第32話 指揮官の正体
初めての朝、というものは、四十二にもなるとめっきり減る。今日は、その貴重な一回だった。
『〈深淵〉攻略チーム、本日より合同訓練。全過程を生中継』
『会場は庁・第三管理ダンジョン。「手の内を世界に晒す」前代未聞の方式に賛否』
『観覧抽選、倍率四千倍』
見出しを三つ眺めて、端末を伏せた。米を研ぐ。今朝は一度だけ、研ぎ損ねた。
手の内なら、最初から晒すと決めている。人類が初めて潜る場所に持ち込みたくないのは、隠し事だけじゃない。隠し事をする癖、そのものだ。
ただ――緊張は、していないと言えば嘘になる。
俺は八年、ノートから数えれば二十年、人の動きを観察して、言葉にしてきた。けれど、その言葉で実戦形式の「指揮」を執るのは、今日が生まれて初めてである。
ヒナちゃんからメッセージが二件。
『先生! 現地、報道のカメラがすごいことになってます!』
『あと丸さんが朝から五人前食べてました。通常運転です!』
よし。俺も通常運転で行こう。
◇
庁の第三管理ダンジョンは、魔物の密度と出現帯を管理された訓練用の浅層迷宮だ。入り口前の広場に、装備を整えた六人が並んでいた。
心なしか、全員の背筋がいつもより硬い。無理もない。俺の授業なら何百回も受けた六人だが、俺の「指揮」を実戦形式で受けるのは、全員、今日が初めてなのだ。
俺はいつものように、紙を三行掲げた。
『目的:〈深淵〉で使う型を、六人の体に入れること』
『撤退基準:本番と同じ。誰か一人でも「次の一歩」を言葉にできなくなったら、その場で中止』
『帰還後:観察の報告会(全員ぶん)』
「では始めます。第一課題、第五層までの往復。――指示は、いまから十分で全部出します」
「全部、ですか」と玲くん。
「全部です」
そこから俺は、喋り続けた。
二番通路の幅では、玲くんの抜刀が壁に半歩食われること。三番分岐は音が回るから群れに背後を取られやすく、そうなったら丸くんの盾が据わった場所が「正午」で、全員が時計回りに再配置すること。澪さんの設計図は夜鴉くんの報告で更新されるが、その間の空白はヒナちゃんの中継が埋めること。隊列が崩れたら、最初に動かすのは火力ではなく、こころちゃんの立ち位置であること。
起こりそうなことを、起こる順番に、十七項目。全員の脳に先に入れていく。
「以上。じゃあ、行ってらっしゃい」
【行ってらっしゃい!?】
【指揮官、入り口に残るのか】
【ついて行かないんだ……】
モニターの並んだ机が、今日からの俺の教卓である。
◇
往路で俺が口を開いたのは、零回だった。
復路の三番分岐で、管理ダンジョンには珍しい規模の回り込みが起きた。警報を出そうとマイクに手を伸ばし――伸ばしただけで、終わった。丸くんの盾はもう据わっていて、五人は時計回りの再配置を終えていて、こころちゃんは誰に言われるでもなく、円の中心に立っていた。
「……はい。いまのが、入る前に言った『三手目』です」
結局この日、俺が坑内に飛ばした指示は、三回だった。
【待ってくれ。指揮官、ほとんど喋ってないよな?】
【なのに六人が一個の生き物みたいに動いた】
【これ……指揮、なのか?】
休憩時間。ヒナちゃんがマイクを持って広場を駆け回り、壁にもたれていた夜鴉くんの前で止まった。
「夜鴉さん! 視聴者さんから質問です! 『先生は何もしていないように見えるのに、どうして皆さん動けるんですか』!」
「……それの説明、俺かよ」
夜鴉くんは心底面倒くさそうに頭を掻いて、それでも、カメラにまっすぐ向き直った。
「いいか。普通の指揮官は『今、何をするか』を指示する。それが仕事だ。――先生は違う。『三手先に何が起きるか』を、全員の脳に先に入れておく。だから俺たちは、指示される前に動ける」
「坑内で先生の言葉が要るのは、読みから外れた時だけだ。で、今日、それは三回だった。人類未踏の迷宮を想定した訓練で、想定外が三回。……笑えるだろ。あの人の頭の中には、もう一個ダンジョンが建ってるんだよ」
「補足。」
いつの間にか、澪さんが画面に入っていた。
「標準的な攻略指揮の通信量は、毎分四件から十二件。本日の先生は、入坑前に十七件、坑内三件。指揮の九割を『前払い』する指揮官は、私の知る限り観測史上初です。以上です」
【前払いの指揮……】
【三手先を、先に配っておくのか】
