第34話 中層の罠
俺の四十二年で、いちばん長かった三十秒の話をする。
ヒナちゃんが「誰かに名前を呼ばれた」と言ったのは、休憩の終わり際だった。以来、進むにつれて、同じ報告が全員から出始めた。呼ばれた名前は、それぞれ違う。夜鴉くんは昔の相棒の声で、丸くんは死んだ親方の声で、呼ばれたらしい。
第二関門は、坑道のどこかに門があるわけじゃない。とっくに、始まっていた。
午後二時十分。下りの大回廊。
「甘い匂い」は、進むほどに濃くなった。眠る直前の、布団の中みたいな匂いだ。精神干渉領域――事前の聞き取りでは、ここでS級五人のうち三人が「記憶の中の誰か」に会っている。
入る前に、手順を二つ足した。
「点呼を三十秒から十五秒に縮めます。それから、前後の人の荷に、常に片手で触れておくこと。――言葉が効きにくい場所では、言葉と接触を増やす。それだけです」
【対策が「こまめな声かけ」と「手つなぎ」ww】
【笑った奴は画面を見ろ。人類最強たちが大真面目に手を繋ぎ始めたぞ】
回廊は、静かだった。敵影はない。罠もない。ただ、甘い。
十五秒ごとに、六つの声が「前へ」を言う。十二回目までは、揃っていた。
十三回目。
声が、五つしか聞こえなかった。
「――ヒナちゃん」
返事の代わりに、こころちゃんの短い悲鳴が聞こえた。隊列の中ほどで、ヒナちゃんが立ち止まっていた。目は開いている。呼吸もある。ただその目だけが、ここではない、どこか明るい場所を見ていた。
夜鴉くんが肩を揺する。反応がない。
「補足。」澪さんの声が、珍しく硬い。「事前情報と一致します。この領域は侵入者を個別に『記憶』へ引き込む。外部からの強制覚醒は、推奨されません。過去、庁の調査隊で三件の症例があります。三人とも、いまも目を開けたまま、夢を見ています。以上です」
「……中から、自分で出てくるしかない、と」
「はい」
俺はマイクを握って、息を吸って――やめた。
届かないのだ。いま彼女のいる場所には、俺の声は。
教えることしか能のない男から言葉を取り上げると、こんなに小さい。マイクを握ったまま、俺はただの、無力な中年だった。
「……総指揮として宣言します。攻略中止。撤退手順、開始」
【えっ】
【ここまで来て中止!?】
【↑紙の三行を思い出せ。『誰か一人でも「次の一歩」を言葉にできなくなったとき』。あの人は自分のルールを曲げない】
撤退は、走って帰ることじゃない。
丸くんの盾が据わり、円ができる。中心にヒナちゃんと、こころちゃん。澪さんが反転の設計図を引き直し、夜鴉くんが退路のマーキングを確かめに走る。九日間、毎日仕上げた手順が、淀みなく回る。
俺にできるのは、円のそばで待つことだけだった。
三十秒。俺の四十二年で、いちばん長い三十秒。
◇
天羽ヒナは、試験会場にいた。
四度目の不合格の、あの模擬戦区画だ。胸には受験番号十七番のゼッケン。正面には試験官。捌けるはずの突きが捌けず、場外に転がる。教官のため息。『全部ダメだ』。控室のドア越しの、母の声。『高校を卒業するまでに芽が出なかったら――』。同期の、隠しもしない笑い声。
四年ぶんの「ダメだった日」が、順番に、丁寧に再生されていく。
そして、自分の声がした。
「ねえ。戻っておいでよ」
振り向くと、E級装備の自分が立っていた。四連敗の頃の、目をした自分。
「頑張るの、もうやめよ? 誰にも期待されない場所って、楽だよ」
喉が締まる。呼吸が浅くなる。視界の端から、明るい教室も、六畳間も、すうっと色が抜けていく――
そのとき。
声が、再生された。
『想定外に出会ったら、まず下がること。自分の呼吸を数えること。――迫っていいのは、その後』
誰かが言ったんじゃない。頭の中で、勝手に鳴ったのだ。深夜の廊下で千回、坑道で一万回、浴びてきた声が。
ヒナは半歩、下がった。
呼吸を数える。一つ。二つ。……八つ目で、足の指が、勝手に床をつかんだ。靴の中で、グーを握るみたいに。
視界が、止まる。
――見えた。
突きを放つ試験官の、踏み込みの最初。カカトが早く床を離れ、上体が先に出て、目線が、ぶれている。
