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第19話 夜鴉の独白


仕事は、日の出前に終わった。

報告は三行で済ませた。『指定個体、排除完了。所要四分十一秒。損耗なし』。国家指定の緊急案件——整理番号は言えない。この夜のことを世間が知るのは早くて十年後、機密指定が解ける頃だ。たぶん、誰も読まないだろうが。

始発の各駅停車に揺られながら、男は端末の中の三つのアカウントを、順番に巡回した。

一つ目は、長い検証を書き込むためのアカウント。

二つ目は、短い茶々を入れるためのアカウント。

三つ目は、無言で高評価を押すためだけの、一番古いアカウント。

ログインのたびに回線も挙動も切り替える。同じ顔は、二度使わない。仕事と同じ要領である。

夜鴉、二十四歳。人類で最も効率よく魔獣を仕留める男は、おそらく人類で最も手際よく、裏アカウントを運用する男でもあった。

夜鴉には、表で動けない理由がある。

国家直轄探索者。適性区分・隠密。所属は公的に存在せず、S級序列表の「夜鴉」の欄は、顔写真だけが黒い四角で潰されている。撮り忘れではない。存在そのものが、機密等級なのだ。

だから、玲のようには行けない。丸のようには座れない。あの六畳間の安い座布団は、夜鴉の職業から、世界で一番遠い場所にある。

二年前。独立——という名の、国家への移籍のとき、夜鴉は深く考えなかった。条件は破格で、仕事は性に合っていた。先生はいつもの顔で移籍の書類を揃え、いつもの声で「体に気をつけて」と言った。それで終わりだと、思っていた。

玲の一斉送信を読んだのは、三日遅れだった。地の底の仕事中で、電波がなかった。

【先生が一人でいる。お前ら、いつまで気付かないふりをするんだ】

返信を十二回書いて、十二回消した。

気付かないふり、では断じてない。その証拠に、三つ目の無言アカウントの登録日は——講座の、第一回の夜である。

その夜も、配信は通常運転だった。

「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です。――第三十六回、『音の置き方』。……歩き方の話です。足音って、消すものじゃないんです。置くものなんです」

暗い部屋に、画面の灯りが三つ。夜鴉は同じ配信を、三つの窓で開いていた。

【足音を「置く」?】

【また地味なのが始まった】

【初心者に隠密の基礎を教えるのか……】

「隠密とは違いますよ。ただ、浅層でも、音で寄ってくる魔物は全体の四割いる。足音を半分にするだけで、遭遇は目に見えて減ります。装備より安い安全です。コツは三つ。カカトから落とさない。次の足を急がない。それから——膝で歩かない。足首でもない。股関節から歩く」

検証用アカウントの指が、勝手に動いた。

【検証。正当。歩行音の主成分はカカトの接地衝撃で、骨盤主導の歩行は接地時間を延ばして衝撃を散らす。なお同じ理屈は泥濘でも瓦礫でも凍結面でも通る。覚えて損はない】

投稿。数秒後、いつもの反応が流れてくる。

【出た、検証ニキ】

【今日も妙に詳しい】

【こいつ絶対、現役のそれなりの奴だろ。文体で分かる】

文体で分かる、は構わない。分かるように統一しているのだ。茶々用のアカウントに持ち替えて、男は書き足した。

【検証ニキ、夜道で会いたくないタイプ】

自分で言うな、とは誰にも言われなかった。完璧な仕事である。

「じゃあ最後、質問コーナー。『仲間から、やり方が冷たいと言われます。効率を取るべきですか、和を取るべきですか』。——いい質問ですね」

先生は、少しだけ黙った。湯呑みを置く、あの間だった。

「効率って、ちょっと損な言葉でね。俺の教え子にも一人、人類で一番効率のいい子がいました。無駄がひとつもない。だから周りは冷たいと言った。でも俺は、そう思ったことが一度もないんです。最短で終わらせるってことは、誰かが危険の中にいる時間を、一番短くするってことなので。……まあ、本人にそれを『優しさ』だと言ったら、ものすごく嫌な顔をされましたけど」

【教え子で「人類で一番効率」っていったら】

【夜鴉か? 序列表の、あの黒塗りの】

【序列表の黒塗りに「優しさ」って言った人類、たぶん先生だけだぞ……】

【せ、先生の教え子、何人いても全員規格外なんですが……!】

三つの画面の前で、夜鴉は十秒ほど、停止していた。

それから、無言アカウントで高評価を押した。危うく茶々用のほうで押すところだった。この稼業を始めて、初めての誤爆未遂である。

七年前。玄武の育成棟で、十七の夜鴉は、一番嫌われていた。

模擬戦で誰よりも速く「終わらせ」、誰とも組まず、口を開けば皮肉が出た。教官の所見は揃っていた。「危険」「冷酷」「協調性なし」。物心つく前から非合法の駆除屋の下で潜ってきた子供に、それ以外の何が書けただろう。自分でもそう思う。

地味な中年コーチだけが、所見を書く前に、録画を全部観た。

「君、急所を外したことが一度もないね」

「……文句があるのか」

「逆だよ」と、その人は録画を巻き戻した。「君の狩りは、獲物が苦しむ時間が世界で一番短い。仲間が危険に晒される時間も、一番短い。殺しの技術しかない、って顔をしてるけどね。——君のは、『最短で終わらせる優しさ』だよ」

