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第22話 掘り返される過去


その車は、音もなく停まった。

宅配便でも、灯油の巡回車でも、お役所でもない。磨き抜かれた黒塗りの後部ドアから降りた男は、外階段の錆を確かめるように一段ずつ上がってきて、綺麗な四十五度のお辞儀をした。

「クラン玄武、渉外統括の梶尾と申します。柊慎一様でいらっしゃいますね。……本日は、会長・戸隠の名代として参りました」

差し出された名刺の亀甲紋を、俺はしばらく眺めた。八年通ったビルの、一階の床にも、同じ紋が彫ってあった。

「とりあえず、お茶でも。狭いですが」

「恐縮です」

六畳間に、座布団が二枚。先週は国が座った場所に、今週は古巣が座る。我ながら、妙な部屋になったものだと思う。

梶尾という男は、優秀だった。

世間話を二分で切り上げ、書類を三枚だけ畳に置き、余計な前置きをひとつも言わなかった。

「単刀直入に申し上げます。柊様に、玄武へお戻りいただきたい」

一枚目、契約条件。提示年俸の欄の数字は、桁を二度数え直した。かつての、ちょうど百倍。

二枚目、新設「育成本部」の組織図。本部長の席が空欄で、その下に教官五十名、専用棟、研究予算。

三枚目には、こうあった。『現行の配信講座は、継続・拡大を全面支援する』。

「講座を止めろとは申しません。むしろ逆です。玄武の名で、設備も人員も提供します。柊様は、何も失わない。……これが、当社の交渉カードのすべてです」

正直に言って、見事な条件だった。意地悪のひとつも、紐のひとつも見当たらない。本気で書かれた紙だというのは、紙を見れば分かる。

「……条件に、不満はありません。というより、俺には過ぎた話です」

「では」

「ただ、すみません」

俺は湯呑みを置いて、頭を下げた。

「俺の仕事はもう、誓う相手が決まっているので」

梶尾の眉が、わずかに動いた。

「八年間、玄武で俺が見ていたのは、五人でした。あの五人は卒業して、もう俺がいなくても死にません。――今、俺が見ているのは、名前も顔も知らない十万人です。三層で死ぬはずだった子たちです」

「兼任は、可能なはずです」

「コーチというのはね、肩書きじゃなくて、視線の仕事なんです。誰を見ているかが、仕事のすべてで。組織に戻れば、俺は組織を見ます。そういうふうにしか働けない性分なので。……二股は、かけられません」

長い沈黙があった。交渉のプロは、引き際もプロだった。書類を順番に揃えて鞄に戻し、それから一度だけ、台本にない顔をした。

「……ひとつ、個人的に伺っても。この金額を即答で断る方を、初めて見ました。怖くは、ないのですか」

「怖いですよ」と、俺は笑った。「でも、二十年も死亡報告書を読んでいるとね。手遅れになるものの順番だけは、覚えるんです。お金は、手遅れになりません」

梶尾は深く頭を下げ、玄関で靴を履きながら、最後に言った。

「条件の数字は……会長が、ご自身でお書きになりました」

「でしょうね」

太い指で書かれた数字だった。俺は、少しだけ昔の話をした。

「あの人が自分で数字を書くのは、本気のときだけです。八年、横で見てましたから。――光栄でした、とお伝えください」

社用車の後部座席で、梶尾は本部へ短い報告を入れた。

「交渉、不成立です。……いえ。条件面の問題は、一切ありません。完敗です」

通話を切って、渉外統括は築三十二年の安アパートを見上げた。数百件の交渉をまとめてきた男には、分かってしまったのだ。なぜ人類最強が五人、あの六畳間に頭を下げるのか。

あの男は、買えないのではない。最初から、売り場に並んでいないのである。

その夜の配信は、第四十一回「記録の取り方」。

「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」

【知ってる】

【今日も平常運転】

【先生、今日は何の基礎ですか】

「今日はノートの話です。潜る前に書く、潜った後に書く。……記録はね、思い出すために取るんじゃありません。安心して忘れるために取るんです。頭の容量は、現場で全部使ってください」

それから、と俺はノートの古い一冊を持ち上げた。

「記録というのは、書いた本人が忘れた頃に、勝手に仕事をするものです。去年の自分の一行が、来年の自分を助ける。あなたのヒヤリハットのメモが、いつか後輩の命綱になる。だから、消さずに取っておくこと。――今日の課題は、潜る前の三行。それじゃ、また」

