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第30話 卒業証書


差し出された一冊を、白瀬こころは両手で受け取った。

受け取ったまま、長いこと、開けなかった。表紙の癖字を、判決文か何かのように見つめている。

「読んでごらん」と、俺は言った。「君が二年間やってきた重たい計算より、その記録のほうが、ずっと正確だから」

雨音の中で、最初のページが、めくられた。

【初日。白瀬こころ、十四。治癒範囲、手のひらまで。原因は魔力量でも術式でもなく、視線。手当てのあいだ、ずっと自分の手を見ている。――怖がっている。正しい怖がり方である】

【十二日目。「失敗したら死んじゃうから」と言う。育成棟で今年聞いた中で、一番まともな発言だと思う。怖さは取り上げないこと。向きだけ変えること】

【三十七日目。初めて、患者の顔を見て治した。この日だけ、範囲が倍まで届いた。定着までは、おそらく半年。本人はまだ気付いていない。気付かせるのは、もう少し先でいい】

ページをめくるたび、十四歳の自分が、そこにいた。

測定器を壊して怒られると思い込み、廊下の隅で小さくなっていた日。初めて重傷者を任された日の、止まらなかった膝の震え。【彼女の治癒は「治す」というより「迎えに行く」に近い。いい言葉がまだ見つからない。宿題】――その余白には、何年も後のインクで、答えが書き足してあった。【見つかった。「看取らない」だ。彼女は誰も看取らないために、顔を上げる】。

途中から、貼り込みが増えた。協会の昇格記録。S級認定の記事。そして後半には――白慈会の救護活動の新聞記事が、日付順に、几帳面に挟まっていた。

全部、移籍より後の日付だ。

卒業しても、観察は終わっていなかったのだ。

「……先生。これ……」

「ああ、それは記録の続き。卒業生の記事を貼るのは、コーチの数少ない娯楽なので」

最後のページに、たどり着いた。

そこだけ、観察の報告ではなかった。

【卒業認定。白瀬こころ。治癒師として、人間として、文句なし。もう俺が教えることは何もない。胸を張って行きなさい】

日付を見て、彼女の呼吸が止まった。

「……会見の、一週間前……」

「うん。白慈会から打診が来た日の夜には、もう書いてあった」と、先生は言った。「つまりね、こころちゃん。君の卒業は、君があの会見で何を読まされるより先に、とっくに決まっていたんだ。卒業認定の審査に、『会見で何を言うか』なんて項目はないんだよ。――だからね。君が何を言わされたかなんて、どうでもよかったんだよ。君の卒業は、俺の誇りだったから」

「でもっ……」

畳の上で、湯呑みが小さく鳴った。

「でも、あの記事は……二年間、ずっと先生を斬る刃に……私の名前が……」

「はい、観察の報告をひとつ」

俺は、二年間で一番重くなったらしい計算を、最初の一行から訂正することにした。二十年やってきた、いつもの仕事である。

「あの会見で傷ついた人間は、この部屋には一人もいません。カンペを三回も見ながら読まされた、十九歳が一人いただけです。……君は、嘘が世界で一番下手だからね。あの下手さで、俺には全部伝わっていました。あの会見はね、俺宛てにはずっと、世界で一番不器用な詫び状に見えてたんだよ。二年間、君は謝り続けてたの。気付いてないのは君だけだ」

「……っ」

「それと、ここだけの話をひとつ。――俺はあの記事に、感謝してるくらいなんだ」

こころちゃんが、顔を上げた。泣き腫らした目が「意味が分からない」という形になっている。

「考えてもみてごらん。あの記事のおかげで、玄武は俺を心置きなく切れた。切られたおかげで、俺は暇になった。暇になったおかげで、暇つぶしに配信なんてものを始めた。……あの記事がなかったら、この教室は存在していない。ヒナちゃんは今ごろ――いや、この先は縁起でもないから言わないけど。とにかくね」

空になった湯呑みに、三杯目を注いだ。

「君が二年間しょい込んできたその荷物は、最初から荷物の形をしていなかった。下ろしていい、ですらない。最初から、無いんです。――観察の報告は、以上」

五人目の教え子は、ノートを胸に抱えたまま、しばらく置物のように固まっていた。

それから、決壊した。

北の街で聖女と拝まれる回復術の頂点が、畳に座り込んで、わんわん泣いた。育成棟の頃にも一度も見たことのない、年相応より幼いくらいの泣き方だった。言葉は最後まで形にならなかったし、たぶん、もう形にする必要もなかった。