反吐が出る、と思った。言葉で人を手懐けるのは、夜鴉のいた世界では初歩の手口だ。

「あんたの言葉は信用しない。俺は残高しか信じない。数字は嘘をつかないからな」

あの人は怒らなかった。笑って、ノートの新しいページに題を書いた。『夜鴉・残高』。

「いいよ。なら俺は毎日、少しずつ振り込む。君のいいところを一日一行、ここに書く。引き出すのも、口座ごと解約するのも、君の自由」

馬鹿馬鹿しい、と思った。

五年後の卒業の日、ノートは三冊になっていた。千八百行。あの人は一日も、欠かさなかった。

最後の行は、今も諳んじられる。

『夜鴉の優しさは、いつも最短距離を通る。本人だけが、それを冷たさだと思い込んでいる』

日付が変わる頃、夜鴉はいつもの巡回で、検証スレに入った。

『【検証】シン講座と浅層事故率の相関スレ part41』

新顔が、増えていた。

【死亡率低下の件、装備規格の更新時期と被ってるだけでは? 講座の効果と断定するのは早計】

【ヒナって子の昇格試験、対戦相手が直前で変わってたの、普通に不自然だよね】

【そもそも無資格の個人があの規模で安全指導って、法的にグレーらしいよ。知り合いの探索者が言ってた】

一見、健全な疑問に見える。検証とは疑うことだ。疑うこと自体は、この教室の作法に合っている。

だが——夜鴉の本業は、痕跡を消すことである。消し方を知り尽くした目には、消し損ねた痕跡が、夜道の足跡のように光って見える。

アカウントの作成日が、同じ十日間に固まっている。活動時間が、平日の九時から十八時に綺麗に収まっている。「らしいよ」「知り合いが」で出典を偽装する、同じ癖。論破されると反論せず、論点を捨てて次の疑問に移る——勝つ気がないのだ。火種を置いて回ることだけが目的の、種蒔きの手口。

三時間かけて、夜鴉は文体の癖と活動時間帯と、使い回された画像の劣化具合から、中核の十六アカウントを束ねた。出どころは、一つの広報代理店に絞れた。業界最大手。そして年間契約の筆頭クライアントは——玄武。

会長案件か、広報の独走か。そこまでは分からない。どちらでもいい、とも思う。

信用毀損工作。始動から、およそ二週間。本格的な収穫は、これからのつもりだろう。

「…………」

静かな、職業的な怒りというものがある。心拍は一つも上がらないまま、手順だけが勝手に組み上がっていく種類の怒りだ。

潰すのは、簡単だ。本業より簡単だ。なにしろ、誰も死なない。

だが、夜鴉は画面の中の教室を、もう一度見た。足音の置き方を真面目に練習する十万人。明け方四時の高評価。畳一枚の紙。安い座布団。——あれは、日向の場所だ。影のやり方で守れば、床に影が残る。

なら、答えは一つしかない。

夜鴉は端末を取り、本業の窓口にかけた。ワンコールで出た相手に、用件だけを言った。

「俺だ。——前に打診した件、正式に進めてくれ。秘匿等級の、変更申請。それと、溜まってる休暇を全部使う。貸しも、まだ三つ残ってたはずだ」

窓口が何かをまくし立てている。手続きには数週間かかる、審査に前例がない、せめて理由を——。

「理由なら、書類に書く」

通話を切って、五人のスレッドを開く。丸の復帰報告以来、少しだけ動くようになったスレ。聖女様の既読だけは、今夜も音もなく付いている。発言は、二年前の『みなさん、お元気で』が最後のままだ。……あれはあれで、重症だな、と思う。人のことは、言えないが。

机の上に、届いたばかりの申請書類を広げる。

「……信頼ってのは、残高みたいに勝手に貯まるんだよ、先生」

暗がりに、独り言が落ちた。

あんたは気付いていないだろうが、あんたは毎晩、十万人の口座に振り込み続けている。一日一行どころの話じゃない。利息だけで、もう世界が変わり始めている。

——で、その残高に手を付けようって泥棒がいる。なら話は早い。回収と取り立ては、昔から、こっちの専門だ。

職業欄の前で、ペンが一拍だけ止まった。国家直轄探索者。適性区分・隠密。公的には存在しない男に書ける肩書きなら、いくらでもあった。

夜鴉は少しだけ笑って、一番嘘のない三文字を書いた。

——教え子、と。

人類最高効率の暗殺者は、こうして静かに、沈黙を破る準備を始めた。


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― 新着の感想 ―
足音は足首にしろ膝にしろ曲げて歩くと真っすぐにする必要があるから自然と踏み込む形になるせいでその分衝撃が大きくなるからだな、ただ木の根をまたぐとか悪路ですり足は出来ないから足先から降ろす意識だけで変わ…
種蒔きの手口、わかりやすくて良い
夜鴉君、偉い!君、は、ほんとにわかってるんだね。楽しみ。 作者様、この作品、本当にありがとうございます。毎日楽しみに読ませていただいています。 季節柄、体調には充分気をつけてください。応援しています。
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