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第29話 聖女の土下座


国から名指しされた男の朝も、米を研ぐところから始まる。

『柊慎一氏、〈深淵〉攻略総指揮官に正式指名。本人は回答を保留』

『庁長官「期限まで待つ」。異例の指名に各界から賛否』

『S級四人の会見から一夜、世論調査は――』

見出しを三つ眺めて、端末を伏せた。世間の朝は今日も騒がしい。六畳間の朝は今日も静かである。釣り合いというものを、少しは考えてほしい。

米は、三度研ぎ損ねた。新記録である。

机の上の封筒は、昨日までと同じ顔で、そこにある。期限まで、あと七日。

ヒナちゃんからメッセージが一件。

『先生! 南部、夕方から大雨だそうです。お買い物はお早めに!』

ついに天気の管理までされるようになった。『ありがとう。ヒナちゃんも足元に気をつけるように』と返して、窓の外を見る。夕立の気配を溜めた夏の空は、まだ白かった。

前夜。北の街を発つ夜行の、一番後ろの席。

白瀬こころは膝の上の端末を、何度目かに握り直した。

五人のスレッド。最後の自分の発言は、二年前の『みなさん、お元気で』のままだ。あれから書いた下書きは、五十一件。挨拶で始まるもの。謝罪で始まるもの。どれも二行目で止まった。

五十二件目は、下書きにならなかった。打って、読み返す前に、目を閉じて送信を押したからだ。

【白瀬こころ】『先生の住所を、教えてください』

既読は、一分も経たずに四つ揃った。

【剣条玲】住所。最寄り駅からの道順。『外階段は右側が滑る。左を上がれ』という注意書きまで付いていた。

【獅子王丸】『よく言った! 土産はいらん。顔だけ持っていけ』

【氷堂澪】『補足。南部は夕方から雨。傘』

そして最後に、一行。

【夜鴉】『五十二件目で送れたなら、上出来だ』

――どうして、数まで知っているんですか。

打ちかけて、やめた。あの人は、そういう人だ。窓の外を、北の街の灯が遠ざかっていく。涙は昨夜のうちに使い切ったと思っていたのに、まだ残っていたらしい。

駅から徒歩十二分、と玲の道順にはあった。

白瀬こころは、その十二分の道を、朝のうちに歩き終えてしまった。

築三十二年のアパートは、すぐに分かった。配信で何百回も観た、あの薄い壁の色。二階の角が、世界で一番有名な六畳間だ。外階段の下まで来て、彼女は一段目に足を載せ――られなかった。

一周、歩いた。商店街を抜けて、小さな公園を回って、戻ってくる。二周目。三周目。歩きながら、言うべきことを並べる。謝罪の順番を組み立てる。組み上がるたび、階段の下で崩れる。

(皆さんのように、帰る資格はない。だから私は、謝りに来たんです。帰りに来たんじゃ、ない)

それだけを胸の中で確認して、また一周。

七周目で、雨が来た。

澪の言うとおりだった。傘は、持っている。けれど差し方を忘れたみたいに、ただ手に提げたまま、彼女は街灯の下に立っていた。資格のない人間が濡れずに立っている方法を、知らなかったのだ。

夜八時を過ぎて、雨音が強くなった。

配信のない夜は長い。俺はノートをめくる手を止めて、何となく、カーテンの隙間から外を見た。

街灯の下に、白い外套が立っていた。

三十分前にも、立っていた。

傘を持っているのに、差していない。フードもかぶらず、ただ俯いて、濡れるに任せている。……治療のとき、誰よりもまっすぐ顔を上げて人を見るように育てたはずの子が、誰も見ずに、俯いていた。

八年見てきた人間に、見間違いはない。

俺は傘を二本掴んで、部屋を出た。外階段は左側を下りた。右は滑ると、昔から決まっている。

「――こころちゃん」

白い外套が、跳ねるように顔を上げた。

雨と、たぶんそれ以外のもので、ぐしゃぐしゃの顔だった。二年ぶりに見る五人目の教え子は、口を開いて、何かを言おうとして、失敗して――それから、濡れたアスファルトに膝を突こうとした。