【てか解説まで役割分担が完璧なの何なんだ、この教室は】
◇
午後。
「ここからが、今日の本題です」
六人が並び直す。世界中が、人類最強チームの新戦術とやらを待っているのが、コメントの流速で分かった。
「午後は最終日まで毎日――負け方の練習をします」
広場が、静まり返った。
「……親父。勝ち方じゃなくて、か」と丸くん。
「うん。勝ち方は、教えられないんだ。〈深淵〉の中身は人類の誰も知らない。勝ち筋は現地で君たちが見つけるしかない。――でも、負け方だけは、入る前に決めておける」
俺はノートを開いた。
「君たちは強すぎて、撤退の練習を一度もしたことがない。違いますか」
誰も、否定しなかった。当然だ。撤退の練習をするのは、撤退する予定のある人間だけだ。最強たちの辞書では、撤退は予定ではなく、例外だった。
「撤退は、走って帰ることじゃありません。隊列が反転する瞬間、前衛と後衛が入れ替わる。探索全体で一番死人が出るのは、実はそこです。だから、綺麗に逃げる練習をします。世界一強い君たちに、世界一綺麗な逃げ方を覚えてもらいます」
訓練は、地味の極みだった。
反転の足順。捨てる荷物の順番。撤退路の三重マーキング。三十秒ごとの点呼――全員が「次の一歩」を声に出して言えるかの確認。一人でも言えなくなったら、その時点で攻略は中止。中止を宣言する権利は六人全員にあり、宣言した者を誰も責めない。
「言い出した人が、全員を生かした人です。帰還後の報告会では、その人から先に褒めます」
人類最強の五人が、何百万人が見ている前で、逃げる練習を繰り返した。
玲くんは一度も嫌な顔をしなかった。澪さんは反転の角度を小数点以下まで詰めてきた。夜鴉くんは「逃げ足は専門だ」と軽口を叩きながら、誰よりも丁寧に足順をなぞった。こころちゃんは、円の中心から動かないという練習を――たぶん人生で初めて、自分が守られる練習をした。
一度だけ、丸くんが手を挙げた。
「親父。……俺は〈深淵〉から逃げた時、何も考えちゃいなかった。盾も捨てて、がむしゃらに走った。今でも、夢に見る。……あれを、もう一回やる練習なのか」
「逆だよ、丸くん」と俺は言った。「がむしゃらの撤退は、敗走。手順のある撤退は、攻略の一部だ。綺麗に逃げられれば、情報を持って帰れる。情報を持って帰れれば――何度でも、挑み直せる。君たちが五回逃げてくれたから、人類はいま、六回目を始められるんだよ」
丸くんは、しばらく黙って、それから世界で一番硬い盾を担ぎ直した。
「……もう一周、頼む」
【最強たちが、逃げる練習をしてる】
【プライドをへし折る訓練のはずなのに、誰一人ふてくされてない】
【信頼って、こういう形をしてるんだな】
【なあ、深淵がちょっと可哀想になってきた。こいつら「負けること」まで仕上げてくるぞ】
◇
訓練は、九日間続いた。
最終日。澪さんの計測によれば、反転完了までの所要時間は初日の三分の一。夜鴉くんの報告の「三秒」は、一秒半まで縮んでいた。ヒナちゃんの中継は、もう誰の言葉も訳し損ねない。
「――明後日の朝、潜ります」
俺がそう告げた夜の同時視聴数は、また「測定不能」だったらしい。
◇
突入前夜。
六畳間で、俺は段ボール箱を開けた。
百冊と少しのノート。「剣条玲・足運び」「氷堂澪・呼吸」「獅子王丸・荷重」――八年ぶんの背表紙を順番に撫でて、俺は一番奥から、最後の一冊を取り出した。
表紙には、こう書いてある。
『深淵・攻略仮説』
この題を書いたのは、先月だ。指名を受けた夜、俺はようやく、相手の名前を知ったから。
けれど、最初のページをめくれば――日付は、三年前だった。
行き先を言えない仕事から帰ってくるたび、教え子たちは少しずつ、変わっていた。立ち方が。呼吸の数え方が。灯りの落とし方が。五人が五人とも、口を揃えたように何も言わず、同じ「何か」に負けた目をしていた。
名前も、場所も、知らないまま。俺はその「何か」を、最後の一年は五人の体越しに、独立されてからの二年は公開された戦闘記録の映像越しに、観察し続けてきた。観察と言語化しか能のない男の、三年ぶんの仮説が、この一冊だ。
ページをめくる音だけが、六畳間に落ちる。
「……『初めまして』は、言わないよ」
明日会う相手に向かって、俺は小さく言った。
「君のことは、三年前から知ってるんだ」




