第30話 卒業証書
差し出された一冊を、白瀬こころは両手で受け取った。
受け取ったまま、長いこと、開けなかった。表紙の癖字を、判決文か何かのように見つめている。
「読んでごらん」と、俺は言った。「君が二年間やってきた重たい計算より、その記録のほうが、ずっと正確だから」
雨音の中で、最初のページが、めくられた。
◇
【初日。白瀬こころ、十四。治癒範囲、手のひらまで。原因は魔力量でも術式でもなく、視線。手当てのあいだ、ずっと自分の手を見ている。――怖がっている。正しい怖がり方である】
【十二日目。「失敗したら死んじゃうから」と言う。育成棟で今年聞いた中で、一番まともな発言だと思う。怖さは取り上げないこと。向きだけ変えること】
【三十七日目。初めて、患者の顔を見て治した。この日だけ、範囲が倍まで届いた。定着までは、おそらく半年。本人はまだ気付いていない。気付かせるのは、もう少し先でいい】
ページをめくるたび、十四歳の自分が、そこにいた。
測定器を壊して怒られると思い込み、廊下の隅で小さくなっていた日。初めて重傷者を任された日の、止まらなかった膝の震え。【彼女の治癒は「治す」というより「迎えに行く」に近い。いい言葉がまだ見つからない。宿題】――その余白には、何年も後のインクで、答えが書き足してあった。【見つかった。「看取らない」だ。彼女は誰も看取らないために、顔を上げる】。
途中から、貼り込みが増えた。協会の昇格記録。S級認定の記事。そして後半には――白慈会の救護活動の新聞記事が、日付順に、几帳面に挟まっていた。
全部、移籍より後の日付だ。
卒業しても、観察は終わっていなかったのだ。
「……先生。これ……」
「ああ、それは記録の続き。卒業生の記事を貼るのは、コーチの数少ない娯楽なので」
最後のページに、たどり着いた。
そこだけ、観察の報告ではなかった。
【卒業認定。白瀬こころ。治癒師として、人間として、文句なし。もう俺が教えることは何もない。胸を張って行きなさい】
日付を見て、彼女の呼吸が止まった。
「……会見の、一週間前……」
「うん。白慈会から打診が来た日の夜には、もう書いてあった」と、先生は言った。「つまりね、こころちゃん。君の卒業は、君があの会見で何を読まされるより先に、とっくに決まっていたんだ。卒業認定の審査に、『会見で何を言うか』なんて項目はないんだよ。――だからね。君が何を言わされたかなんて、どうでもよかったんだよ。君の卒業は、俺の誇りだったから」
◇
「でもっ……」
畳の上で、湯呑みが小さく鳴った。
「でも、あの記事は……二年間、ずっと先生を斬る刃に……私の名前が……」
「はい、観察の報告をひとつ」
俺は、二年間で一番重くなったらしい計算を、最初の一行から訂正することにした。二十年やってきた、いつもの仕事である。
「あの会見で傷ついた人間は、この部屋には一人もいません。カンペを三回も見ながら読まされた、十九歳が一人いただけです。……君は、嘘が世界で一番下手だからね。あの下手さで、俺には全部伝わっていました。あの会見はね、俺宛てにはずっと、世界で一番不器用な詫び状に見えてたんだよ。二年間、君は謝り続けてたの。気付いてないのは君だけだ」
「……っ」
「それと、ここだけの話をひとつ。――俺はあの記事に、感謝してるくらいなんだ」
こころちゃんが、顔を上げた。泣き腫らした目が「意味が分からない」という形になっている。
「考えてもみてごらん。あの記事のおかげで、玄武は俺を心置きなく切れた。切られたおかげで、俺は暇になった。暇になったおかげで、暇つぶしに配信なんてものを始めた。……あの記事がなかったら、この教室は存在していない。ヒナちゃんは今ごろ――いや、この先は縁起でもないから言わないけど。とにかくね」
空になった湯呑みに、三杯目を注いだ。
「君が二年間しょい込んできたその荷物は、最初から荷物の形をしていなかった。下ろしていい、ですらない。最初から、無いんです。――観察の報告は、以上」
五人目の教え子は、ノートを胸に抱えたまま、しばらく置物のように固まっていた。
それから、決壊した。
北の街で聖女と拝まれる回復術の頂点が、畳に座り込んで、わんわん泣いた。育成棟の頃にも一度も見たことのない、年相応より幼いくらいの泣き方だった。言葉は最後まで形にならなかったし、たぶん、もう形にする必要もなかった。
雨音が、弱くなっていく。
ようやく泣き止んだ頃、彼女は赤い目のまま居住まいを正して、畳に両手をついた。額は、つけなかった。校則は守られた。
