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第20話 来ない聖女


その「空席」に世界が気付いたのは、受講生名簿が十一万を超えた週のことだった。

発端は、いつもの検証スレである。

『【検証】シン先生の教え子五人、現在の動向まとめ』

【剣条玲:乱入済み。伝説】

【氷堂澪:補足済み。訂正魔】

【獅子王丸:再入門済み。教材】

【夜鴉:序列表が黒塗りだから知らん。なお検証ニキ、お前じゃないのか】

【白瀬こころ:――なし。配信に一度も現れず。コメントなし。公式の言及なし】

【言われてみれば、聖女様だけ何もないな】

【回復術の頂点だぞ。世界で一番忙しいだけだろ】

【でもさ。玲も澪も丸も、あんなに分かりやすく「帰って」きたのにさ】

【おい。二年前の移籍会見の記事、覚えてる奴いるか】

それから三日で、見出しは出揃った。

『「聖女」白瀬こころ、ただ一人の沈黙――師弟に何があったのか』

『再燃する移籍会見「あの発言」。五人目だけが帰らない理由』

『関係者が語る「不仲説は以前から」』

俺はといえば、見出しを三つ眺めて、端末を伏せた。

米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。やることは変わらない。――変えない、と朝から三度も胸の中で確認しているあたり、まあ、そういうことなのだろう。

「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」

【知ってる】

【今夜は来るのか、五人目】

【その話はやめろって】

「第三十九回、『救護の基礎・人が来るまでの五分間』。ダンジョンの中ではね、治してくれる誰かが届くまで、平均で五分かかります。今日はその五分間に、素人にできることを全部やります」

止血。保温。声かけ。気道の確保。地味な手順を、地味な順番で。

「最後に、手品みたいな話をひとつ。応急処置が上手い人と下手な人の差は、手じゃありません。――目です。下手な人は、血を見る。上手い人は、人を見る。視線が先に行った場所にしか、手は届かないんです」

俺はノートの古い一冊を、カメラに向けた。

「これはね、俺が教え子に教わったことです。人類で一番、ひとを治すのが上手い子でした。最初に会った頃、あの子の治癒は手のひらの範囲までしか届かなくてね。見てたら、すぐ分かった。治しているあいだ、ずっと自分の手を見てるんです。怖かったんでしょう。失敗したら目の前の人が死ぬ仕事を、十四歳でやっていたんだから」

「だから、練習をひとつだけ変えました。手を見ない。顔を上げて、治したい人を見る。――それだけで、あの子の治癒範囲は倍になりました。魔力というのは、目の行くところまで、ちゃんとついていくものなので」

コメント欄の流れが、変わった。

【聖女だ】

【白瀬こころの話だ……】

【「治癒範囲の聖女」の原点、初出しじゃないか】

【でも、その聖女様だけ来ないんだよな】

【例の記事見たか。『柊コーチの指導には限界を感じていました』ってやつ】

【本人がそう言ってるんだから不仲だろ】

【結局、教え子に見限られて――】

俺は湯呑みを置いた。それから、皆さん、と呼びかけた。

「うちの教室に、校則をひとつ追加します。――来ていない人の話を、来ていない人の代わりにしないこと。以上です」

【……はい】

【先生が校則を作るの、初めて見た】

【すみませんでした】

「詮索するなという話ではありません。皆さんの目は、検証のたびに俺を助けてくれた、いい目です。ただ、いい目ほど、向ける場所を選んでほしい。……それと、二年前の会見なら、俺もリアルタイムで観ましたよ」

言うかどうかは、迷わなかった。八年見てきた人間の、ただの観察報告である。

「あの子はね、嘘が世界で一番下手な子です。手元のカンペを三回も見ながら喋る子を、俺は他に知りません。――観察の報告は以上。今日の課題、毛布の畳み方。それじゃ、また」

【えっ】

【今、ものすごいこと言わなかったか】

【カンペを「三回見てた」って言ったぞ。観察の人が】

【つまりあの発言は――いや、校則だ。やめておこう】

【せ、先生……! 私、何も言いませんけど、何も言えません……!】

ヒナちゃんが何も言えていない。いつもの教室である。

その頃。北の地方都市、第七管理迷宮・浅層崩落事故の現場に、白い外套が立っていた。

担架が運ばれてくるたび、白瀬こころの周りだけ、空気の色が変わる。彼女が顔を上げて、負傷者を見る。それだけで、ちぎれかけた腕が繋がり、潰れた肺がふくらみ直す。「聖女様だ」と誰かが拝み、二十一歳はそのたび、少し困った顔で会釈をする。

十七人目は、十七歳のD級だった。相棒を庇って、左脚を潰した子だ。治療のあいだ、その子は痛みより興奮が勝った声で喋り続けた。

「俺、講座やってたんです。シン先生の。第六回の止血、相棒にやったの俺で――先生が、血じゃなくて人を見ろって言うから。聖女様、あの講座、知ってますか」

手は、止めない。止めない訓練だけは、誰よりも積んできた。

「……ええ。知っています」

「すごいですよね。無料なんですよ、あれ。俺たちみたいなのでも、死ななくて済む」

「そうね」と、聖女は微笑んだ。「とても――いい、先生」

その微笑みが完璧であればあるほど、気付く者はいない。白い外套の内側で、何が出血し続けているのかに。

白瀬こころ、十四歳。玄武育成棟、史上最年少。

魔力量の測定器を二度壊した「規格外」は、しかし、使いものにならなかった。治癒が、手のひらの範囲しか届かないのだ。教官たちは首を捻り、やがて言った。宝の持ち腐れ、と。

