第40話 最終話:講座は続く
米を研ぐ。
六畳間の朝は、世界がどう変わっても、米を研ぐところから始まる。
あの認定式から、一年が経った。
変わったことを数えれば、きりがない。
等級表には「戦わない強さ」の欄が増えた。育成部門の認定者は、この一年で全国三千人を超えたらしい。新人に飯を食わせながらコツを教えてきた全国の先輩たちに、ようやく「信用されるための紙」が行き渡ったわけだ。玄武の育成棟は下位等級に無償で開かれ、撤退基準の標準化は今年、海を渡った。そして探索者の死亡事故は――真壁さんに言わせると「統計を取り始めて以来、最大の下げ幅」だそうである。
変わらないことも、ある。
家賃五万八千円のこのアパートだ。引っ越せと七人全員に言われたが、断った。廊下の幅が、足の指の練習にちょうどいいのである。
壁際の段ボールのノートは、百冊と少し――いや、嘘だ。先週数えたら、百二十冊になっていた。
炊飯器のスイッチを入れて、配信機材の電源を入れる。
午前五時五十八分。
教室が朝に引っ越したのは、半年前だ。受講者が世界中に広がって、どの時間に配信しても「誰かの深夜」になった。だったら基準は俺の朝でいい、ということになった。早起きは二十年来の習慣だし、それに、朝の講座には通勤中の社会人がよく来る。立ち方の話は、満員電車でも練習できるのだ。
六時、定刻。
「おはようございます。初心者向けダンジョン講座、始めます」
【おはようございます、先生】
【おはよう】
【こちら夜の九時です。ブラジル組、参りました】
【字幕翻訳班、本日も十四言語、配置完了です】
【先生、今日も米の音から入りましたね】
「炊飯器は消し忘れではなく、演出です。……嘘です。消し忘れです」
視聴者数の表示は、もう見ないことにしている。桁が増えるたびに緊張する癖は、第一回の【0】で卒業したはずなのだ。
それと、常連の中にひとつ、毎朝六時きっかりに【出席】とだけ打つアカウントがある。名前は伏せるが、五十六歳の新入生は今のところ皆勤である。錆びた階段を降りていった背中が、毎朝この教室の一番前に座っていると思うと、悪くない。
◇
「本題の前に、連絡事項を三つ」
ひとつ。来週の合同実技は、剣条コーチの担当です。
【人類最強が「コーチ」って呼ばれて普通に返事するの、何回見ても面白い】
【剣条式・足運び基礎、地獄だけど死ななくなるからおすすめ】
玲くんは月に一度、この六畳間に愚痴を言いに来る。「先生。教えるというのは、斬るより難しいですね」と人類最強が真顔で言うので、俺はいつも同じ返事をする。それが分かった時点で、半分は教えられているよ、と。
ふたつ。氷堂さんの『講座全記録・第二版』が今月出ます。受講生は割引だそうです。
【補足。印税は全額、下位等級向けの訓練設備に回します。以上です】
【ご本人が来た】
【「補足」が公式構文になった世界線】
みっつ。玄武育成棟、今月の無料開放日は土曜です。棟長の手料理が出ますが、量に注意してください。育ち盛り基準です。
丸くんは育成棟の棟長になった。新人に飯を食わせながらコツを教えるという、つまり「全国の先輩」の一番でかいやつである。夜鴉くんは裏アカ三つを畳んで、表の名前で偵察講座を持った。意外なことに――いや、俺は意外じゃなかったが――受講生への赤字の入れ方が、一番丁寧なのはあいつだ。こころちゃんは回復術師の学校で「守る人を、守る側」を育てていて、月曜のこの枠に教え子を十人ずつ連れてくる。
渡したものが、それぞれの場所で、次の誰かに渡っていく。
コーチの仕事の成果は、卒業した瞬間に消える。昔の俺はそう書いた。訂正しよう。――消えるんじゃない。名前が変わって、増えるのだ。
【遅刻しましたっ! B級・天羽、ただいま帰投ですっ!】
「おはよう。潜行明けは寝なさいと言ったよね」
【後輩二人、初めての四層から無事に連れて帰りました! 報告と授業、どっちも譲れないので来ましたっ】
死亡事故の九割が起きる、四層より浅い場所。そこから後輩を二人、無傷で連れて帰って、その足で授業に出る。今のヒナちゃんは、そういうB級だ。腰のポーチには剣の手入れ道具と、表紙に『一冊目・足運び』と書かれたノートが入っている。中身は彼女の観察と、彼女の言葉だ。俺のノートの写しではない。それでいい。それが、いい。
ちなみに彼女は、いまだに在校生でもある。卒業させる気は、まだない。
◇
「では、今日の本題――の前に、質問を拾います」
コメント欄をさかのぼる。常連の挨拶。時差の報告。丸くんのレシピ公開要求。その流れの中に、それは、ぽつんとあった。
【はじめまして。質問です。昇格試験に四回落ちました。もう諦めたほうがいいですか】
コメント欄が、止まった。
数秒の静寂のあと、ゆっくりと、決壊した。
【おい】
【おいおいおい】
【この書き出し、知ってるぞ】
【古参は全員正座しろ。歴史の再放送が始まる】
騒がない騒がない。初めての人が怖がるだろう。
四回、か。
名前に見覚えはない。どこの誰かも、何歳かも、才能があるのかないのかも、画面のこちらからは分からない。
分かることは、ひとつだけある。四回落ちて、五回目を諦める前に、この人は初心者講座を探し当てて、見ず知らずの中年に、世界で一番怖い質問をした。
――二十年と少し前、誰よりも才能のなかった男が、死なないためにノートの一行目を書いたのと、同じ場所に立っている。
ヒナちゃんのコメントが、そっと流れた。
【四回落ちた先輩から、ひとことだけ。――五回目は、世界が変わって見えますよ】
俺は目を細めて、マイクに向き直った。
「いい質問ですね」
あの日と同じ言葉が、自然に出た。
「じゃあ今日は、基礎の話をしましょう」
段ボールの一番古い箱から、名前のないノートの一冊目を出す。二十年以上前、世界の誰にも期待されていなかった俺が、死なないために書いた最初のページ。
「第一回。――『装備より先に、立ち方の話をさせてください』」
地味です。多分、びっくりするほど地味です。
でも、死ななくなる。
【始まった】
【何度でも始まるんだよ、この講座は】
【四回落ちたあなたへ。ようこそ、世界で一番強い教室へ】
◇
配信を切って、炊きたての飯を食って、ノートへ二行だけ書いた。
【新入生、一名。書き出しに見覚えあり。経過観察】
【教室、満員。ただし席は、まだいくらでもある】
誰もいなかった教室に、今は数えるのをやめた数の生徒がいる。それでも、やることは最初の夜から何ひとつ変わらない。
観察して、言葉にして、渡す。
渡された誰かが、いつか、次の誰かに渡す。
人類の攻略常識を書き換えた講座は、今日も、びっくりするほど地味に続いていく。
――講座は、続く。
(完)




