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第33話 突入


突入の朝も、米を研いだ。

『本日午前六時、人類初の〈深淵〉公開攻略が始動』

『総指揮は柊慎一氏(B級)。本人も最前列で入坑へ』

『世界同時視聴、予測単位は「億」。庁、回線を国家規模で増強』

見出しを三つ眺めて、端末を伏せた。今朝は一度も研ぎ損ねなかった。七人分。四十二年の人生で、一番多い朝飯だった。

炊き上がった米で、握り飯を七つ。具は全部、梅干しにした。験担ぎじゃない。疲れた体に一番効くのが、あれだからだ。

ヒナちゃんからメッセージが二件。

『先生! 縦坑の前、人と報道がすごいことになってます!』

『あと丸さんが「親父の飯は現地で食う」と言って朝を抜いてます! 通常運転じゃないです、史上初です!』

……責任重大である。竹皮の包みを、リュックの一番上に入れた。

〈深淵〉の入り口は、海沿いの巨大な縦坑だ。

規制線の外には夜明け前から人垣ができ、報道のドローンが空の一角を黒く染めていた。その全部を背にして、装備を整えた六人が並んでいる。九日前より、誰の背筋も柔らかい。いい兆候だ。

「親父、遅い」

「ごめん、握り飯を包んでた」

「よし。死んでも荷だけは守るぞ」

「荷物より自分を守ってね」

俺はいつものように、紙を三行、カメラに掲げた。

『目的:全員で潜り、全員で帰ること』

『撤退基準:誰か一人でも「次の一歩」を言葉にできなくなったとき』

『帰還後:観察の報告会(全員ぶん)』

「――行ってきます」

【「行ってらっしゃい」じゃないんだ、今日は】

【先生も潜るんだよな……B級が、人類未踏に】

【不安とか言ってる奴はニワカ。九日間の訓練、全部公開されてただろ】

【頼むから、全員で帰ってこい】

縦坑を降りる。中継ユニットを兼ねた発光標識を、夜鴉くんが等間隔で岩肌に打ち込んでいく。マーキングと電波の道を、同時に敷きながら進む方式だ。世界の音が頭上に遠ざかり、代わりに、深淵の呼吸みたいな低い風が下から昇ってきた。

午前六時四十分。第一階層、踏破開始。

第一関門は、二十分で現れた。

«千の偽道»。

同じ幅、同じ高さ、同じ照り返しの通路が、蜂の巣みたいに分岐し続ける迷宮層。資料の上では知っていた。だが、入った瞬間に分かる。これは、地図というものへの悪意だ。

「俺は、ここで十九日使いました」と玲くんが言った。

「補足。私は十三日です。座標計算が三日目に全部無効になりました。以上です」

「俺は二十二日だ。逃げ足の俺が、出口を見失った」

「私は……七日で、引き返しました」と、こころちゃん。

「俺は数えてねえ」と丸くん。「数えたら心が折れる層だ、ここは」

人類最強たちを、個別に、数週間ずつ溶かした層。

世界が固唾を飲んでいるのが、コメントの流速で分かる。さあ人類の英知はここで何を見せるのか――その期待の真ん中で、俺の第一声はこうだった。

「全員、歩幅を揃えて。マーキングは三重で。焦らない。――ここは『速さ』を捨てる層です」

【……それだけ?】

【歩幅ww 人類未踏で歩幅ww】

【おい今笑った奴、覚えとけよ。この人の「地味」は毎回、常識を書き換えてきたからな】

進み方は、徹底して地味だった。

歩幅は訓練で揃えた七十センチ。分岐ごとに三重のマーキング。三十秒ごとの点呼で「次の一歩」を全員が声に出す。先頭は丸くん、設計図は澪さん、偵察は夜鴉くん、円の中心にこころちゃん、最後尾の時間は玲くんが計る。そしてヒナちゃんが、全員の言葉を全員に訳して流す。