「……ただいま、帰りました。先生」
「おかえり。長い遠征だったね」
その夜、五人目の教え子が帰ってきた。
◇
こころちゃんはお茶を三杯おかわりして、それから、机の上の封筒に目を留めた。
国章入りの、あの封筒である。
「……受けるん、ですか」
「決めかねてる」と、俺は正直に言った。「俺の判断ミスは、今度は人の命に直結するので。しかも、よりにもよって、世界で一番死なせたくない五人の命に」
彼女は湯呑みを置いた。それから、顔を上げた。
北の街で何百人を迎えに行ってきた、あの目だった。
「先生。ひとつだけ、訂正があります」
「……どうぞ」
「私たちは、深淵に行きます。先生が受けても、受けなくても、です。あの場所は、放っておけば北の街にも、この街にも来ます。なら国は、いつか必ず、S級を順番に投入します。玲さんたちに訊いても、同じ答えだと思います」
「だから――先生が選べるのは、私たちを行かせるかどうか、じゃないんです。私たちが行くその日に、隣で観察していてくれるかどうか、です」
雨音が、いつの間にか止んでいた。
この数日、几帳面に同じ場所を回り続けていた考えが――止まった。
問いの立て方が、最初から間違っていたのだ。紙の上の五人は死なない。だが五人は、紙の上にいてはくれない。俺が断ろうが受けようが、五人は深淵へ行く。俺に動かせる数字は、最初からひとつしかなかった。――その日、隣に観察係がいるか、いないか。
「…………参ったな」
俺は白旗の代わりに、眼鏡を外した。
「教えた覚えのない理屈で、論破された」
「教わりました」と、五人目は泣き腫らした顔で、少しだけ笑った。「観察して、言葉に直して、噛み合う順番に並べる。――先生の教室の、基礎です」
時計は夜十時を回っていたが、構わず電話をかけた。統計の人は、ワンコールで出た。
「夜分にすみません、柊です。――例の件、お受けします」
電話越しの沈黙には、二種類ある。言葉を探している沈黙と、言葉を並べ終えてから話す人間の沈黙だ。このとき聞いたのは、十八年の統計にもたぶん載っていない、三種類目だった。
「……正式に、承りました」眼鏡を直す音が、かすかにした。「柊さん。私は十八年、悪い数字ばかり聞いてきましたが――今のは、いちばんいい返事でした」
通話を切って、講座のページに告知を一行だけ出した。『明朝八時、臨時配信。報告があります』。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【白瀬こころ、帰還。これで五人、全員の顔がそろった】
【指揮官の件、受諾。仕事は変わらない。観察して、言葉に直して、噛み合う順番に並べる。――教室が少し、深くなるだけ】
◇
翌朝、八時。
臨時配信の待機人数は、一晩の告知にもかかわらず、表示の桁が見たことのない場所まで育っていた。
ちなみに残りの四人は、夜明け前に勝手に集まってきた。玄関の鍵は、夜鴉という職業の前では飾りであるらしい。施錠の意味について、あとで講座を一回やろうと思う。
「おはようございます、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを――と言いたいところですが、今日は、初見さん向けの回ではありません」
カメラの画角を、少しだけ引いた。
六畳間が、狭い。
俺の後ろに、剣条玲が立っている。氷堂澪が資料の束を抱えて座っている。獅子王丸は鴨居に頭がつきそうになっており、夜鴉は壁際で気配を消すのに失敗しており、白瀬こころは、湯呑みを両手で包んで正座している。座布団は二枚しかないのである。
【!?!?!?】
【全員いる】
【五人いる。五人目がいる!!】
【六畳間に人類の最終戦力が詰まってるんだが】
【聖女様ああああ 帰ってきたんだな……よかった、本当によかった……】
【せ、先生……! 朝ごはんの途中なんですけど、お味噌汁が、止まりません……!】
「報告がひとつと、お知らせがひとつ。――まず報告。〈深淵〉攻略総指揮官の件、昨夜、正式にお受けしました」
コメント欄が洪水になった。読み切れないので、続けることにした。
「お知らせ。講座の休止は、撤回します。ただし、しばらく中身が変わります。初心者向けと言いにくい回が増えるかもしれませんが……やることは、いつも通りです。観察して、言葉にして、並べる。例によって、びっくりするほど地味にやります」
湯呑みを、置いた。
「さて――今日からは、作戦会議だ」
背後で、五人が頷く気配がした。
「――深淵を、攻略します」