両手が地面に向かう。額が、続こうとする。

「やめなさい!」

教え子に向かって出した声としては、二十年で一番大きかったと思う。

腕を掴んで、引き上げる。膝から下は、もう泥水を吸っていた。彼女は掴まれた腕の中で、まだ床を探すように身を縮めて、途切れ途切れに言った。

「先生……私、は……謝らなきゃ、いけないことが……」

「分かった。聞くよ。何時間ぶんでも聞く。――ただし、うちの教室の校則をひとつ追加する」

傘を彼女の頭の上に開いてやりながら、俺は言った。

「土下座は禁止。アスファルトは冷えるし、君のその外套は、北の街で何百人も治してきた仕事着だろう。地面に着けていい布じゃない。……ほら、中へ。お茶を淹れるから」

六畳間は、配信で観るより、ずっと狭くて、ずっと温かかった。

タオルを借りて、上がり込んで、白瀬こころは部屋の隅に正座した。先生は何も訊かずに薬缶を火にかけ、安い湯呑みにお茶を淹れて、彼女の前に置いた。育成棟で見ていたのと、同じ柄の湯呑みだった。

壁際には、段ボール箱が四つ。

あの中に、百冊あるのだ。玲さんの足運びが。澪さんの呼吸が。丸さんの足裏が。……私の、目線が。

両手で包んだ湯呑みの熱が指先に戻ってきた頃、彼女はようやく、最初の一行を口に出すことができた。五十一件目の下書きの、二行目で止まったままだった、あの書き出しを。

「先生。私は……嘘が、下手だそうですね」

先生は、少しだけ笑った。

「うん。世界で一番ね」

それで、堰が切れた。

「あの会見……『限界を感じていました』って言った、あの言葉。あれは、私の言葉じゃ、ないんです。前の日の夜に、広報の大人たちに紙を渡されて……『物語が要る』って。古巣に限界を感じた聖女、っていう絵が要るんだって。私、言い返せなくて。十九で、何も言えなくて……それで、カンペを、三回も見ながら……」

「知ってるよ」と、先生は静かに言った。「リアルタイムで観てたからね。三回。……よく読み切ったと思って観てたよ」

「我慢して読み切ったんじゃ、ないんです……!」

声が、裏返った。

「あれから、あの記事は、ずっと働いてるんです。先生が叩かれるたび、最後の根拠に使われるんです。『教え子本人が言っている』って。玲さんが乱入しても、澪さんが補足しても、丸さんが帰っても……『でも五人目は否定している』で、全部、止められて。先生を斬る刃に、私の名前が彫ってあるんです。私が、彫らせたんです。なのに私、二年間……下書きばっかり五十一件も書いて、一件も送れなくて。北の街で、先生の講座で助かった子を担架の上で治すたび、『とてもいい先生ですね』って、笑って……」

湯呑みの中で、波が立っている。手の震えが移ったのだ。

「昨日の会見も、観ました。四人とも、堂々としてて。技術の話で、先生を証明してて。……私には、あの席に座る資格が、なかった。玲さんも、澪さんも、丸さんも、夜鴉さんも、先生に何もしてないんです。気付かなかっただけで。でも、私は違う。私だけ……私だけが、先生を、傷つけた側なんです。だから、皆さんみたいに帰る資格なんてなくて。せめて謝ってから、それから――」

それから、どうするつもりだったのか。

自分でもその先を考えていなかったことに、彼女は言いながら気付いた。謝罪の先の組み立ては、階段の下を七周しても、一度も組み上がらなかったのだ。

先生は、最後まで一度も口を挟まなかった。

雨音だけの六畳間で、空になった湯呑みに二杯目を注いで、それから、ゆっくりと首を振った。

「――それは、違うよ。こころちゃん」

責める声では、なかった。講座で何万人が聞いてきた、あの、観察の報告を始めるときの声だった。

「君は二年間、ずいぶん重たい計算を抱えてきたみたいだ。でもね、その計算には、最初の一行から間違いがある。……口で言うより、見てもらったほうが早いな」

先生は立ち上がって、壁際の箱に向かった。一番古い箱を開けて、迷いのない手つきで、ノートの山から一冊を抜き出す。

古い、けれど丁寧に使われてきた一冊だった。

差し出された表紙には、見慣れた癖字で、こう書いてあった。

――「白瀬こころ・卒業記録」。


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― 新着の感想 ―
いや教え子がどんな気持ちでその嘘をつかされたか…… よく読み切ったと思って観てたよ? 君の治癒は、ダンジョンの中だけに置いておくには大きすぎる。? 恩人に唾を吐かせてかつ泥は教え子に被らせるような所…
視点がコロコロ変わるのが少し読みづらい。
やはり白慈会はゴミっぽいなwおそらくネットで叩かれて潰れるんだろうなwそしたら医療団体が消えて困るとこも多そうだし、流石に潰れはしないか
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