異変は、二時間目に来た。

「先生」夜鴉くんの声。報告までの遅れは、一秒半もなかった。「前方の分岐に――俺たちのマーキングがある。三重とも、完璧にだ」

通っていないはずの道に、俺たちの印が先回りしていた。

「来たね。五人の報告と、同じだ」

三年ぶんの仮説を、声に出す。

「«千の偽道»は、侵入者の『見たもの』を写して通路を増やす。景色も、光も、俺たちの付けた印さえもだ。だから目印は全部裏切る。五人が数週間溶かされた理由は、これだ。――でも」

俺は、ヒナちゃんを見た。

「写し切れないものが、一つだけあるはずなんだ。ヒナちゃん、台帳を」

「はいっ。第七分岐から第八分岐、行きは二百六歩でした。……いま戻った同じ通路は、二百三歩です! 三歩、短いです!」

それだ。

「偽道は景色を写すけど、寸法までは写し切れない。必ず、少しだけ縮む。だから歩幅を揃えたんです。七十センチで歩く君たちは、いま一人残らず、生きた物差しだ」

澪さんが、息を一つ吸った。

「補足。つまり全分岐の歩数台帳と私の設計図を照合すれば、寸法の合わない通路――偽道だけを、机上で全部消せます。所要、二十分。以上です」

【うわ】

【うわああああ分かった、分かったぞ、歩幅ってそういうことか!!】

【マーキングは「写させる餌」で、本物の地図は歩数だったのか】

【迷宮対策が「ちゃんと歩く」って、お前……】

二十分後、澪さんの設計図から千の道が消え、残ったのは、たった一本の正路だった。

午後零時五十分。第一関門、踏破。

個別では、数週間。七人では、六時間。

玲くんが出口の岩肌に手を当てて、しばらく黙っていた。十九日ぶんの何かを、そこに置きに来たみたいだった。

【六時間】

【十九日が、六時間】

【基礎ってすげぇ】

【↑それ今、世界トレンド一位になってるぞ】

【基礎ってすげぇ(世界共通語)】

関門の先の広間で、握り飯を配った。

「報告会は帰ってからやるけど、一つだけ先に。――今日の殊勲は、二百六歩を一歩も数え間違えなかった人です」

「ふぇっ!? わ、私はただ、数えてただけで……!」

「その『ただ』を六時間、一度も気を抜かずにやれるのが基礎です。胸を張りなさい」

「世界一の物差しだな、ヒナは」と丸くんが笑い、ヒナちゃんは梅干しより赤くなった。

休憩の終わり際、夜鴉くんが先の偵察から戻ってきた。

「先生。この先は下りの大回廊だ。敵影なし、構造も素直。――ただ、空気が変だ。甘い。眠る直前みたいな匂いがする」

「補足。記録上の第二関門への到達目安と一致します。事前情報が正しければ、この先は物理層ではなく――精神干渉領域です。以上です」

全員の顔が引き締まる。俺は点呼を出した。

「次の一歩を」

「前へ」「前へ」「補足。前へ」「前へ、だな」「……前へ」「前へ!」

六つの声。よし、全員言えた。立ち上がり、荷を担ぎ直した――そのときだった。

「――はい?」

ヒナちゃんが、誰もいない暗がりを振り向いて、小さく首を傾げた。

「あれ……いま、誰か、私の名前を呼びませんでした?」

誰も、呼んでいない。

第二関門は、もう始まっていた。


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― 新着の感想 ―
先生は基礎を外さないから40分毎の休憩と確認を怠ってないのだろう?実際は探索時間はもっと短いだから正確な歩幅と歩数のヒナを誉めた。 彼女が選ばれたのはもっとも技量、経験、知識が低いが愚直に基礎を続けら…
結局先生も同行するのか。 それより先生6時間も歩いて平気なんですか!? 34で冒険者引退から8年、42歳……米しか食ってるところをみたことがないし運動してる描写もほぼないから不安なんだが。
ヒナちゃんが同行することになった経緯を少しだけでも知りたいです…。 ここまで楽しく読ませて頂いてただけに、とても気になります。
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