第22話 掘り返される過去
その車は、音もなく停まった。
宅配便でも、灯油の巡回車でも、お役所でもない。磨き抜かれた黒塗りの後部ドアから降りた男は、外階段の錆を確かめるように一段ずつ上がってきて、綺麗な四十五度のお辞儀をした。
「クラン玄武、渉外統括の梶尾と申します。柊慎一様でいらっしゃいますね。……本日は、会長・戸隠の名代として参りました」
差し出された名刺の亀甲紋を、俺はしばらく眺めた。八年通ったビルの、一階の床にも、同じ紋が彫ってあった。
「とりあえず、お茶でも。狭いですが」
「恐縮です」
六畳間に、座布団が二枚。先週は国が座った場所に、今週は古巣が座る。我ながら、妙な部屋になったものだと思う。
◇
梶尾という男は、優秀だった。
世間話を二分で切り上げ、書類を三枚だけ畳に置き、余計な前置きをひとつも言わなかった。
「単刀直入に申し上げます。柊様に、玄武へお戻りいただきたい」
一枚目、契約条件。提示年俸の欄の数字は、桁を二度数え直した。かつての、ちょうど百倍。
二枚目、新設「育成本部」の組織図。本部長の席が空欄で、その下に教官五十名、専用棟、研究予算。
三枚目には、こうあった。『現行の配信講座は、継続・拡大を全面支援する』。
「講座を止めろとは申しません。むしろ逆です。玄武の名で、設備も人員も提供します。柊様は、何も失わない。……これが、当社の交渉カードのすべてです」
正直に言って、見事な条件だった。意地悪のひとつも、紐のひとつも見当たらない。本気で書かれた紙だというのは、紙を見れば分かる。
「……条件に、不満はありません。というより、俺には過ぎた話です」
「では」
「ただ、すみません」
俺は湯呑みを置いて、頭を下げた。
「俺の仕事はもう、誓う相手が決まっているので」
梶尾の眉が、わずかに動いた。
「八年間、玄武で俺が見ていたのは、五人でした。あの五人は卒業して、もう俺がいなくても死にません。――今、俺が見ているのは、名前も顔も知らない十万人です。三層で死ぬはずだった子たちです」
「兼任は、可能なはずです」
「コーチというのはね、肩書きじゃなくて、視線の仕事なんです。誰を見ているかが、仕事のすべてで。組織に戻れば、俺は組織を見ます。そういうふうにしか働けない性分なので。……二股は、かけられません」
長い沈黙があった。交渉のプロは、引き際もプロだった。書類を順番に揃えて鞄に戻し、それから一度だけ、台本にない顔をした。
「……ひとつ、個人的に伺っても。この金額を即答で断る方を、初めて見ました。怖くは、ないのですか」
「怖いですよ」と、俺は笑った。「でも、二十年も死亡報告書を読んでいるとね。手遅れになるものの順番だけは、覚えるんです。お金は、手遅れになりません」
梶尾は深く頭を下げ、玄関で靴を履きながら、最後に言った。
「条件の数字は……会長が、ご自身でお書きになりました」
「でしょうね」
太い指で書かれた数字だった。俺は、少しだけ昔の話をした。
「あの人が自分で数字を書くのは、本気のときだけです。八年、横で見てましたから。――光栄でした、とお伝えください」
◇
社用車の後部座席で、梶尾は本部へ短い報告を入れた。
「交渉、不成立です。……いえ。条件面の問題は、一切ありません。完敗です」
通話を切って、渉外統括は築三十二年の安アパートを見上げた。数百件の交渉をまとめてきた男には、分かってしまったのだ。なぜ人類最強が五人、あの六畳間に頭を下げるのか。
あの男は、買えないのではない。最初から、売り場に並んでいないのである。
◇
その夜の配信は、第四十一回「記録の取り方」。
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【今日も平常運転】
【先生、今日は何の基礎ですか】
「今日はノートの話です。潜る前に書く、潜った後に書く。……記録はね、思い出すために取るんじゃありません。安心して忘れるために取るんです。頭の容量は、現場で全部使ってください」
それから、と俺はノートの古い一冊を持ち上げた。
「記録というのは、書いた本人が忘れた頃に、勝手に仕事をするものです。去年の自分の一行が、来年の自分を助ける。あなたのヒヤリハットのメモが、いつか後輩の命綱になる。だから、消さずに取っておくこと。――今日の課題は、潜る前の三行。それじゃ、また」
我ながら、いつも通りの地味な回だった。
「記録は、本人が忘れた頃に勝手に仕事をする」。その言葉が、その日のうちに牙を剥くとは、喋った本人も思っていなかったわけだが。
◇
日付が変わって、二時間後だった。
火元は、誰も知らない捨てアカウントだった。添付されていたのは、七分余りの音声データ。題は、たった一行。
『クラン玄武・契約解除会議(当事者提供ではない)』
ノイズの向こうで椅子の軋む音がして、それから、業界の誰もが知っている声がした。
『アンタの育成論は、ただの寄生だろう』
『剣条玲。氷堂澪。獅子王丸。夜鴉。白瀬こころ。――S級探索者五人。確かに柊さん、アンタは全員の専属コーチだった。それは認める』
『考えてもみろ。S級になるような才能は、放っておいてもS級になる。アンタはその横に立って、育てたような顔をしていただけだ。……寄生だよ、柊さん。才能への寄生だ』
