で学びたい』と」
「……うん」
「断りました。気付いたら、あなたと同じことを言っていました。『俺がそばにいると、お前は迷うたびに俺の答えを探すようになる』。――言いながら、分かったんです。あれは本当のことだった。それから、あれを言う側が、どれだけ寒いかも」
玲くんは火を見たまま、続けた。
「送り出す側だけが、教室に残るんですね。あなたはそれを、五回やった。五回とも、笑って」
「コーチの仕事だよ」
「……はい。今なら、それも分かります。分かった上で、言いに来ました」
人類最強の剣士は、そこで初めて、俺を見た。
「明日が終わっても、もう日数は数えません。再会までの日にちなんて、二度と。困ってなくても、顔を出します。――教室って、そういう場所でいいはずだ」
俺は返事の代わりに、火に薪を一本足した。それで通じるのが、八年という時間である。
◇
入れ替わるように、次の客が来た。足音と呼べる音量では、なかったが。
澪さんは何も言わずに俺の前に立ち、何も言わずに、一冊のノートを差し出した。
新品ではない。角が丸くなるまで使い込まれた、分厚い一冊。表紙には、定規で引いたみたいな字で、こう書いてある。
『柊慎一・講座全記録』
めくって、息が止まった。
第一回、立ち方。第二回、下がり方。第三十六回、音の置き方――配信の全部が、日付と要点と、彼女自身の検証結果つきで綴じられていた。アーカイブを遡って書いたらしい古い回は、インクの色まで揃っている。第一回から、昨夜のぶんまで。一回も、欠けていない。
観察して、言葉にして、ノートに綴じる。俺が二十年、人にやってきたことを――この子は二年間、俺に、やり返していたのだ。
「澪さん、これは」
「補足。」と、彼女は言った。「二年前、私は置き手紙を書けませんでした。……それの、代わりです。書き終わるのに、二年かかりました。以上です」
最後のページだけが、白いままだった。
「明日のぶんが、まだなので」と、澪さんは言った。「帰還後に書きます。だから先生は、明日、いつも通りに喋ってください。記録者が困るような無理は、しないでください。以上です」
「……善処します」
「補足。善処では、困ります」
それだけ言って、彼女は寝袋に帰っていった。膝の上に、世界で一番重たい置き手紙が残った。
◇
「親父。起きてるか」
声より先に、地面が少し沈んだ気がした。丸くんは焚き火の横にどっかりと座ると、懐から小さな金属の瓶を取り出した。
「……丸くん。攻略中だよ」
「分かってる。だから、注ぐだけだ」
カップが二つ並んで、瓶が傾いて、底に一センチだけ、琥珀色が揺れた。
「死んだ親方の教えでな。『でかい戦の前の晩は、注ぐだけ注いで、飲まずに寝ろ』。――帰ってから続きを飲むために、だとよ」
俺たちは一センチの酒を、火に透かした。
「二年前、俺はここから逃げた。盾も捨てて、がむしゃらにな。……明日は、手順がある。あんたの言う『綺麗な逃げ方』を、九日仕込んだ。だからもう怖くない――と言いたいが、半分は嘘だ。怖いもんは、怖い」
「うん。怖くていいよ。怖さは、観察の入り口だから」
「はっ。……あんたのそういうとこだよ、親父」
丸くんは立ち上がり、満たされたままのカップを、焚き火のそばの岩の上に丁寧に置いた。
「帰ったら、親父の飯だ。次は七人前じゃ足りんぞ。釜ごと持ってこい」
◇
四人目は、いつ来たのか分からなかった。気付いたら、灯りの輪のすぐ外に、しゃがんでいた。
「……残高の話、覚えてるか。先生」
「『俺は残高しか信じない』。覚えてるよ。いい啖呵だった」
「十七のガキの世迷い言だ。……あんた、あれから千八百行も振り込みやがって」
夜鴉くんは、火を見ずに笑った。
「あの三冊、まだ取ってあるんだろ。六畳間の段ボールの中に」
「もちろん」
「なら帰ったら、最後の行を直しておけ。あれは間違いだ」
『夜鴉の優しさは、いつも最短距離を通る。本人だけが、それを冷たさだと思い込んでいる』。最後の行なら、書いた俺も諳んじている。
「『思い込んでいる』は、過去形にしておけ。……いつからかは、言わねえけどな」
「訂正しておくよ。赤字でね」