地味な中年コーチだけが、測定値ではなく、彼女の目を見た。

「君、治してるあいだ、ずっと自分の手を見てるね」

「……だって。失敗したら、死んじゃう、から」

「うん。怖いのは正しい。命を預かって怖くない奴のほうが、よっぽど怖い」と、その人は笑った。「でもね、視線は魔力の照準器なんだ。手を見ている限り、君の優しさは手のひらの大きさまでしか届かない。顔を上げて、治したい人を見る練習をしよう。――大丈夫。君の魔力は、君の目が行くところまで、ちゃんとついていくから」

半年で、治癒範囲は倍になった。二年でS級。世間は彼女を聖女と呼び、先生は最後まで「俺は鏡の向きを変えただけだよ」と笑っていた。

十九歳の夏、国内最大の救護組織〈白慈会〉から移籍の打診が来た。迷う彼女に、先生は机の引き出しから封筒を出した。推薦状の下書き。移籍の手順。世話になった部署への挨拶回りの順番。――後で知った。あの引き出しは、五人全員ぶん、あったのだ。

「君の治癒は、ダンジョンの中だけに置いておくには大きすぎる。外には災害があって、事故があって、病院の手が届かない場所がある。……行っておいで」

だから、移籍そのものは後悔していない。あの日の判断は、今日も北の街で十七人の命になった。

後悔は、ひとつだけだ。

会見の前夜、〈白慈会〉の広報室で、大人たちが紙を一枚、差し出した。

「白瀬さん。世間には『物語』が要るんです。古巣の指導に限界を感じ、新天地を選んだ――この一行があるだけで、あなたの移籍は美談になる」

「……柊コーチの指導に、限界なんて」

「あなたのためです。それに、これから救う患者さんのためでもある。しがらみのない十九歳の聖女。その絵が要るんです」

言い返す言葉を、十九歳は持っていなかった。手の中には、台本だけがあった。

翌日。何百のフラッシュの前で、白瀬こころはカンペを三度見ながら、読んだ。

『柊コーチの指導には――限界を、感じていました』

その夜、五人のスレッドに『みなさん、お元気で』とだけ書いて、彼女は通知を切った。あれが、自分に書けた最後の正直だった。

二年経って、あの記事は、彼女の知らない場所で今も働き続けている。

講座の切り抜きが伸びるたび、必ず誰かが貼る。先生を疑う者が、最後の根拠に使う。なにせ「教え子本人の言葉」だ。玲の乱入も、澪の補足も、丸の再入門も、あの記事の前では「三人の美談」で止められてしまう。――五人目が、否定しているのだから。

先生を斬る刃の銘に、自分の名前が彫ってある。

だから騒ぎのたびに、彼女は思うのだ。三人のように帰る資格が、私にだけは、ない。

スレッドは、丸の復帰以来、少しだけ動くようになった。

【獅子王丸】『こころ。親父の教室は、天井は低いが、入り口は広いぞ』

【剣条玲】『急がなくていい。ただ、一人で抱えるな』

既読だけを、今夜も音もなく付ける。返信の下書きは、とっくに五十件を超えた。挨拶で始まるもの。謝罪で始まるもの。どれも二行目で止まる。

深夜。宿舎の自室で、彼女は今日もアーカイブを開く。校則が増える場面を、もう三度観た。『嘘が世界で一番下手な子です』。――先生。気付いていたなら、どうして怒ってくれないんですか。怒ってくれたら、謝りに行けるのに。

画面を切り替える。受講生名簿、新規登録。名前の欄に「白瀬こころ」と打って、消す。偽名を打って、それも消す。名簿の番号は十一万を超えている。昼間の、あの十七歳の子も、この中にいる。

登録ボタンの上で、今夜も指が止まる。

「……合わせる顔が、ないんです。先生」

六畳の教室は、世界で一番遠い。

同じ夜半。三つの画面が灯る部屋で、夜鴉は不仲説のスレを束ね終えていた。

火元は、また同じ十六の足跡だった。今度は二年前の記事に、薪をくべて回っている。

「……あの子の記事まで燃料にするか。なるほどな」

申請の審査は、まだ降りない。だが、急ぐ理由がひとつ増えた。――取り立ての利息も、だ。

翌朝。米を研いでいると、窓の外で、聞き慣れないエンジン音が止まった。

このアパートの前に停まるのは、宅配便か、灯油の巡回車か、どちらかである。

カーテンの隙間から覗くと、そのどちらでもなかった。黒塗りの公用車。ドアには、国章と――ダンジョン庁の文字。

「……回覧板では、なさそうだ」

降りてきた背広が二人、まっすぐに、築三十二年の外階段へ向かってくる。


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― 新着の感想 ―
 保温は手を握るだけでも変わるのと触れていることの安堵が希望になって生存率は上がる、あとは視線を合わせ続けることも気力になるのと視線が外れることが不安定さを示すから意識回復のための声掛けのタイミングに…
多分、白瀬さんが言いたくもないことをカンペで言わされた事は、先生も、剣条さん達他の古参の弟子達も皆分かってると思います。 彼女にそう言うコメントをさせた組織がエグい(汗)。 1人の女の子に全て責任被せ…
そこで怒らないから「先生」なんだけどな。 とはいえ、それを理解するにはまだ、大人に成りきれてない。 しかし、聖女様には自由な公式アカウントは無さそう。 発言を許されてないんだろうなぁ、組織背負ってる…
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