第2話 ただの基礎、のはずだった
視聴者数【1】。
その表示名――【天羽ヒナ】を、俺は画面の前でしばらく眺めていた。
E級探索者、天羽ヒナ。D級昇格試験、四連敗。
業界の隅で二十年も死亡報告書と試験記録を読み漁っていると、嫌でも覚えてしまう名前がある。彼女のそれは、悪い意味で有名だった。曰く「努力家だが、絶望的にセンスがない」。曰く「四回も落ちるのは才能以前の問題」。ギルドの待合室で、笑い話の種にされる類の名前だ。
その子が、なぜ俺の講座に。
「……ま、誰が見てても、やることは同じか」
その夜の配信、彼女は最後まで一言も発しなかった。視聴者数【1】は、終了ボタンを押す瞬間まで【1】のままだった。
異変に気付いたのは、配信を切ったあとだ。
第一回と第二回のアーカイブ。誰も見ていないはずのコメント欄に、質問がびっしりと残されていた。
【12:34 立ち方の話で「カカトに乗りすぎない」とありましたが、つま先に乗りすぎるのもダメですか?】
【23:05 盾を持つ側の肩が下がる癖は、どうやって直せばいいですか?】
【41:50 「呼吸を止めない」のは、攻撃を受ける瞬間もですか?】
タイムスタンプ付きで、二十三件。
一つ読んで、俺は思わず背筋を伸ばした。……いい質問だ。どれも「講座の内容を実際にやってみた人間」にしか出てこない種類のものだった。配信三日目で、もう試している。
俺は米を炊くのも忘れて、二十三件、全部に返信を書いた。一件あたり数百字。気付いたら朝だった。
別に、熱意とかではない。質問に答えるのは二十年やってきた俺の仕事で、つまりただの日常作業だ。
……そのはず、だった。
◇
四日目の夜。配信開始と同時に、視聴者数が【1】になる。
【こんばんは。アーカイブのお返事、ありがとうございました。全部で三回読みました】
「どうも。三回は読みすぎだと思う」
【あの、それで、ご相談なのですが】
少し間があって、URLが一つ貼られた。探索者協会の公式記録映像――先月のD級昇格試験、受験番号十七番。天羽ヒナ、四度目の不合格の記録だった。
【私の試験の録画です。どこがダメか、見ていただけませんか。ギルドの教官には「全部」と言われました】
全部、ときたか。
「再生するよ」
模擬戦区画。彼女は試験官の放つ、お世辞にも速いとは言えない突きを捌けず、開始四十秒で場外に転がされていた。なるほど、ひどい。横で見れば誰でも「全部ダメ」と言いたくなる崩れ方だ。
でも、「全部ダメ」な人間なんて、いない。崩れには必ず、最初の一枚目がある。
俺は映像を巻き戻し、開始三秒で止めた。
「うん、見えた」
【えっ】
「君、踏み込みの最初に重心が浮いてるね。一歩目を出す前に、カカトが早く床から離れてる。だから上体が先に出て、目線が毎回ぶれる。目線がぶれるから相手の初動が見えない。見えないから全部が後手になる。――それじゃ三層で死ぬよ」
数秒、コメント欄が止まった。
【え、なんで分かるんですか!?】
「いや、映ってるから」
【四十秒の映像の、最初の三秒ですよ!? ギルドの教官は誰もそんなこと――】
「教官が悪いわけじゃない。感覚でできる人には、できない人の理屈が見えないだけ。……直し方、やってみる?」
【やります】
「家の廊下でいい。壁に手をついて、踏み込む前に、足の指で床を一回つかむ。靴の中で、グーを握るみたいに。カカトは最後まで床に置いておく。それから出る。……それだけ」
【それだけ、ですか?】
「それだけ。地味でしょ。多分、びっくりするほど地味。――でも、死ななくなる」
二十年前、誰よりも才能のなかった俺が、死なないために千回やった基礎だ。ノートで言えば三冊目の、最初のページに書いてある。
特別なことは、何も教えていない。
このときの俺は、本当にそう思っていた。
◇
――地味どころの話では、なかった。
天羽ヒナ、十七歳。深夜のアパートの廊下で、彼女は壁に手をついていた。
(足の指で、床をつかむ……)
正直、半信半疑だった。四年で四回落ちた。教官には匙を投げられ、同期は全員先に昇格し、母には「高校卒業までに芽が出なかったら辞める」と約束させられている。
そんな自分の「全部」が、たった一つの癖のせい? そんなわけがない。
それでも彼女がやったのは、単に、他にすがるものが何も残っていなかったからだ。
百回。違和感しかない。
三百回。ふと、踏み込んだあとに視界が揺れていないことに気付く。
千回を超えたあたりで、廊下の窓が白み始めた。
数時間の仮眠を取って、その日の午後。彼女はいつものように、第二層に潜った。E級がソロで潜れる、ぎりぎりの深さ。目的は薬草採取と、自分への言い訳みたいな「実戦訓練」。
通路の角で、灰犬と出会った。
二層の定番の魔物。低い姿勢から跳びかかってくる犬型。彼女はこいつが苦手だった。跳ぶ瞬間がまったく見えず、いつも盾ごと吹き飛ばされ、転がって、逃げる。四年間、ずっとそうだった。
灰犬が唸る。ヒナは足の指で、床をつかんだ。
――世界が、変わった。
スローモーションになったわけじゃない。スキルでも魔法でもない。ただ、目線が揺れていなかった。たったそれだけのことで、彼女は生まれて初めて「見た」のだ。灰犬が跳ぶ直前、後ろ足がぐっと沈み込む――その初動を。
(……見える)
左前に半歩。それだけで灰犬は彼女のいた場所の空気を噛み、無防備な横腹を晒した。振り下ろした剣は、素振りと同じ軌道で、正確に当たった。
光の粒になって消える魔物を見ながら、ヒナはその場にへたり込んだ。剣を握る手が震えていた。怖かったからじゃない。
四年間、何百回も死にかけて、笑われて、それでも分からなかった「世界の見え方」が、たった一言で。
廊下で足の指を千回握っただけで。
「……なに、これ……」
頬を伝うものを乱暴に拭った彼女は、気付かなかった。少し離れた通路の先――三層から帰還する途中の配信者パーティのカメラが、今の一部始終を、画面の隅に偶然収めていたことに。
◇
その夜の配信。視聴者数【1】。
開始と同時に、コメント欄が連投で流れた。
【先生】
【見えました】
【灰犬の初動が、見えました。生まれて初めて、避けてから斬れました】
【先生、もっと教えてください】
俺はマイクの前で、少しだけ黙った。
……そうか。見えたか。
「先生はやめてほしいんだけど。……まあ、いいか」
俺はノートの二冊目を開いた。誰もいなかった教室に、生徒が一人、座っている。
「じゃあ今日は、避けたあとに死なないための話をします。第五回――『一歩目の置き場所で、二撃目が決まる』」
教えたのは、ただの基礎。二十年前から俺のノートに書いてある、誰にも言葉で教えられてこなかった、誰にでもできる、ただの基礎。
それで世界がどうにかなるなんて、このときの俺は、まだ何も思っていなかった。
◇
同じ夜、日付が変わる頃。
中堅配信者「ガンマ」の探索アーカイブに、一件のコメントが付いた。
【1:22:08 画面の左奥、見て】
【なにこの子の回避。灰犬の跳びかかり、見てから避けてない?】
【ってかこの装備、E級だろ。……いや待て。この子、例の四連敗の子じゃね?】
深夜二時。誰かが、その十二秒を切り抜いた。




