第19話 夜鴉の独白
仕事は、日の出前に終わった。
報告は三行で済ませた。『指定個体、排除完了。所要四分十一秒。損耗なし』。国家指定の緊急案件——整理番号は言えない。この夜のことを世間が知るのは早くて十年後、機密指定が解ける頃だ。たぶん、誰も読まないだろうが。
始発の各駅停車に揺られながら、男は端末の中の三つのアカウントを、順番に巡回した。
一つ目は、長い検証を書き込むためのアカウント。
二つ目は、短い茶々を入れるためのアカウント。
三つ目は、無言で高評価を押すためだけの、一番古いアカウント。
ログインのたびに回線も挙動も切り替える。同じ顔は、二度使わない。仕事と同じ要領である。
夜鴉、二十四歳。人類で最も効率よく魔獣を仕留める男は、おそらく人類で最も手際よく、裏アカウントを運用する男でもあった。
◇
夜鴉には、表で動けない理由がある。
国家直轄探索者。適性区分・隠密。所属は公的に存在せず、S級序列表の「夜鴉」の欄は、顔写真だけが黒い四角で潰されている。撮り忘れではない。存在そのものが、機密等級なのだ。
だから、玲のようには行けない。丸のようには座れない。あの六畳間の安い座布団は、夜鴉の職業から、世界で一番遠い場所にある。
二年前。独立——という名の、国家への移籍のとき、夜鴉は深く考えなかった。条件は破格で、仕事は性に合っていた。先生はいつもの顔で移籍の書類を揃え、いつもの声で「体に気をつけて」と言った。それで終わりだと、思っていた。
玲の一斉送信を読んだのは、三日遅れだった。地の底の仕事中で、電波がなかった。
【先生が一人でいる。お前ら、いつまで気付かないふりをするんだ】
返信を十二回書いて、十二回消した。
気付かないふり、では断じてない。その証拠に、三つ目の無言アカウントの登録日は——講座の、第一回の夜である。
◇
その夜も、配信は通常運転だった。
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です。――第三十六回、『音の置き方』。……歩き方の話です。足音って、消すものじゃないんです。置くものなんです」
暗い部屋に、画面の灯りが三つ。夜鴉は同じ配信を、三つの窓で開いていた。
【足音を「置く」?】
【また地味なのが始まった】
【初心者に隠密の基礎を教えるのか……】
「隠密とは違いますよ。ただ、浅層でも、音で寄ってくる魔物は全体の四割いる。足音を半分にするだけで、遭遇は目に見えて減ります。装備より安い安全です。コツは三つ。カカトから落とさない。次の足を急がない。それから——膝で歩かない。足首でもない。股関節から歩く」
検証用アカウントの指が、勝手に動いた。
【検証。正当。歩行音の主成分はカカトの接地衝撃で、骨盤主導の歩行は接地時間を延ばして衝撃を散らす。なお同じ理屈は泥濘でも瓦礫でも凍結面でも通る。覚えて損はない】
投稿。数秒後、いつもの反応が流れてくる。
【出た、検証ニキ】
【今日も妙に詳しい】
【こいつ絶対、現役のそれなりの奴だろ。文体で分かる】
文体で分かる、は構わない。分かるように統一しているのだ。茶々用のアカウントに持ち替えて、男は書き足した。
【検証ニキ、夜道で会いたくないタイプ】
自分で言うな、とは誰にも言われなかった。完璧な仕事である。
「じゃあ最後、質問コーナー。『仲間から、やり方が冷たいと言われます。効率を取るべきですか、和を取るべきですか』。——いい質問ですね」
先生は、少しだけ黙った。湯呑みを置く、あの間だった。
「効率って、ちょっと損な言葉でね。俺の教え子にも一人、人類で一番効率のいい子がいました。無駄がひとつもない。だから周りは冷たいと言った。でも俺は、そう思ったことが一度もないんです。最短で終わらせるってことは、誰かが危険の中にいる時間を、一番短くするってことなので。……まあ、本人にそれを『優しさ』だと言ったら、ものすごく嫌な顔をされましたけど」
【教え子で「人類で一番効率」っていったら】
【夜鴉か? 序列表の、あの黒塗りの】
【序列表の黒塗りに「優しさ」って言った人類、たぶん先生だけだぞ……】
【せ、先生の教え子、何人いても全員規格外なんですが……!】
三つの画面の前で、夜鴉は十秒ほど、停止していた。
それから、無言アカウントで高評価を押した。危うく茶々用のほうで押すところだった。この稼業を始めて、初めての誤爆未遂である。
◇
七年前。玄武の育成棟で、十七の夜鴉は、一番嫌われていた。
模擬戦で誰よりも速く「終わらせ」、誰とも組まず、口を開けば皮肉が出た。教官の所見は揃っていた。「危険」「冷酷」「協調性なし」。物心つく前から非合法の駆除屋の下で潜ってきた子供に、それ以外の何が書けただろう。自分でもそう思う。