我ながら、いつも通りの地味な回だった。

「記録は、本人が忘れた頃に勝手に仕事をする」。その言葉が、その日のうちに牙を剥くとは、喋った本人も思っていなかったわけだが。

日付が変わって、二時間後だった。

火元は、誰も知らない捨てアカウントだった。添付されていたのは、七分余りの音声データ。題は、たった一行。

『クラン玄武・契約解除会議(当事者提供ではない)』

ノイズの向こうで椅子の軋む音がして、それから、業界の誰もが知っている声がした。

『アンタの育成論は、ただの寄生だろう』

『剣条玲。氷堂澪。獅子王丸。夜鴉。白瀬こころ。――S級探索者五人。確かに柊さん、アンタは全員の専属コーチだった。それは認める』

『考えてもみろ。S級になるような才能は、放っておいてもS級になる。アンタはその横に立って、育てたような顔をしていただけだ。……寄生だよ、柊さん。才能への寄生だ』

机を叩く音。紙のすべる音。応える声は、最後まで穏やかだった。

『……ま、そうですね』

『五人とも、もう俺がいなくても死にません。だったら俺の仕事は終わりです。――長い間、お世話になりました』

音声は、ドアの閉まる音で終わっていた。

三十分で声紋の検証画像が並び、一時間で「寄生コーチ」が全世界のトレンドに入り、二時間後には、もう誰の削除も追いつかなくなった。

【声紋一致。本人だ。会長の声だ】

【これが「円満な契約満了」の中身かよ】

【「育てたような顔をしていただけ」←この人が育てたの、人類最強五人なんですが】

【待ってくれ。切られた側が、一度も声を荒らげてないのが一番きつい】

【『長い間、お世話になりました』で泣いた。泣かされると思ってなかった】

【なあ、気付いたか。「法的にグレー」とか騒いでた例の連中、今夜だけ全員そろって沈黙してるぞ】

検証の祭りと、弔いのような静けさが、同じ画面に同居した夜だった。

同じ夜半。三つの画面が灯る部屋で、夜鴉は珍しく、同じログを二度読み返していた。

机の上には、組み上げかけた取り立ての手順書。秘匿等級の変更申請は、まだ審査の途中である。先を越された、ということになる。

拡散の初動を、職業的な手つきで遡る。踏み台が三段。海外を二度経由。接続の癖は素人ではないが、知っているどの同業の癖とも違う。そして決定的に――あの広報代理店の仕事ではない。火を点けて回る連中に、火元を消すこの几帳面さはない。

「……内側か」

録音の存在を知り得て、持ち出せて、いま玄武を火にくべる動機のある人間。沈みかけた船からは、いつだって、賢いネズミから順に泳ぎ出す。

特定はできる。三日あれば、顔と名前まで辿れるだろう。だが、と夜鴉は思った。これは検証ではない。あの教室に持ち込む種類の仕事でもない。

男は、長文用のアカウントを閉じた。茶々用のアカウントも閉じた。それから、一番古い――登録日が講座第一回の夜である、無言のためのアカウントに、初めて文字を打った。

『因果応報ってやつ、俺より仕事が早い』

投稿。フォロワー、ゼロ。誰の目にも留まらない一行を残して、人類最高効率の暗殺者は灯りを消した。

手順書は、半分まで書いたところで保留の箱に入った。……取り立ての相手が先に破産しそうなのだから、仕方がない。

翌朝。米を研いでいる横で、端末が鳴りやまなかった。

ヒナちゃんからメッセージが三件。『先生、大丈夫ですか』『私、悔しいです』『今夜も講座、ありますよね』。返信は一行にした。『大丈夫。いつも通りやります』。

夜は、臨時の配信を立てた。講座の回数には数えない、ただの顔見せである。開始前から、待機人数が読めない数になっていた。俺はいつものやつを言ってから、その話には一度だけ触れた。

「音声の件で、俺から言うことは、ほとんどありません。あれは会議室の話で、会議室の話は、あの部屋にいた人間のものです。教室に持ち込むのは、やめましょう」

【でも先生!】

【俺たちは怒っていいだろ、これは】

「怒ってくれた人、ありがとう。気持ちは受け取りました。……ひとつだけ、俺の側の事実を言っておくと」

湯呑みを置く。

「あの日、俺は本心から『そうですね』と言いました。育てた証拠というのはね、卒業した瞬間に本人のものになって、消えるんです。玲くんの速さは玲くんのもので、澪さんの魔法は澪さんのものだ。それでいいし、そうあるべきで、俺もそう望んで育てました。――だから、あの会議室のことを、誰かが裁いてくれる必要は、別にないんです。はい、この話は終わり。今夜は番号なしの臨時なので、講座はお休みです。昨日の課題、潜る前の三行――次の回で、ちゃんと見せてもらいますよ」

【こっちは煮えてるのに、この人だけ涼しいんだよなあ】

【聖人か?】

【せ、先生……! 私はまだちょっと、煮えてます……!】

ヒナちゃんが煮えている。いつもの教室である。

寝る前に、ノートへ二行だけ書いた。

【玄武・再契約の件、辞退。梶尾さんという人は、いい交渉人だった】

【戸隠さんは、自分で数字を書いたらしい。……あの人の本気は、いつも少し、遅い】

同日。クラン玄武の株価は、寄り付きから一度も値が付かないまま、ストップ安で取引を終えた。スポンサー三社が「事実関係の確認」を発表し、本部ビルの正面玄関には、朝から記者の放列ができた。

最上階の執務室で、戸隠厳は声明文の草稿を四度、突き返した。謝罪。釈明。法的措置の検討。――どの言葉も、あの七分の音声の前では、紙の重さしかなかった。

夕刻、地下駐車場に車を回させたと聞いて、広報部長は耳を疑った。会長は、正面から入り、正面から出る男だった。A級アタッカーの頃から、ただの一度も背中を見せたことのない男だった。

その男が、生涯で初めて、記者から逃げた。

地下へ降りるエレベーターの鏡に、五十五歳の顔が映っている。世間が今夜、何度も何度も再生している、あの声の主の顔が。

『……ま、そうですね』

穏やかなあの返事だけが、八年越しに、戸隠の耳の奥で鳴り続けていた。


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― 新着の感想 ―
『……ま、そうですね』 穏やかなあの返事だけが、八年越しに、戸隠の耳の奥で鳴り続けていた。 この会話はやめる時の話だから8年前ではないのでは?
まあまずは「寄生」と言ったらことに対する謝罪からでしょうね。こんな札束で頬を殴るようなやり方ではうまくいくものもうまくいかないでしょう。
玄武が勝手に亀鍋になっていきますねぇ
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