第23話 戸隠の曇り
退職届というものは、束になると、重さより先に音で分かる。
戦略企画部の南雲が机に置いた紙の束は、辞書のような音を立てた。
「今週ぶんの退職届、二十六名。半数が育成棟の教官と研究班です。引き抜き元は、確認できただけで七クラン。……皆さん、条件を聞く前に判を押しているそうです」
音声の流出から、八日が経っていた。
「スポンサーは、『事実確認中』だった三社のうち二社が契約解除を通知。残る一社も、次回の更新はないものと。株価は本日、ようやく値が付きましたが――申し上げる数字では、ありません」
戸隠厳は、窓の外を見たまま動かなかった。
「それと、もう一件」南雲の声が、わずかに低くなった。「今朝のダンジョン庁の発表は、ご覧になりましたか」
『「探索者育成指導者」資格、制度設計の検討を正式開始。カリキュラム監修には民間の専門家を起用予定』
監修者の名前は、伏せられていた。伏せる意味があるのかは、別の話である。撤退基準。記録の習慣。死なせないための教え方。条文の骨になる理論の出どころを、業界で知らない者は、もういない。
「……会長。せめて、広報対応の方針だけでも」
「下がれ」
「会長」
「今日はもう、誰も通すな」
南雲は一礼して、退室した。ドアが閉まる直前、彼は一度だけ振り返った。窓際に立つ会長の背中が、八日前より、ひとまわり小さく見えた。
◇
その夜、戸隠は一人で育成棟に入った。
灯りを点けると、磨かれた訓練床が白々と照り返した。八年前、ここは順番待ちの若者で溢れていた。入棟試験の倍率は三十倍を超え、廊下には地方から出てきた親子が列を作っていた。
今は、自分の足音が天井に響く。
解散前の研究班が上げてきた最後の報告書に、一行だけ、引っかかっていた文がある。
『当該講座の内容のうち、少なくとも七割は、過去に社内で起案され、却下された提案と一致する』
確かめるつもりなど、なかったはずだ。だが気付けば戸隠は、地下二階への階段を降りていた。資料庫。稟議書の原本が、年度ごとに眠っている場所である。
「柊」の名前で引くと、箱は、すぐに見つかった。
◇
一件目。『基礎課程の体系化について』。八年前。
これは、覚えている。会長室まで本人が持ってきた、ただ一度のやつだ。下位探索者の死亡率を下げるための、観察記録の教材化。読みもせずに、俺は口で言った。金にならん、と。S級を育てる手間で、E級を救ってどうする、と。
二件目。『撤退基準の全団標準化案』。七年前。却下。
三件目。『ヒヤリハット報告の共有制度』。六年前。却下。欄外に、決裁者の太い字で書き込みがある。『数字を持ってこい』。――俺の字だ。
四件目、死亡事例の教材化。五件目、下位等級向け講習の無償開放。六件目、指導員の等級認定制度。
十六件、あった。
会長室に直接持ってきたのは、最初の一度きりだった。突き返されたあとも、あの男は八年間、毎年、稟議の列に黙って並べ続けていたのだ。却下されると、分かっていただろうに。
戸隠は、六件目の綴りを長いこと見ていた。『指導員の等級認定制度』。教える技術を等級で認め、信用の形にする案。骨子は――今朝、国が発表したものと、ほとんど同じだった。
俺が「金にならん」と捨てたものを、国家が拾った。
それだけなら、まだ、経営判断の誤りで済む。誤りなら、いくらでもしてきた。死屍累々の上に、この会社を建ててきた。
問題は、箱の底に、もう一冊あったことだ。
◇
それは、稟議書ではなかった。玄武創設より前――戸隠がまだ現役で、「戸隠隊」の名で潜っていた頃の、遠征記録の綴りである。クランを作ったとき、まとめてここへ移したきり、開けたこともなかった。
『新人合同選抜・視察記録』。
日付は、二十五年前。報告の末尾に、視察者の所見の欄がある。若い字だった。今より角の立った、三十歳の自分の字。
『柊慎一、十七。身体は並。反射も並。おそらく、上へは行けん』
『だが、目が良すぎる。年長者の動きを盗んで、ノートに言葉で書き直している。訊けば「自分は感覚で覚えられないので」と言う。ああいう目は、百人に一人も出ん。――面白い若手がいる。覚えておけ』
覚えておけ、と。
二十五年前の俺は、そう書いていた。
戸隠は、ゆっくりと床に座り込んだ。記憶の底を、浚う。合同訓練の隅。年上の探索者の足元ばかり見ていた、痩せた少年。質問が的確すぎて、教官のほうが答えに詰まっていた。あれが、そうか。あれが――あの男か。
八年前、引退したB級をコーチとして採用する稟議が回ってきたとき、俺は経歴の数字だけを見て、判を押した。B級。安く使える。それだけだった。二十五年前に自分が「化ける」と見込んだ若手と同一人物だとは、気付きもしなかった。
忘れたのは、俺だ。
三十の俺には、見えていた。等級にも、討伐数にも、金額にも出ない価値が、ちゃんと見えていた。だからあの頃の戸隠隊は強かったのだ。それから俺はクランを作り、物差しを作った。S級を何人出したか。スポンサーをいくら集めたか。その物差しで二十年、人を測り続けて――物差しに合わないものから順に、見えなくなっていった。
挙げ句、何と言った。
寄生だと言ったのだ。自分が見つけた目に。自分の組織が二十五年、ただの一度も価値を認めず、最後に紙切れ一枚で切り捨てた、その男に。
世間は俺を「人類最強五人を育てた男を切った会長」と呼ぶ。
違う。もっと、悪い。
俺は、自分で「覚えておけ」と書いた若手を、自分で潰した男だ。
資料庫の灯りは、明け方まで消えなかった。巡回の警備員が地下で、書類の海に座り込む会長を見つけたが、声をかけられる気配ではなかったという。五十五歳の男は、十六件の却下案を、一件目から、もう一度読み直していた。
二十年分の、答え合わせだった。
◇
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【今日も平常運転】
【先生、今日は何の基礎ですか】
「第四十二回、『成長の測り方』。今日はね、道具も技も使いません。物差しの話をします」
世間の物差しは、よくできている。等級。順位。記録。どれも悪いものじゃない、と俺は前置きした。
「ただ、どんな物差しにも、測れないものがあります。たとえば『昨日より、転ばなくなった』は、どの等級表にも載りません。でも、それはちゃんと、あります。……だから、測り方をひとつだけ。他人と比べない。昨日の自分と比べる。半歩でも前に出ていたら、その日は勝ちです。等級が測り損ねたものを、無かったことにしないでください」
【効く】
【探索者の話のはずなのに、月曜の俺に効く】
【先生の講座、たまにこっちの人生に流れ弾が来るんだよな】
いつもの教室である。最後に、質問コーナーをやった。
『先生は、どうしてコーチになったんですか。現役時代はB級だったって聞きました』
俺は、湯呑みを置いた。
正直、いつか来るとは思っていた質問だった。コメント欄が、少しだけ静かになる。
「……長くなるな、その話は」
【聞きたい】
【聞きたいです】
【せ、先生……! 私も、聞きたいです……!】
ヒナちゃんまで言うのだから、仕方ない。
「じゃあ、来週。一回ぶん使って話します。――俺がコーチになった理由。たいした話じゃありません。何者にもなれなかった人間の話です。でもまあ、この教室には、一番必要な話かもしれない」
それじゃ、また。と言って、配信を切った。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【第四十二回、終了。来週の予告を、してしまった】
【押し入れの、一番古い箱。名前のないノートを、開けておくこと】




