第26話 資格なき謝罪
止まったコメント欄というのは、思ったより、うるさい。
誰も一文字も打っていないのに、画面の向こうで十数万人が息を呑む音が、聞こえる気がするのである。
「……理由を、話します」
俺は湯呑みを置いて、背筋を伸ばした。
「報道を見た人も多いと思います。〈深淵〉の攻略指揮官の候補に、俺の名前が挙がっているという話。名前が挙がっていること自体は、どうも事実のようです。正式な打診は、まだ受けていません。受けると決めたわけでも、断ると決めたわけでもない。――決められないんです」
【先生……】
【そりゃそうだろ】
【むしろ即決できるほうがおかしい】
「俺は二十年、裏方をやってきました。裏方の失敗というのはね、だいたい取り返しがつくんです。教え方を間違えたら、翌日言い直せばいい。資料を間違えたら、刷り直せばいい。……でも、指揮は違う。俺の判断ミスは、今度は、そのまま人の命に直結します。しかもそれは、よりにもよって――俺が世界で一番、死なせたくない五人の命だ」
一度、息を整えた。四十四回の講座で、一番ゆっくり喋っていたと思う。
「受けるにせよ、断るにせよ、人の命が懸かった席の話を即答していい資格は、俺にはありません。考える時間をください。それと、考え事をしながらこの教壇に立てるほど、俺は器用な人間でもない。だから、休みます。再開がいつになるかは、約束できません。……身勝手で、すみませんでした」
深く、頭を下げた。何秒そうしていたかは、覚えていない。
顔を上げると、コメント欄は、もう止まっていなかった。
【謝るな】
【先生、謝罪ってのは悪いことをした人間の特権だぞ。あんたは無資格だ】
【四十四回ぶん、命を貰ってるんだ。利息で考えたら安すぎる休講だよ】
【行ってこい、とは言わない。考えてこい、先生】
【何ヶ月でも待つ。教室はここにあるから】
無資格、ときたか。どうやら俺には、謝る資格すらないらしい。……うちの受講生は、たまに俺より講師に向いている。
「ありがとう。最後に、休講中の課題をひとつだけ。――死なないこと。再開したら全員の顔を確認しますから、そのつもりで。それじゃ、また」
最後の「また」は、いつもより、口から出るのに時間がかかった。
配信終了。四十四回続いた教室の灯りが、消えた。
◇
世間は、俺の「考える時間」を三十分も待ってくれなかった。
休止宣言の切り抜きはその夜のうちに世界中へ出回り、世論は綺麗に、真っ二つに割れた。
【逃げたな。所詮その程度の男だった】
【国家プロジェクトから逃げる奴に、人類最強五人を預けられるかよ】
【↑じゃあお前は「皆さんの命、即答でお預かりします!」って言う指揮官に預けたいのか。俺は御免だね】
【講座で習わなかったか。怖がれない奴から死ぬんだ。判断の重さを正しく怖がれる人間にしか、撤退の判断はできない】
【逃げと熟考の区別がつかない人間が、いちばん深淵に近づいちゃいけない】
深夜の討論番組では、評論家が二人、同じ休止宣言の映像から「責任感の欠如」と「責任感の証明」をそれぞれ読み取って、今回も結論を出さずに終わった。出るわけがない。本人がまだ、出していないのだから。
ヒナちゃんから、メッセージが三件。
『先生、おつかれさまでした』
『ゆっくり考えてください。受けても断っても、私は先生の味方です』
『……でも、悔しいです。世間の人、先生のこと、何にも知らないくせに』
返信は一行にした。『ありがとう。ヒナちゃんは俺のことは気にせず、基礎の練習を続けるように』。
――あとから思えば、この返信が、よくなかったのかもしれない。
◇
翌日の昼、外階段を上る足音が二つ。チャイムが鳴る前から、誰だか分かった。
「正式に、伺いました」
六畳間の畳の上に、真壁さんは一通の書類を置いた。国章入りの封筒。『未踏破迷宮〈深淵〉攻略プロジェクト・攻略指揮官就任要請書』。要請者の欄には、長官の名前があった。
「お受けいただける場合も、ご辞退いただく場合も、発足式までにご返答ください。発足式は――十日後です」
「……十日」
「短くて、申し訳ありません。深淵の拡大は、こちらの都合を待ってくれないので」
俺は封筒を見たまま、訊いた。
