第3話 人類最強は、見ていた
深夜二時に生まれた十二秒は、朝までに数万回、再生されていた。
【なにこの回避。E級の装備だよな?】
【灰犬の跳びかかりって、C級でも初見はまず食らうやつだぞ】
【スロー再生した。跳ぶ前の、後ろ足の沈み込みに反応してる。「見てから」避けてる】
【んなわけあるか。偶然だろ】
【偶然で、避けた直後に最短の軌道で横腹を斬れるか?】
切り抜きには、いつの間にか題名が付いていた。
『【検証求む】E級の動きじゃない』
昼前には、本人が特定された。
【この子、天羽ヒナだ。D級昇格試験四連敗の】
【あの笑い話の子? 嘘だろ】
【先月の試験の公式映像と見比べてみろ。別人だぞ】
【一ヶ月で人間ってこんなに変わるか?】
そして夕方、自称・検証班の一人が、決定的な発見を投稿する。
【追跡した。彼女のアカウント、ここ数日ずっと同じ配信のアーカイブに質問を書き込んでる】
【『シンさんの初心者ダンジョン講座』。視聴者ほぼゼロの無名講座だ】
【見てきた。おじさんが延々と立ち方の話してる】
【地味すぎて三分で閉じた】
【俺は最後まで見た。……なあ、これ、なんか変だぞ。説明が具体的すぎる】
◇
俺はといえば、その日も平和だった。
米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活、六日目である。
異変には、一応気付いていた。昼過ぎ、アーカイブの再生数がおかしなことになっていたのだ。昨日まで二桁だった第一回が、画面を更新するたびに増えていく。千を超えたあたりで、俺は結論を出した。
「……不具合かな」
中古三万円の機材である。数字の一つや二つ、壊れていても文句は言えない。
その夜。いつも通りに配信開始ボタンを押して、俺は画面の隅を二度見した。
視聴者数【112】。
「…………」
数字は、見ている間にも増えていく。コメント欄は、こちらが挨拶もしていないのに、もう流れ始めていた。
【来た】
【これが例の講座?】
【ほんとにおじさんじゃん】
【ヒナちゃんの師匠ってマジ?】
なるほど、不具合じゃないらしい。事情はよく分からないが――視聴者が何人だろうと、やることは変わらない。
「こんばんは、シンです。初見の人が多いみたいなので、一応言っておきます。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【自分で言うのか】
【正直でよろしい】
「第六回。今日は『下がり方』の話をします。――前に出る練習はみんなするのに、下がる練習は誰もしないんですよね。で、探索者は前に出て死ぬより、下がるときに死ぬことの方が多い」
俺はいつも通り、ノートの中身を言葉にしていった。後ろに下がるとき、人はなぜカカトから落ちて尻もちをつくのか。つま先の向きを十五度外に開くだけで、なぜ転ばなくなるのか。下がりながら視線だけは下げない、そのための顎の置き場所。
コメント欄は、最初は騒がしかった。
【地味】
【地味すぎる】
【伝説の講座とか言われてたから来たのに】
それが三十分も経つ頃には、妙な具合に変わっていた。
【……おい、今その場でやってみたけど、本当に転ばなくなった】
【廊下で試した。なんだこれ】
【探索者五年やってるけど、下がり方なんて一度も考えたことなかった】
【なんで誰もこれを教えてくれなかったんだ?】
【先生、今日も勉強になります。あの、ところで、どうして急に人が……】
ヒナのコメントが、知らない名前の奔流に流されていく。教室の主のはずの彼女が一番戸惑っているらしいのが、少しおかしかった。
配信終了の時点で、視聴者数は【317】。
「……ま、明日には飽きて、いつもの教室に戻ってるでしょう。それじゃ、今日はこのへんで」
俺はそう言って配信を切った。
我ながら、見事なまでに、何も分かっていなかった。
◇
同じ夜。日本から九千キロ離れた大陸の、未踏破ダンジョン合同遠征の宿舎で。
剣条玲は、ベッドの上で端末を眺めていた。
人類最強の剣士。二十五歳。S級序列一位。今回の遠征でも攻略の主軸であり、明日も朝から深層調査の予定が入っている。さっさと寝るべきだった。
寝られないのは、いつものことだ。独立してから二年、枕が変わり続けているせいだと、本人は思うことにしている。
異国のSNSにまで、その十二秒は流れてきていた。
『【検証求む】E級の動きじゃない』
なんとなく、再生した。
画面の中で、小柄な少女が灰犬の跳びかかりを半歩で外し、無防備な横腹を斬る。
玲は、無表情のままそれを見た。もう一度再生した。もう一度。四度目の再生で、彼は端末を顔の前まで持ち上げ、画面に張り付くように目を細めた。
検証班とやらは「後ろ足の沈みに反応している」と騒いでいた。素人目にはそうだろう。だが、違う。見るべきはそこじゃない。
跳びかかられる、前だ。
少女は灰犬と相対した瞬間、足の指で床をつかんでいた。
カカトは最後まで床に置いたまま。だから上体が先に出ない。上体が出ないから、目線が一度も揺れない。揺れないから、初動が見える。見えるから、半歩で足りる。
――靴の中で、グーを握るみたいに。
八年前。昇格試験に落ち続けて行き場をなくした十七歳の剣士見習いが、流れ着いた先で生まれて初めて受けた指導と、寸分違わなかった。
『踏み込みの話より先に、立ち方からやろうか。地味だよ。多分、びっくりするほど地味。――でも、死ななくなる』
玲は、跳ね起きた。
切り抜きの出典を辿る。配信者「ガンマ」のアーカイブ――違う、これは偶然撮っただけの人間だ。少女の動きの出どころはどこだ。検証班の投稿を遡る。あった。
『シンさんの初心者ダンジョン講座』。
配信者名、「シン」。
心臓が、一拍、大きく鳴った。
アーカイブの第一回を開く。安いマイク特有の、こもった音声。穏やかで、少し気だるげな、八年間ほとんど毎日聞いていた声。
『第一回。「装備より先に、立ち方の話をさせてください」』
「……っ」
玲は口元を片手で覆った。
間違えるはずがなかった。世界中の全員が聞き間違えても、自分だけは間違えない。
独立したあの日から二年。何百回も電話帳の上で指を止めて、結局一度も押せなかった番号の持ち主。クラン経由で近況を探れば「玄武と契約中」とだけ返ってきて、それきり消息の途切れていた人が――こんなところにいた。
視聴者ゼロの教室で。たった一人の落ちこぼれに、あの日の自分と同じ授業をしていた。
玲は深夜の廊下に出ると、遠征本部との連絡用端末を起動し、帰国便の変更手続きを始めた。時差も、明日の深層調査も、序列一位の職務も、頭から綺麗に消えていた。
取れたのは、予定より三週間早い便だった。
確定ボタンを押す。玲は暗い窓の外――九千キロ先の東の空へ目をやって、誰にも聞こえない声で、二年ぶりにその呼び方を口にした。
「――見つけました、先生」