机を叩く音。紙のすべる音。応える声は、最後まで穏やかだった。
『……ま、そうですね』
『五人とも、もう俺がいなくても死にません。だったら俺の仕事は終わりです。――長い間、お世話になりました』
音声は、ドアの閉まる音で終わっていた。
三十分で声紋の検証画像が並び、一時間で「寄生コーチ」が全世界のトレンドに入り、二時間後には、もう誰の削除も追いつかなくなった。
【声紋一致。本人だ。会長の声だ】
【これが「円満な契約満了」の中身かよ】
【「育てたような顔をしていただけ」←この人が育てたの、人類最強五人なんですが】
【待ってくれ。切られた側が、一度も声を荒らげてないのが一番きつい】
【『長い間、お世話になりました』で泣いた。泣かされると思ってなかった】
【なあ、気付いたか。「法的にグレー」とか騒いでた例の連中、今夜だけ全員そろって沈黙してるぞ】
検証の祭りと、弔いのような静けさが、同じ画面に同居した夜だった。
◇
同じ夜半。三つの画面が灯る部屋で、夜鴉は珍しく、同じログを二度読み返していた。
机の上には、組み上げかけた取り立ての手順書。秘匿等級の変更申請は、まだ審査の途中である。先を越された、ということになる。
拡散の初動を、職業的な手つきで遡る。踏み台が三段。海外を二度経由。接続の癖は素人ではないが、知っているどの同業の癖とも違う。そして決定的に――あの広報代理店の仕事ではない。火を点けて回る連中に、火元を消すこの几帳面さはない。
「……内側か」
録音の存在を知り得て、持ち出せて、いま玄武を火にくべる動機のある人間。沈みかけた船からは、いつだって、賢いネズミから順に泳ぎ出す。
特定はできる。三日あれば、顔と名前まで辿れるだろう。だが、と夜鴉は思った。これは検証ではない。あの教室に持ち込む種類の仕事でもない。
男は、長文用のアカウントを閉じた。茶々用のアカウントも閉じた。それから、一番古い――登録日が講座第一回の夜である、無言のためのアカウントに、初めて文字を打った。
『因果応報ってやつ、俺より仕事が早い』
投稿。フォロワー、ゼロ。誰の目にも留まらない一行を残して、人類最高効率の暗殺者は灯りを消した。
手順書は、半分まで書いたところで保留の箱に入った。……取り立ての相手が先に破産しそうなのだから、仕方がない。
◇
翌朝。米を研いでいる横で、端末が鳴りやまなかった。
ヒナちゃんからメッセージが三件。『先生、大丈夫ですか』『私、悔しいです』『今夜も講座、ありますよね』。返信は一行にした。『大丈夫。いつも通りやります』。
夜は、臨時の配信を立てた。講座の回数には数えない、ただの顔見せである。開始前から、待機人数が読めない数になっていた。俺はいつものやつを言ってから、その話には一度だけ触れた。
「音声の件で、俺から言うことは、ほとんどありません。あれは会議室の話で、会議室の話は、あの部屋にいた人間のものです。教室に持ち込むのは、やめましょう」
【でも先生!】
【俺たちは怒っていいだろ、これは】
「怒ってくれた人、ありがとう。気持ちは受け取りました。……ひとつだけ、俺の側の事実を言っておくと」
湯呑みを置く。
「あの日、俺は本心から『そうですね』と言いました。育てた証拠というのはね、卒業した瞬間に本人のものになって、消えるんです。玲くんの速さは玲くんのもので、澪さんの魔法は澪さんのものだ。それでいいし、そうあるべきで、俺もそう望んで育てました。――だから、あの会議室のことを、誰かが裁いてくれる必要は、別にないんです。はい、この話は終わり。今夜は番号なしの臨時なので、講座はお休みです。昨日の課題、潜る前の三行――次の回で、ちゃんと見せてもらいますよ」
【こっちは煮えてるのに、この人だけ涼しいんだよなあ】
【聖人か?】
【せ、先生……! 私はまだちょっと、煮えてます……!】
ヒナちゃんが煮えている。いつもの教室である。
寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。
【玄武・再契約の件、辞退。梶尾さんという人は、いい交渉人だった】
【戸隠さんは、自分で数字を書いたらしい。……あの人の本気は、いつも少し、遅い】
◇
同日。クラン玄武の株価は、寄り付きから一度も値が付かないまま、ストップ安で取引を終えた。スポンサー三社が「事実関係の確認」を発表し、本部ビルの正面玄関には、朝から記者の放列ができた。
最上階の執務室で、戸隠厳は声明文の草稿を四度、突き返した。謝罪。釈明。法的措置の検討。――どの言葉も、あの七分の音声の前では、紙の重さしかなかった。
夕刻、地下駐車場に車を回させたと聞いて、広報部長は耳を疑った。会長は、正面から入り、正面から出る男だった。A級アタッカーの頃から、ただの一度も背中を見せたことのない男だった。
その男が、生涯で初めて、記者から逃げた。
地下へ降りるエレベーターの鏡に、五十五歳の顔が映っている。世間が今夜、何度も何度も再生している、あの声の主の顔が。
『……ま、そうですね』
穏やかなあの返事だけが、八年越しに、戸隠の耳の奥で鳴り続けていた。