「おう。それと、利子の話だがな」と、彼は立ち上がりながら言った。「あんたの口座、いま人類で一番貯まってるぜ。十万人どころか、もう数えるのも馬鹿らしい数が毎晩振り込んでる。……明日は、まとめて引き出せ。遠慮なく俺たちを使え、って意味だ」
影に溶ける寸前、夜鴉くんは振り向かずに付け足した。
「ま、あんたは『使う』んじゃなくて『観察する』んだろうがな。――それでいい。それが一番強え」
◇
五人目は、律儀に小さく「失礼します」と言ってから、俺の隣に座った。
それきり、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
こころちゃんは薪を一本拾って、火の崩れたところに、そっと差し入れた。火が少し、背を伸ばした。それだけのことを、ずいぶん丁寧にやった。
二年間で五十一件の下書きを書いた子だ。言葉が出てくるまでの時間なら、俺はもう知っている。だから待ったが――結局、言葉は来なかった。代わりに彼女は火に向かって、ほんの少しだけ笑った。資格とか、謝罪とか、そういうもののぜんぶ外側にある顔だった。
立ち上がるとき、一度だけ口を開いた。
「先生。明日、私、円の中心にいます」
「うん。チームで決めた立ち位置だからね」
「はい。……あそこ、世界で一番あったかい場所だと思います」
おやすみなさい、と頭を下げて、聖女様は寝袋へ戻っていった。
◇
最後の客は、当番の交代でやってきた。
「先生、交代です! ……って、あれ? 皆さんのカップ?」
「客が多くてね。人気の焚き火なんだ、ここ」
ヒナちゃんは俺の隣に座って、しばらく火を見ていた。それから、世界で一番偉そうじゃない自慢を始めた。
「先生。私、先生の講座の、視聴者第1号ですよね」
「うん。栄えある【1】だ」
「それ、一生自慢します。おばあちゃんになっても言います。『人類の攻略常識を書き換えた講座を、最初に見つけたのは私だ』って。……ふふ。孫とかには、絶対信じてもらえないやつです」
「証拠ならあるよ。アーカイブのコメント欄に、タイムスタンプ付きの質問が二十三件」
「あーっ、あれは消してください! 今読むと必死すぎて恥ずかしいです!」
「断る。あれはもう、人類の文化財だから」
ヒナちゃんは笑って、それから火に向かって、静かに言った。
「……四連敗してたころの私に、教えてあげたいです。もうすこし頑張ったら、人類で最初の夜に、先生と最強の皆さんと一緒に、火の番をしてるよって」
俺は、何か気の利いたことを言おうとした。
失敗した。
代わりに目の奥が、勝手に熱くなった。人前では、四十二年で、たぶん初めてだった。あいにく湯呑みもないので、顔の下半分を隠すものが、何もなかった。
「……先生?」
「いや。……煙が、目にね」
「焚き火、こっちに煙、来てないですけど」
「ヒナちゃん。観察眼を先生に向けるのは、校則違反です」
「ふふ。はーい」
膝の上には、二年がかりの置き手紙。岩の上には、一センチの酒がふたつ。ポケットには、もう数えないという約束と、赤字の訂正依頼。そして隣には、視聴者第1号。
……ああ、まったく。
「俺の人生、無駄じゃなかったなあ」
声に出すつもりは、なかったのだけど。
ヒナちゃんは何も聞かなかった顔で、火に薪を足した。いい生徒である。観察と言語化の、その次の段階――「気付いて、言わない」を、この子はもう使いこなしている。
「おやすみなさい、先生。あとは任せてください」
「うん。……おやすみ」
◇
夢も見ずに眠って、目が覚めたのは、警報のせいだった。
澪さんの観測装置が、聞いたことのない音で鳴いている。時刻は、地上でいえば夜明けどき。全員が三十秒で装備を整え――九日間の訓練は嘘をつかない――坑道の奥を見た。
最深部へ続く下りの道に、薄い光が、点々と灯り始めていた。俺たちのマーキングでは、ない。
「補足。敵性反応では、ありません。圧力も、音も……これは」
澪さんが、観測装置から顔を上げた。
「……道が、開いています。向こう側から。以上です」
夜鴉くんが、低く笑った。
「おいおい。――招かれてるぜ、俺たち」
深淵の最深部が、人類を招いている。
俺はノートの新しいページを開いて、最初の一行を書いた。
【最終日。全員で潜り、全員で帰ること】




