第24話 先生の挫折
配信を始めて以来、初めてのことが、朝からいくつかあった。
米を二度、研ぎ損ねた。これが一つ。
ヒナちゃんから『先生、緊張してますね』とメッセージが来た。これが二つ。配信前から分かるわけがないだろうと返したら、『先週の予告の声で分かりました』と返ってきた。教え子というのは、どうしてこう、観察ばかり上手くなるのか。
三つ目。今夜は、講座を始めて初めて、教えることが何もない。
机の上には、一番古い箱の底から出してきた、名前のないノートが一冊だけ載っている。第一回の夜に開いたのと、同じやつだ。表紙に何も書いていないのは、手抜きではない。当時の俺には、表紙に書く名前がなかった。誰かの名前を表紙に書く仕事は、ずっと後から始まったのである。
◇
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【知ってるが、今日は特別だ】
【約束の回】
【待機人数、過去最高を更新したらしいぞ】
「第四十三回。……今日は、課題がありません。技術の話もしません。先週、一回ぶん使うと約束したので――俺がコーチになった理由を話します。たいした話じゃない、と言いましたが、ひとつだけ訂正を。長いあいだ、誰にもしたことのない話では、あります」
湯呑みを置く。ノートの表紙に、一度だけ手を載せた。
「俺は、十七で探索者登録をしました。動機は……その、当時のランキング一位の人の足運びが、中継で見て、かっこよかったからです」
【意外と普通!?】
【先生にもミーハー時代があった】
【若き日の先生、推しの足運びで入界】
「ただ、登録してすぐ分かりました。俺は、感覚でものを覚えられない。皆が『見て盗め』で済ませるところを、俺は一度、言葉に直さないと体に入らないんです。だから新人の頃から、ノートを書いていました。年上の人の動きを後ろから見て、なぜあの人は死なないのかを、言葉にして書き留める。……合同選抜のとき、視察に来た偉い人に『お前は何でメモばかり取っている』と訊かれて、『感覚で覚えられないので』と答えたら、ずいぶん変な顔をされました。怒らせたかと、当時は思いましたね」
「二十二で、頭打ちが来ました」
声の温度は、変えなかったつもりだ。
「反射が遅い。魔力量が平均。出力が凡庸。三拍子そろって、綺麗にB級で止まりました。伸び続ける同期と、止まった俺。昇格祝いの席ではね、いい奴ほど、こっちに気を使うんです。『柊は努力家だから、そのうちだ』って。……あれは効きますよ。才能がないと言い切られるより、よっぽど」
【わかる】
【やめてくれ、月曜の俺に直撃する】
【その台詞、先週の飲み会で言われたばかりなんだが】
「そこからの何年かは、正直、暗かったです。ノートだけが増えました。自分を強くするためのメモだったはずが、いつからか、死亡報告書の分析に変わっていた。誰が、どの層で、何を間違えて死んだのか。……自分が上へ行けない理由を数えるより、人が落ちる理由を調べるほうが、性に合っていたんでしょう。我ながら、趣味の悪い趣味だと思っていました」
「で、三十手前のことです。遠征で組んでいた後輩に――盾持ちの、俺なんかよりよっぽど才能のある子に、一言だけ言ったんです。『受ける前に、踵を下ろしなさい。君は衝撃をもらう瞬間、いつも踵が浮いてる』。三ヶ月、後ろから見ていたので、靴の中まで分かったんです」
「翌月、彼はA級に上がりました」
コメント欄の流れが、少しだけ遅れた。
「帰り道でね、悔しさを探したんです。十年ぶん、積んであるはずだったので。……見つかりませんでした。代わりに、妙なことばかり考えていた。今の一言を、十年早く誰かが彼に言えていたら、彼の左肩の古傷はなかったんじゃないか。――俺の隣で死んでいった連中にも、誰かが、言えたんじゃないか」
名前のないノートを、開いた。若い字が、若いなりに必死で並んでいる。
「俺は、最強にはなれませんでした。そこだけは、誰よりはっきり分かっています。自分のことなので。でも、あの夜に思ったんです。最強には、なれない。――でも、最強の作り方なら、分かる気がする。それで十分だと、思えたんです。生まれて初めて、自分の積んだものに、使い道が見えた夜でした」
「三十四で現役を退いて、コーチになりました。最初の教え子は、波の激しい、行き場のない剣士の子で……まあ、その先は、皆さんのほうが詳しいですね」
【知ってる】
【知ってるとも】
「最後に。この話に一回ぶん使った理由です」
俺は、カメラを見た。
「この教室には、たぶん、あの頃の俺が大勢います。頭打ちの来た人。同期に置いていかれた人。何者にもなれなかった、と思っている人。――その人たちに、観察の報告をひとつだけ。俺のノートは、俺を強くしませんでした。二十年、ただの一度もです。でも、無駄になった年は、一年もなかった。積んだものはね、自分のために使えなかっただけで、ちゃんとそこにあるんです。使い道のほうが、遅れて来るだけで。……だから、あなたが積んできたものを、あなたが笑わないであげてください。報告は以上です。それじゃ、また」
◇
配信を切る前の数秒、コメント欄が、完全に止まった。
回線の事故かと思って、機材を確認しかけたくらいだ。
それから、流れ始めた。今までで一番ゆっくりした速さで、今までで一番、長い文章たちが。
【経理一筋二十二年。何者にもなれなかったと思って生きてきた。「積んだものはちゃんとそこにある」で、画面が見えなくなった】
【俺、後輩に教えることだけ褒められるんだ。それしか取り柄がないって自分で笑ってた。……もう笑わない】
【B級って、俺たち一般人から見たら雲の上なんですよ先生。その人が「なれなかった」側に立って話してくれるの、ずるいだろ】
【今日の回、切り抜き禁止な。全部で一本だ】
【せ、先生……! 私、先生の生徒で、よかったです……!】
ヒナちゃんの感想が、一番短かった。いつもの教室である。
……配信を切ってから、眼鏡を拭くのに少し時間がかかったのは、画面の外の話だ。
◇
北の街の宿舎で、白瀬こころは、初めてリアルタイムでその講座を観た。
『あなたが積んできたものを、あなたが笑わないであげてください』
――先生。私がこの二年で積んだのは、あなたを斬る刃の銘なんです。それでも、ですか。
五十一件目の下書きは、その夜、初めて二行目に進んだ。挨拶でも、謝罪でもない書き出しだった。『先生。私は、嘘が下手だそうですね』。……送信は、まだ、できなかった。
同じ夜。誰もいなくなった玄武の地下資料庫で、二十五年前の視察記録を膝に載せたまま、戸隠厳は配信を観終えた。
『視察に来た偉い人に訊かれて――ずいぶん変な顔をされました』
変な顔、ではない。あれは三十の俺が、掘り出し物を見つけたときの顔だ。訊いたことも、返ってきた答えも、書き残した所見も、全部この膝の上にある。忘れていたのは、書いた本人だけだった。
五十五歳は、書類の海の底で、長いこと動かなかった。
◇
湯呑みを洗い、布団を敷いて、寝る前のノートを開いた。
【第四十三回、終了。名前のないノートは、箱に戻さず、机に置いておくこと】
二行目を書きかけたところで、端末が鳴った。
こんな時間に電話をよこす知り合いは、限られている。画面の表示は――ダンジョン庁、真壁。
「夜分に失礼します。配信は、拝見しました。……ですが、本題は別です。手短に申し上げます」
統計を読み上げるときと同じ、平らな声だった。
「例の件、公表が決まりました。――『深淵』の攻略プロジェクトが、動きます」




