第25話 深淵
電話越しの沈黙には、二種類ある。言葉を探している沈黙と、言葉を全部並べ終えてから話し始める人間の沈黙だ。
真壁さんのは、いつも後者である。
「最初から、お話しします」
深夜の六畳間。俺は布団の上に正座していた。寝間着のまま国家の機密を聞いていい気はしなかったが、着替えに立つ間も、なさそうだった。
「特別管理区分・未踏破迷宮〈深淵〉。三年前に確認された、人類未到達のダンジョンです。情報は今日まで封鎖されてきました。理由は二つ。攻略の目処が、立たなかったこと。そして――拡大を続けているからです」
「……拡大」
「影響圏が、年々広がっています。最新の試算では、数年以内に都市圏へ到達します。封鎖で時間を買える段階は、終わりました。明後日、長官が公表し、同時に国家攻略プロジェクトの発足を発表します」
湯呑みも出していないのに、手が湯呑みの形に丸まっていた。
「単独攻略の試行記録が、五件あります。五件とも、撤退。……柊さん。試行者の名前は、申し上げなくても、お分かりですね」
玲。澪。丸。夜鴉。こころ。
順番に顔が浮かんで、それから、ひと月前のこの六畳間の会話が浮かんだ。もしも、S級が五人、全員「単独では不可能」と判断して退いたダンジョンがあるとしたら――。
「あの日の『もしも』は」と、平らな声が言った。「本日づけで、『もしも』ではなくなりました」
「……真壁さん。あなた、言いましたよね。無いことになっているものほど、ある日急に、有ることになるって」
「ええ。当たってほしくない統計ほど、当たります。私の十八年は、だいたいそういう十八年でした」
それで、と俺は訊いた。わざわざ夜中に電話をくれたということは、何か手伝えることがあるのだろう。資格のカリキュラムなら、急ぎで進められる。五人の現役時代の記録が要るなら、ノートはいつでも貸し出せる。
「会見の後、改めて、正式に伺います」
真壁さんは、それだけ言った。それから少しだけ、統計らしくないことを言った。
「柊さん。明後日から、騒がしくなります。……どうか、普段通りでいてください。あなたの普段は、私の知っているどの数字よりも、強いので」
電話は切れた。統計屋の言うことは、たまに分からない。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【〈深淵〉、実在。五人が、五人とも退いた場所】
【真壁さんに何を頼まれてもいいように、五人のページに付箋を貼っておくこと】
付箋は、二十分で貼り終わった。我ながら、準備のいいことである。……何の準備なのかは、考えなかった。
◇
会見は、二日後の午後二時からだった。
俺は米を研ぎながら、端末の中継を流していた。研ぎ終わる頃には、米のことは忘れていた。
『――以上の通り、未踏破迷宮〈深淵〉の存在を公表するとともに、国家攻略プロジェクトの発足を発表いたします』
会見場が、画面越しでも分かるほどざわついた。質疑は、ほとんど悲鳴のような挙手から始まった。
『S級探索者五名が、単独では踏破できなかったという理解でよろしいか。その場所を、何をもって攻略するのですか』
『個の戦力では攻略不能、というのが結論です。従って本プロジェクトは、複数の最高戦力を一個のチームとして設計し、運用します。そのために、専任の「攻略指揮官」を置きます』
『指揮官は、誰ですか』
『人選を含め、現時点では差し控えます』
差し控えます、の一言で、どよめきが一段大きくなった。
壇の端に、見覚えのある眼鏡が座っていた。真壁さんは資料から一度も顔を上げず、平らな声で数字だけを読み上げていた。拡大の試算。単独試行、五件。成功、零件。数字が読まれるたび、会見場は静かになっていった。数字には、そういう力がある。あの人が十八年かけて覚えた力だ。
夕方には、どのニュースも〈深淵〉一色になった。
そして夜には――指揮官の名前が、漏れた。
◇
第一報は、どこの誰とも知れない匿名アカウントだった。
『攻略指揮官の候補筆頭、民間人。元玄武育成コーチ・柊慎一氏(42)。探索者等級・B級』
正直に言うと、画面でその名前を見たとき、どこの柊慎一だろうと三秒ほど考えた。同姓同名も、いるものだ。
四秒目に、湯呑みを持つ手が止まった。
世間は、俺より反応が早かった。
【は? B級?】
【待て待て待て。深淵って、人類最強が五人とも逃げ帰った場所だぞ】
【その五人を育てたのが誰か、まだ知らない奴がいるのか】
【育成と指揮は別の仕事だろ。名医に空母の艦長をやらせるか?】
【講座の受講生だが、先生の撤退基準で命拾いした。俺は一票入れる】
【俺も受講生だ。受講生だからこそ言う。先生を矢面に立たせるな。あれは教室の人だ】
【冷静になれ。最強五人の命を預かる席だぞ。実績って何だ? 配信か?】
賛成と反対が、同じ速さで流れていった。面白いのは――いや、面白くはないが――どちら側にも、講座の常連らしい名前が混ざっていたことだ。怒っている人たちは、たぶん両方とも、正しい場所から怒っていた。
深夜の討論番組では、評論家が二人、同じ資料を振り回していた。
『育成の実績は認めましょう。ですが、指揮は別物です。彼には現場でS級を率いた経験が一度もない』
『では伺いますが、S級を率いた経験のある人間が、この国のどこにいるんですか』
番組は、結論を出さないまま終わった。出るわけがない。名前を出された本人が、まだ何の返事もしていないのだから。
ヒナちゃんから、メッセージが三件。
『先生、ニュース見ました』
『コメント欄、見ないでくださいね。ぜったいですよ』
『……でも私は、世界で一番、先生のすごさを知ってるつもりです』
返信は一行にした。『ありがとう。米を炊いて、いつも通り寝ます』。
嘘ではない。米は炊いた。眠れたかどうかは、別の話である。
灯りを消す前に、ノートへ二行だけ書いた。
【世間が騒がしい。原因の半分くらいは、どうも俺らしい】
【明日の講座の前に、ひとつ、決めておくこと】
◇
翌晩。第四十四回の待機人数は表示が変わる速さで増え続け、開始前に過去最高を二度、更新した。
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【知ってるが、今日は流石に地味じゃ済まないだろ】
【先生、ニュースの件!】
【指揮官って、本当なんですか】
「順番に行きましょう。まず、今日の課題の確認から」
コメント欄が一瞬「えっ」という形に止まって、それから笑いに変わった。俺は大真面目である。教室は、教室だ。世間がどれだけ騒がしくても、今夜も誰かが、明日の朝、三層に潜るのだから。
「第四十四回、『装備の点検』。世間が騒がしいときほど、手元の点検です」
ロープの結び直し。荷の重心。撤退連絡の定型文の見直し。いつも通り、びっくりするほど地味にやった。四十分が経つ頃には、コメントの流れも、ほとんどいつもの教室に戻っていた。
「……はい。今日の課題は、ここまで。最後に」
湯呑みを、置いた。
「お知らせが、一つあります」
【ん?】
【お知らせ?】
【……まさか】
「この講座を――今日で、しばらく、お休みします」
四十四回続いた教室が。
初めて、完全に、止まった。