「真壁さん。候補は、他にいないんですか。俺より若くて、現場で隊を率いた経験があって、等級の高い人が」
「おります。経験者も、高位等級者も」眼鏡の奥の目は、平らなままだった。「ですが、S級五人の癖を観察し、言葉に直し、噛み合う順番に並べた記録を二十年ぶん持っている人間は――統計上、国内に一名です」
いつかの台詞と、同じ言い方だった。
「即答は、求めません」真壁さんは立ち上がり、それから少しだけ迷って、付け加えた。「……即答した指揮官と、迷い抜いてから受けた指揮官とで、部下の生還率がどう違うか。統計の話を、しましょうか」
「いえ」と俺は笑った。「数字で背中を押すのは、公平じゃないでしょう」
「同感です。言わずに済んで、助かりました」
役人二人は深く一礼して、帰っていった。畳の上には、国の封筒と、湯呑みが三つ残った。
その夜は、押し入れの古いノートを全部出した。玲の踏み込み。澪の詠唱の間。丸の足裏。夜鴉の最短距離。こころの、顔を上げる治癒。五人ぶんの付箋は、数日前に貼ったままになっている。
ページをめくる手は、止まらなかった。代わりに、考えは何度でも同じ場所で止まった。この紙の上の五人は、誰も死なない。――紙の上では、誰も。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【教室に、謝ってしまった。無資格の謝罪だと怒られた】
【十日。急いで決めないこと。ただし、考えることから逃げないこと】
◇
同じ夜。天羽ヒナは自室の机で、世界で一番好きな先生からの一行を、三十分にらんでいた。
『俺のことは気にせず、基礎の練習を続けるように』
「……気にするに、決まってるじゃないですか」
世間は先生を「逃げた」と言う。先生は、反論しない。あの音声流出の夜でさえ、自分のためには一言も怒らなかった人だ。今度だって、絶対にそうだ。十日間、世界中に叩かれながら、一人きりで考え込むつもりなのだ。
なら、誰かが言わなきゃいけない。先生がどれだけすごいかを。
玲さんたちが動けば、世界は一晩でひっくり返るだろう。でも、とヒナは思う。S級の証言は、強すぎて、きっと半分も信じてもらえない。「最強たちの身内びいき」で終わってしまう。
必要なのは、一番低いところからの証言だ。
E級最底辺。先生に会わなければ三層で死んでいたはずの、どこにでもいる落ちこぼれが、どんな言葉で、どんな順番で、どこまで変われたか。――それを世界で一番正確に証言できる人間を、ヒナは一人しか知らない。
ノートを開く。先生に教わった通りのやり方で。観察して、言葉に直して、噛み合う順番に並べる。基礎ステップの踏み方。撤退基準。潜る前の三行。踵の向き。出会ってからの教わりごとの全部が、ページの上に並んでいく。
書き終えて、ヒナは配信アカウントの開設画面を開いた。指が、少し震えた。B級に上がった昇格試験の朝より、緊張している。
だから、いつも通りにやることにした。潜る前の、三行。
『目的:先生の本当の価値を、私の言葉で世界に話すこと』
『撤退基準:泣いても止まらないこと(泣くのは想定の範囲内とする)』
『帰還後:先生に怒られること(これも想定の範囲内とする)』
よし、と声に出して言う。
「私が、証明します。先生の教えが本物だってこと、私が一番知ってるんだから。――世界で一番下から、教わったんだから」
配信予約のタイトル欄に、一文字ずつ、打ち込んだ。
『私の先生の話をします』
公開ボタンを押したのは、日付が変わる三分前だった。
◇
告知は、一時間で十万共有を超えた。
そして誰かが――どこの誰とも知れない一人の受講生が、その告知に短いタグを付けて呟いた。
『俺にも話させてくれ。おまえの先生は、うちの先生でもあるんだ。 #うちの先生』
タグは、夜のうちに増殖を始めた。三層で拾った命の話。撤退して帰れた夜の話。月曜に効いた、物差しの話。世界中の教室の生徒たちが、自分の先生の話を語り始める。
同じ頃――世界の離れた五つの場所で、五つの端末が同じ告知画面を映したまま、長いこと動かなかった。
最初の生徒の初配信は、明日の夜八時。
教室の灯りが消えた、その翌日である。