(……この癖、知ってる)
四年間の、私だ。直してもらう前の、私の癖だ。
ここは私の記憶でできた世界。なら、この試験官は、あの日の私より強くなれない。
「……私の癖は」
剣の柄を、握り直す。
「もう、先生に直してもらったんです」
左前に、半歩。
世界が、ガラスみたいに割れた。
◇
膝から崩れたヒナちゃんを、こころちゃんが抱き留めた。
脈、呼吸、瞳孔。手早い確認の間に、ヒナちゃんはぼんやりと瞬きをして、それから円の外の俺を見つけて、泣き笑いの顔になった。
「先生……あの、私」
「うん」
「先生の声が、頭の中で、再生されたんです。下がれって。呼吸を数えろって。……先生、あそこにいなかったのに、いました」
俺は何か言おうとして、失敗した。
二十年、死なないための言葉ばかり集めて生きてきた。その言葉が、俺の届かない場所で勝手に仕事をして、この子を連れて帰ってきた。
【おい】
【「教育」って、こういうことなのか】
【先生がいない場所で、先生の声で助かった。もう実証されちまったよ】
「次の一歩、言えます! 前へ、です!」
「嬉しいよ。でも撤退は続行」
「ふぇっ!?」
「綺麗に逃げる練習を九日もやったんだ。本番で使わない手はないでしょう。――綺麗に逃げれば、情報を持って帰れる。情報を持って帰れれば、何度でも挑み直せる。誰かさんたちが、五回ぶんの撤退で教えてくれたことだよ」
丸くんが、盾の陰で少し笑った気がした。
◇
第一関門出口の広間まで戻って、報告会。
ヒナちゃんの報告は、宝の山だった。あの領域は記憶から世界を作る。再生されるのは「いちばん柔らかい傷」。そして材料が本人の記憶である以上、向こうは本人の知らないものを出せない。
「補足。」と澪さん。「対抗手順を提案します。点呼を『前へ』から、実況に変更。各自、見えているものを言語化しながら歩く。……先生のメソッドです。怖いものは、言葉にした瞬間に、観察対象になる」
「採用。――じゃあ、行きましょう。今日二回目の『行ってきます』です」
午後四時、再突入。
六人ぶんの実況が、甘い回廊にぼそぼそと流れる。およそ人類未踏攻略の絵面ではない。が、効いた。
中ほどで一度だけ、澪さんの足が、乱れた。
「澪さん。見えているものを、言葉に」
「…………補足。現在、幻覚を視認しています。内容は、二年前の夜。荷物をまとめて、部屋を出ていく私です。置き手紙は、ありません。……書けなかったので」
声は平坦で、語尾だけが震えていた。
「続けて。形容を、細かく」
「はい。……幻覚の中の私は、ドアの前で立ち止まっています。しかし実際の私は、止まりませんでした。よってこの映像は、記憶ですらない。私の後悔が作った、創作です。――創作に、足を止める価値は、ありません。以上です」
言い切った声は、もう、震えていなかった。
隣を歩くこころちゃんが、何も言わずに、澪さんの荷に触れる手を少しだけ強くした。
午後四時五十分。第二関門、全員通過。
【撤退から再突入まで三時間かからなかったんだが】
【「基礎ってすげぇ」の続報が来たぞ】
【今週二つ目の世界トレンド:「教育は、人の中に残る」】
◇
関門の先は、下りの大階段だった。
先行した夜鴉くんが、いつもの半分の口数で戻ってくる。
「先生。階段の下、でかい広間だ。――中層の主ってやつだろうな、いる。それでな」
珍しく、言葉を選ぶ間があった。
「咆哮が……二つ、重なって聞こえた」
「補足。記録上の仮説個体――双頭の竜種かと。頭部ごとに思考が独立。前衛適性は玲と丸ですが」澪さんは、そこで一度切った。「二人『同時』の前衛運用は、観測記録がありません。以上です」
玲くんと丸くんが、同時に頷いて、同時に半歩前へ出た。
その半歩が、ぴたりと、かぶった。
二人は顔を見合わせ、互いに譲るように、同時に半歩引いた。
――今のを見間違いだと思える指揮官は、たぶん幸せ者だ。
俺はノートの隅に、小さく書き込んだ。
【玲と丸。「譲り合い」。要観察】




