第33話 突入
突入の朝も、米を研いだ。
『本日午前六時、人類初の〈深淵〉公開攻略が始動』
『総指揮は柊慎一氏(B級)。本人も最前列で入坑へ』
『世界同時視聴、予測単位は「億」。庁、回線を国家規模で増強』
見出しを三つ眺めて、端末を伏せた。今朝は一度も研ぎ損ねなかった。七人分。四十二年の人生で、一番多い朝飯だった。
炊き上がった米で、握り飯を七つ。具は全部、梅干しにした。験担ぎじゃない。疲れた体に一番効くのが、あれだからだ。
ヒナちゃんからメッセージが二件。
『先生! 縦坑の前、人と報道がすごいことになってます!』
『あと丸さんが「親父の飯は現地で食う」と言って朝を抜いてます! 通常運転じゃないです、史上初です!』
……責任重大である。竹皮の包みを、リュックの一番上に入れた。
◇
〈深淵〉の入り口は、海沿いの巨大な縦坑だ。
規制線の外には夜明け前から人垣ができ、報道のドローンが空の一角を黒く染めていた。その全部を背にして、装備を整えた六人が並んでいる。九日前より、誰の背筋も柔らかい。いい兆候だ。
「親父、遅い」
「ごめん、握り飯を包んでた」
「よし。死んでも荷だけは守るぞ」
「荷物より自分を守ってね」
俺はいつものように、紙を三行、カメラに掲げた。
『目的:全員で潜り、全員で帰ること』
『撤退基準:誰か一人でも「次の一歩」を言葉にできなくなったとき』
『帰還後:観察の報告会(全員ぶん)』
「――行ってきます」
【「行ってらっしゃい」じゃないんだ、今日は】
【先生も潜るんだよな……B級が、人類未踏に】
【不安とか言ってる奴はニワカ。九日間の訓練、全部公開されてただろ】
【頼むから、全員で帰ってこい】
縦坑を降りる。中継ユニットを兼ねた発光標識を、夜鴉くんが等間隔で岩肌に打ち込んでいく。マーキングと電波の道を、同時に敷きながら進む方式だ。世界の音が頭上に遠ざかり、代わりに、深淵の呼吸みたいな低い風が下から昇ってきた。
午前六時四十分。第一階層、踏破開始。
◇
第一関門は、二十分で現れた。
«千の偽道»。
同じ幅、同じ高さ、同じ照り返しの通路が、蜂の巣みたいに分岐し続ける迷宮層。資料の上では知っていた。だが、入った瞬間に分かる。これは、地図というものへの悪意だ。
「俺は、ここで十九日使いました」と玲くんが言った。
「補足。私は十三日です。座標計算が三日目に全部無効になりました。以上です」
「俺は二十二日だ。逃げ足の俺が、出口を見失った」
「私は……七日で、引き返しました」と、こころちゃん。
「俺は数えてねえ」と丸くん。「数えたら心が折れる層だ、ここは」
人類最強たちを、個別に、数週間ずつ溶かした層。
世界が固唾を飲んでいるのが、コメントの流速で分かる。さあ人類の英知はここで何を見せるのか――その期待の真ん中で、俺の第一声はこうだった。
「全員、歩幅を揃えて。マーキングは三重で。焦らない。――ここは『速さ』を捨てる層です」
【……それだけ?】
【歩幅ww 人類未踏で歩幅ww】
【おい今笑った奴、覚えとけよ。この人の「地味」は毎回、常識を書き換えてきたからな】
◇
進み方は、徹底して地味だった。
歩幅は訓練で揃えた七十センチ。分岐ごとに三重のマーキング。三十秒ごとの点呼で「次の一歩」を全員が声に出す。先頭は丸くん、設計図は澪さん、偵察は夜鴉くん、円の中心にこころちゃん、最後尾の時間は玲くんが計る。そしてヒナちゃんが、全員の言葉を全員に訳して流す。
異変は、二時間目に来た。
「先生」夜鴉くんの声。報告までの遅れは、一秒半もなかった。「前方の分岐に――俺たちのマーキングがある。三重とも、完璧にだ」
通っていないはずの道に、俺たちの印が先回りしていた。
「来たね。五人の報告と、同じだ」
三年ぶんの仮説を、声に出す。
「«千の偽道»は、侵入者の『見たもの』を写して通路を増やす。景色も、光も、俺たちの付けた印さえもだ。だから目印は全部裏切る。五人が数週間溶かされた理由は、これだ。――でも」
俺は、ヒナちゃんを見た。
「写し切れないものが、一つだけあるはずなんだ。ヒナちゃん、台帳を」
「はいっ。第七分岐から第八分岐、行きは二百六歩でした。……いま戻った同じ通路は、二百三歩です! 三歩、短いです!」
それだ。
「偽道は景色を写すけど、寸法までは写し切れない。必ず、少しだけ縮む。だから歩幅を揃えたんです。七十センチで歩く君たちは、いま一人残らず、生きた物差しだ」
澪さんが、息を一つ吸った。
「補足。つまり全分岐の歩数台帳と私の設計図を照合すれば、寸法の合わない通路――偽道だけを、机上で全部消せます。所要、二十分。以上です」
【うわ】
【うわああああ分かった、分かったぞ、歩幅ってそういうことか!!】
【マーキングは「写させる餌」で、本物の地図は歩数だったのか】
【迷宮対策が「ちゃんと歩く」って、お前……】
二十分後、澪さんの設計図から千の道が消え、残ったのは、たった一本の正路だった。
◇
午後零時五十分。第一関門、踏破。
個別では、数週間。七人では、六時間。
玲くんが出口の岩肌に手を当てて、しばらく黙っていた。十九日ぶんの何かを、そこに置きに来たみたいだった。
【六時間】
【十九日が、六時間】
【基礎ってすげぇ】
【↑それ今、世界トレンド一位になってるぞ】
【基礎ってすげぇ(世界共通語)】
関門の先の広間で、握り飯を配った。
「報告会は帰ってからやるけど、一つだけ先に。――今日の殊勲は、二百六歩を一歩も数え間違えなかった人です」
「ふぇっ!? わ、私はただ、数えてただけで……!」
「その『ただ』を六時間、一度も気を抜かずにやれるのが基礎です。胸を張りなさい」
「世界一の物差しだな、ヒナは」と丸くんが笑い、ヒナちゃんは梅干しより赤くなった。
◇
休憩の終わり際、夜鴉くんが先の偵察から戻ってきた。
「先生。この先は下りの大回廊だ。敵影なし、構造も素直。――ただ、空気が変だ。甘い。眠る直前みたいな匂いがする」
「補足。記録上の第二関門への到達目安と一致します。事前情報が正しければ、この先は物理層ではなく――精神干渉領域です。以上です」
全員の顔が引き締まる。俺は点呼を出した。
「次の一歩を」
「前へ」「前へ」「補足。前へ」「前へ、だな」「……前へ」「前へ!」
六つの声。よし、全員言えた。立ち上がり、荷を担ぎ直した――そのときだった。
「――はい?」
ヒナちゃんが、誰もいない暗がりを振り向いて、小さく首を傾げた。
「あれ……いま、誰か、私の名前を呼びませんでした?」
誰も、呼んでいない。
第二関門は、もう始まっていた。