雨音が、弱くなっていく。

ようやく泣き止んだ頃、彼女は赤い目のまま居住まいを正して、畳に両手をついた。額は、つけなかった。校則は守られた。

「……ただいま、帰りました。先生」

「おかえり。長い遠征だったね」

その夜、五人目の教え子が帰ってきた。

こころちゃんはお茶を三杯おかわりして、それから、机の上の封筒に目を留めた。

国章入りの、あの封筒である。

「……受けるん、ですか」

「決めかねてる」と、俺は正直に言った。「俺の判断ミスは、今度は人の命に直結するので。しかも、よりにもよって、世界で一番死なせたくない五人の命に」

彼女は湯呑みを置いた。それから、顔を上げた。

北の街で何百人を迎えに行ってきた、あの目だった。

「先生。ひとつだけ、訂正があります」

「……どうぞ」

「私たちは、深淵に行きます。先生が受けても、受けなくても、です。あの場所は、放っておけば北の街にも、この街にも来ます。なら国は、いつか必ず、S級を順番に投入します。玲さんたちに訊いても、同じ答えだと思います」

「だから――先生が選べるのは、私たちを行かせるかどうか、じゃないんです。私たちが行くその日に、隣で観察していてくれるかどうか、です」

雨音が、いつの間にか止んでいた。

この数日、几帳面に同じ場所を回り続けていた考えが――止まった。

問いの立て方が、最初から間違っていたのだ。紙の上の五人は死なない。だが五人は、紙の上にいてはくれない。俺が断ろうが受けようが、五人は深淵へ行く。俺に動かせる数字は、最初からひとつしかなかった。――その日、隣に観察係がいるか、いないか。

「…………参ったな」

俺は白旗の代わりに、眼鏡を外した。

「教えた覚えのない理屈で、論破された」

「教わりました」と、五人目は泣き腫らした顔で、少しだけ笑った。「観察して、言葉に直して、噛み合う順番に並べる。――先生の教室の、基礎です」

時計は夜十時を回っていたが、構わず電話をかけた。統計の人は、ワンコールで出た。

「夜分にすみません、柊です。――例の件、お受けします」

電話越しの沈黙には、二種類ある。言葉を探している沈黙と、言葉を並べ終えてから話す人間の沈黙だ。このとき聞いたのは、十八年の統計にもたぶん載っていない、三種類目だった。

「……正式に、承りました」眼鏡を直す音が、かすかにした。「柊さん。私は十八年、悪い数字ばかり聞いてきましたが――今のは、いちばんいい返事でした」

通話を切って、講座のページに告知を一行だけ出した。『明朝八時、臨時配信。報告があります』。

寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。

【白瀬こころ、帰還。これで五人、全員の顔がそろった】

【指揮官の件、受諾。仕事は変わらない。観察して、言葉に直して、噛み合う順番に並べる。――教室が少し、深くなるだけ】

翌朝、八時。

臨時配信の待機人数は、一晩の告知にもかかわらず、表示の桁が見たことのない場所まで育っていた。

ちなみに残りの四人は、夜明け前に勝手に集まってきた。玄関の鍵は、夜鴉という職業の前では飾りであるらしい。施錠の意味について、あとで講座を一回やろうと思う。

「おはようございます、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを――と言いたいところですが、今日は、初見さん向けの回ではありません」

カメラの画角を、少しだけ引いた。

六畳間が、狭い。

俺の後ろに、剣条玲が立っている。氷堂澪が資料の束を抱えて座っている。獅子王丸は鴨居に頭がつきそうになっており、夜鴉は壁際で気配を消すのに失敗しており、白瀬こころは、湯呑みを両手で包んで正座している。座布団は二枚しかないのである。

【!?!?!?】

【全員いる】

【五人いる。五人目がいる!!】

【六畳間に人類の最終戦力が詰まってるんだが】

【聖女様ああああ 帰ってきたんだな……よかった、本当によかった……】

【せ、先生……! 朝ごはんの途中なんですけど、お味噌汁が、止まりません……!】

「報告がひとつと、お知らせがひとつ。――まず報告。〈深淵〉攻略総指揮官の件、昨夜、正式にお受けしました」

コメント欄が洪水になった。読み切れないので、続けることにした。

「お知らせ。講座の休止は、撤回します。ただし、しばらく中身が変わります。初心者向けと言いにくい回が増えるかもしれませんが……やることは、いつも通りです。観察して、言葉にして、並べる。例によって、びっくりするほど地味にやります」

湯呑みを、置いた。

「さて――今日からは、作戦会議だ」

背後で、五人が頷く気配がした。

「――深淵を、攻略します」


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― 新着の感想 ―
何とか会ってクズ集団息してる? 人のケガを治しても、人の心を傷つけたらいかんよ?
貴方の誇り大人の汚いやり口のせいで二年間傷つき続けたわけですが 古巣への未練を断ち切ってもらうために白慈会と話し合いの上でこんなことを言わせたんだったらともかくアフターケアもしないで不器用な詫び状とか…
・「君が二年間しょい込んできたその荷物は、最初から荷物の形をしていなかった。下ろしていい、ですらない。最初から、無いんです。 「自分(柊先生)は別段傷付いてなどいなかったのだから、君(こころ)が傷付…
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