地味な中年コーチだけが、所見を書く前に、録画を全部観た。
「君、急所を外したことが一度もないね」
「……文句があるのか」
「逆だよ」と、その人は録画を巻き戻した。「君の狩りは、獲物が苦しむ時間が世界で一番短い。仲間が危険に晒される時間も、一番短い。殺しの技術しかない、って顔をしてるけどね。——君のは、『最短で終わらせる優しさ』だよ」
反吐が出る、と思った。言葉で人を手懐けるのは、夜鴉のいた世界では初歩の手口だ。
「あんたの言葉は信用しない。俺は残高しか信じない。数字は嘘をつかないからな」
あの人は怒らなかった。笑って、ノートの新しいページに題を書いた。『夜鴉・残高』。
「いいよ。なら俺は毎日、少しずつ振り込む。君のいいところを一日一行、ここに書く。引き出すのも、口座ごと解約するのも、君の自由」
馬鹿馬鹿しい、と思った。
五年後の卒業の日、ノートは三冊になっていた。千八百行。あの人は一日も、欠かさなかった。
最後の行は、今も諳んじられる。
『夜鴉の優しさは、いつも最短距離を通る。本人だけが、それを冷たさだと思い込んでいる』
◇
日付が変わる頃、夜鴉はいつもの巡回で、検証スレに入った。
『【検証】シン講座と浅層事故率の相関スレ part41』
新顔が、増えていた。
【死亡率低下の件、装備規格の更新時期と被ってるだけでは? 講座の効果と断定するのは早計】
【ヒナって子の昇格試験、対戦相手が直前で変わってたの、普通に不自然だよね】
【そもそも無資格の個人があの規模で安全指導って、法的にグレーらしいよ。知り合いの探索者が言ってた】
一見、健全な疑問に見える。検証とは疑うことだ。疑うこと自体は、この教室の作法に合っている。
だが——夜鴉の本業は、痕跡を消すことである。消し方を知り尽くした目には、消し損ねた痕跡が、夜道の足跡のように光って見える。
アカウントの作成日が、同じ十日間に固まっている。活動時間が、平日の九時から十八時に綺麗に収まっている。「らしいよ」「知り合いが」で出典を偽装する、同じ癖。論破されると反論せず、論点を捨てて次の疑問に移る——勝つ気がないのだ。火種を置いて回ることだけが目的の、種蒔きの手口。
三時間かけて、夜鴉は文体の癖と活動時間帯と、使い回された画像の劣化具合から、中核の十六アカウントを束ねた。出どころは、一つの広報代理店に絞れた。業界最大手。そして年間契約の筆頭クライアントは——玄武。
会長案件か、広報の独走か。そこまでは分からない。どちらでもいい、とも思う。
信用毀損工作。始動から、およそ二週間。本格的な収穫は、これからのつもりだろう。
「…………」
静かな、職業的な怒りというものがある。心拍は一つも上がらないまま、手順だけが勝手に組み上がっていく種類の怒りだ。
潰すのは、簡単だ。本業より簡単だ。なにしろ、誰も死なない。
だが、夜鴉は画面の中の教室を、もう一度見た。足音の置き方を真面目に練習する十万人。明け方四時の高評価。畳一枚の紙。安い座布団。——あれは、日向の場所だ。影のやり方で守れば、床に影が残る。
なら、答えは一つしかない。
◇
夜鴉は端末を取り、本業の窓口にかけた。ワンコールで出た相手に、用件だけを言った。
「俺だ。——前に打診した件、正式に進めてくれ。秘匿等級の、変更申請。それと、溜まってる休暇を全部使う。貸しも、まだ三つ残ってたはずだ」
窓口が何かをまくし立てている。手続きには数週間かかる、審査に前例がない、せめて理由を——。
「理由なら、書類に書く」
通話を切って、五人のスレッドを開く。丸の復帰報告以来、少しだけ動くようになったスレ。聖女様の既読だけは、今夜も音もなく付いている。発言は、二年前の『みなさん、お元気で』が最後のままだ。……あれはあれで、重症だな、と思う。人のことは、言えないが。
机の上に、届いたばかりの申請書類を広げる。
「……信頼ってのは、残高みたいに勝手に貯まるんだよ、先生」
暗がりに、独り言が落ちた。
あんたは気付いていないだろうが、あんたは毎晩、十万人の口座に振り込み続けている。一日一行どころの話じゃない。利息だけで、もう世界が変わり始めている。
——で、その残高に手を付けようって泥棒がいる。なら話は早い。回収と取り立ては、昔から、こっちの専門だ。
職業欄の前で、ペンが一拍だけ止まった。国家直轄探索者。適性区分・隠密。公的には存在しない男に書ける肩書きなら、いくらでもあった。
夜鴉は少しだけ笑って、一番嘘のない三文字を書いた。
——教え子、と。
人類最高効率の暗殺者は、こうして静かに、沈黙を破る準備を始めた。




