第35話 軋む連携
俺のノートには、八年かけても解けなかった観察が、いくつかある。
そのうちの一つが――『最強同士は、並べると弱くなることがある』だ。
仮説のまま、検証の機会がなかった。検証できる被験者が、人類に五人しかいなかったからだ。
その検証が、いま始まろうとしている。最悪のことに、本番でだ。
◇
大階段を降りきる手前、最後の踊り場で、俺たちは身を低くして広間を見下ろした。
円形の大空洞。直径はおよそ百メートル。天井は暗くて見えない。中央にうずくまる岩山みたいな影が、ゆっくりと呼吸していた。
首が、二本ある。
「補足。観察報告。右頭部と左頭部で、瞬きの周期が一致しません。呼吸も別系統。事前仮説どおり、思考は二つです。つまりあれは一体ではなく、『連携する二体』とみなすべきです。以上です」
「夜鴉くん、退路は」
「階段含めて三本、マーキング済みだ。……ま、使わないで済むのが一番だがね」
俺はノートを閉じて、いつものように、起こりそうなことを起こる順番に並べ始めた。
「入る前に、十二項目。――まず、前衛は二枚。玲くんと丸くん」
玲くんと丸くんが、同時に頷いた。
二人同時の前衛運用は、人類に観測記録がない。右の首は速い獲物を、左の首は硬い獲物を、それぞれ別の頭で考えて狙ってくる。だから前衛も二枚、思考も二系統で受ける。理屈は、合っている。
合っているはずなのに、俺は昨日見た「譲り合いの半歩」を、まだ言葉にできずにいた。
癖というのは、本人の体の上で起きてからでないと、言葉が刺さらない。だから黙っていた――というのは半分嘘で、正直に言えば、観察が足りなかった。あの半歩の正体を、俺はまだ知らなかったのだ。
「点呼。次の一歩を」
「前へ」「前へ」「補足。前へ」「前へ、だ」「……前へ」「前へ!」
六つの声。よし。
「行きましょう。――今日中に、中層を終わらせます」
◇
開幕は、完璧だった。
澪さんの術式が床を走って竜の足場を限定し、夜鴉くんが影から右首の注意を逸らし、こころちゃんは円の中心、ヒナちゃんの中継が全員の言葉を全員に流す。玲くんの初速は右首の死角を捉え、丸くんの盾は左首の突進を正面から受け止めて、岩盤ごと軋ませた。
【始まった】
【双頭竜とか絵面が最終回】
【見ろ、六人の動きが訓練の通りだ】
三分で終わる――誰もがそう思った頃合いに、それは始まった。
右首と左首が、初めて、同時に同じ場所を見たのだ。
玲くんと丸くんの、中間を。
「補足。敵の攻撃座標が変化。直近の七割が、前衛二人の中間に集中しています。……学習されています。以上です」
二つの首が、交互に、執拗に、同じ一点を噛みにいく。幅にして二歩ぶん。玲くんの剣も、丸くんの盾も、どちらも届くはずの――誰もいない、無人地帯。
完璧だったはずの連携が、軋み始めていた。
そこを抜けた尾の一撃が、円の縁を掠めた。こころちゃんの詠唱が一瞬止まり、ヒナちゃんの悲鳴が中継に乗る。
「玲さん、左肩――!」
「掠っただけだ。問題ない」
問題は、ある。
俺は二人の足元だけを見ていた。
玲くんの剣線は、丸くんの盾の半径だけ、必ず外を回る。丸くんの盾は、玲くんの剣が通るたび、半拍、上げるのが遅れる。
互いの領域を、避けている。
理由は、恐怖じゃない。逆だ。信頼だ。「あいつの領域は、あいつが完璧にやる」と知っているから、踏まない。個として完成した者同士だけが陥る、チーム戦の罠。二人の信頼が深いほど、中間の死角は、深くなる。
【最強の二人が、なんかぎこちなくないか?】
【贅沢な悩みすぎる】
【先生、見てるか。これ、直せるのか】
直せる。
たぶん、一言で。
俺はマイクを握った。八年ぶんのノートが、頭の中で一冊に綴じ直される。盾は時計。盾の据わった場所が、戦場の正午。なら――正午の真上は、空いている。
「玲くん」
「はい!」
「丸くんの盾を、『壁』じゃなく――『踏み台』だと思って」
一拍の、沈黙。
それから通信の向こうで、玲くんが笑う気配がした。
「……っ、了解!」
「おう、来い! 親父公認だ、遠慮すんな!」
丸くんの盾の角度が、変わった。受け止めるための垂直から、すくい上げるための斜めへ。
玲くんが、走った。誰よりも速いその初速のまま、避け続けてきた相棒の領域へ、真正面から踏み込む。
盾が、鳴った。
荷重の名人が、十全のタイミングで打ち上げる。人類最速の剣士が、人類最硬の盾を蹴って、垂直に跳ぶ。
二つの首が、揃って上を向いた。
二つの思考が、初めて、同じ一点で渋滞した。
上は――どちらの首の担当でも、なかったのだ。
「――お先に」
落下と斬撃が重なって、右の首が、落ちた。
残った左首が振り向いた先には、もう盾の全力が突っ込んできている。仰け反った首筋を、着地から二歩で戻ってきた玲くんの二の太刀が、走り抜けた。
地響きは、一度だけだった。
午後六時十二分。中層の主、討伐。死者ゼロ。負傷、掠り傷一。
【は?】
【踏み台wwww】
【一言で物理が変わったんだが】
【避け合ってた二人の「間」が、一番の武器になった……】
【発想の転換で竜が死ぬところ、初めて見た】
◇
「補足。」澪さんが、倒れた竜を計測しながら言った。「先生の本日の指示は、開幕前の十二項目と、戦闘中の一言。合計十三件。一言あたりの戦果としては、観測史上最高です。以上です」
「澪さんの足場限定がなかったら、跳ぶ場所もなかったよ」
こころちゃんが玲くんの左肩を診て、ヒナちゃんが歩数台帳に何かを書き込んで、丸くんが盾の縁を撫でながら「踏み台か……」と妙に嬉しそうに呟いている。
玲くんだけが、剣を納めたまま、しばらく動かなかった。
それから俺の前に来て、震える声で、言った。
「……八年、ずっと思っていたことを、言っていいですか」
「どうぞ」
「やっぱりあなたは、戦場にいるべき人だった。――コーチは、戦場でこそ最強だ」
俺は返事に困って、結局、ノートの隅にこう書いた。
【玲と丸。「譲り合い」――解消。中間は死角ではなく、二人の合作だった】
観察が足りなかったのは、俺も同じだ。あの半歩は、欠陥じゃなかった。使い道の決まっていない、信頼の余白だったのだ。
◇
広間の奥で、夜鴉くんが手を挙げた。
「先生。……開いてるぜ」
竜が背にしていた岩壁の奥に、下りの坑道が、静かに口を開けていた。最深部への、最後の道。
「補足。本日の継続攻略は推奨しません。全員の消耗度から、野営を提案します。以上です」
「採用。今日はここまで。――よく生きててくれました、全員」
広間の隅に野営の円ができて、焚き火が二つ、上がった。当番を決め、装備を点検し、ヒナちゃんが今日の台帳を読み上げて、それぞれが毛布にくるまっていく。
俺は火の番をしながら、ノートの新しいページを開いた。
書く前に、足音がした。
「……先生。少し、いいですか」
最初の客は、玲くんだった。




