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第18話 10万人の教室


第一報は、炊飯器より先に鳴った。

『「シン講座」受講生十万人を突破――個人運営として史上最速』

『今夜は記念配信か。「教え子五人、揃い踏み」説が過熱』

『専門家「もはや一配信の規模ではない」』

見出しを三つ眺めて、俺は端末を伏せた。

やることは変わらない。米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活である。日数は、もう数えていない。

変わったことが一つだけある。壁際に、畳一枚ぶんの紙が二枚、立てかけてあることだ。

夜。配信開始ボタンを押すと、視聴者数は最初から六桁で表示された。記念回というのは、始まる前から始まっているらしい。

「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」

【知ってる】

【十万人おめでとう!】

【おめでとおおおお】

【で、今夜は何が起きるんだ。五人揃うのか?】

「先に、お礼を。チャンネルの登録は、先週百万を超えたそうです。ありがたい話ですが、正直、実感がありません。俺が数えているのは名簿のほうなので。――課題の提出用に作った、あのただの名簿に登録してくれた人、十万人。こっちが、うちの受講生です」

頭を下げる。コメント欄が祝いの絵文字で埋まっていく。

「課題の提出箱を作ったときは、十人も使わないと思っていました。……本当に、ありがとうございます」

【箱、作ってよかったな先生】

【で、記念企画は!?】

「で、記念に何をやるか、ですが。――新しいことは、何もやりません」

【えっ】

「今日は『初心に返る日』です。第一回を、もう一回やります。『装備より先に、立ち方の話をさせてください』。あの、重心の話です」

【十万人記念が、再放送!?】

【いや待て。先生が意味のないことをやるわけがない】

【一万人がノートを開く音がした】

「再放送とは、少し違います。第一回と違って、今日は――実演台がありますので」

畳が、みしりと鳴いた。

フレームの外から、巨体が入ってくる。安い座布団の隣に、世界で一番硬い男が立った。天井に髪が触れるので、少しだけ首を曲げて。

「獅子王丸だ。今日は教材をやる」

【教材wwww】

【人類最硬の盾が教材】

【世界一贅沢な実演台が来た】

「丸くん、その前に。宿題は」

「やってきた。期限は来週だが、待てなかった」

風呂敷から、丸めた特大の紙が出てくる。広げると、大きな足裏の絵だった。隅に書き込まれた字は、力強くて、少し不揃いで、丁寧だった。

「例の十六の坊主だ。『地面を噛め』は通じなかった。けどな、調べたら、あいつは海辺の村の出だった。だから言い直した。――『濡れた砂に立つときの足をしろ』。一発で通じた」

「うん。満点」

【宿題のスケールがでかい】

【教わりながら、教える側に回る宿題か……】

【S級が満点もらって嬉しそうなの、なんかいいな】

「では、第一回。重心の話です」

俺はノートの一冊目を、あの夜と同じページで開いた。視聴者ゼロの教室で読み上げた、一行目。

「人間は、立っているだけで揺れています。揺れていない人はいません。上手い人は、揺れを足の裏の中に収めているだけです。カカトに乗りすぎない。足の指で床をつかむ。第一回でやったのは、その収め方でした。――今日はそれを、目で見てもらいます」

俺は丸の正面に立った。六畳間に、構えた山がある。

「丸くん、いつもの構えで。……はい。今、この人はたぶん、世界で一番安定しています。試しに」

両手を当てて、全体重で押す。岩を押したほうが、まだ手応えがあると思う。

【びくともしない】

【知ってた】

【先生が全力で押してるのに置物なんだが】

「これが、正解の形です。じゃあ次。丸くん、重心を、指先ひとつぶんだけ、爪先側に」

「おう」

見た目は、何も変わらない。十万人の見ている画面の中で、巨体は一ミリも動いていないはずだ。

俺は今度は、指を二本だけ当てた。押す。

人類最硬の盾が――半歩、よろけた。

コメント欄が、爆発した。

【!?!?】

【今なにが起きた!?】

【指二本だぞ!?】

【最硬の盾がよろけるの、初めて見たんだが】

「種も仕掛けもありません。重心の線が、支えの真ん中から指先ひとつぶん逃げただけです。E級でも、S級でも、人間の骨の並びは同じなので――崩れるときは、同じ場所から崩れます」

「言っておくが、手加減はしてないぞ」と、教材が言った。「むしろ、踏ん張った。それでこれだ。……俺は二年がかりで盾を厚くした。けど、指先ひとつの重心のほうが、装甲より厚い。それを忘れかけてたから、ここに戻ってきた」

【基礎は一種類しかない、ってこういうことか】

【第一回と同じ話のはずなのに、解像度が桁違いだ】

【検証。転倒の力学としても正当。重心線が支持基底面の縁に寄るほど、復元に要る力は跳ね上がる。そして体重が重いほど、戻すのも重い。つまりデカいほど、よく崩れる】

【また検証ニキいる】

【この人どの回にもいるよな。文体で分かる】

「検証の人の言う通りです。毎回ありがとうございます。……それと、せっかくの記念なので、名簿の話を少しだけ」

俺は印刷した紙を一枚出した。

「十万人の内訳を見ました。現役の探索者は、実は三割くらいです。残りは、これから登録する学生さん、引退した人、それから――探索者の、家族の方々。あと、名簿で確認できるだけで、各地の訓練校の教官が二百人以上います」

【うちの教官、絶対いるわ】

【協会の研修部がアーカイブを「参考資料」で回覧してるって噂、ガチだったのか】

「家族の方が多いのは、いい教室の証拠だと思っています。死なないための基礎は、本人より、帰りを待つ側のほうが真剣に聞くものなので」

コメントの流れが、少しだけ、やわらかくなった。

【なんかさ。授業受けてるだけで、強くなった気がするんだよな】

【「気がする」じゃないぞ。浅層の事故統計、講座が始まってから目に見えて下がってる】

【せ、先生! 私、第一回のノート、今も毎朝読み返してます!】

「いい心がけだ、先輩」と、教材が言った。

【ヒナ先輩、S級の後輩に褒められる】

【この教室の上下関係、ほんと好き】

「――まとめます。十万人になっても、やることは第一回と同じです。基礎に卒業はありません。あるのは、復習だけです。それじゃ、今日はここまで。……ああ、記念の課題を出しておきます。寝る前に、靴の中で足の指を、十回。以上です」

【地味!】

【十万人記念の課題が足の指十回】

【でも、死ななくなるんだよなあ】

配信を切ると、六畳間に静けさと、巨体が残った。

丸は機材のケーブルを太い指で器用に巻きながら、ぼそりと言った。

「親父。あんた、気付いてないだろ」

「ん? 何が」

「あんたの講座、もう国の育成機関より人を育ててるんだぜ。訓練校が一年かけて世に出す新人より、あんたの教室の生徒のほうが、とっくに多い」

「育ててるのは俺じゃないよ」

湯呑みを片付けながら、俺は普通に答えた。

「廊下で千回、足の指を握るのは本人だ。俺は横で喋ってるだけだよ」

「……だろうな。そう言うと思った」

丸は岩が割れるみたいに笑って、玄関で深々と頭を下げ、帰っていった。去り際に一言、「紙は切らすなよ、親父。そのうち、もっとデカい宿題が来る」と残して。

どういう意味かは、聞きそびれた。

ノートの新しいページに、俺は二行だけ書き込んだ。

【受講生十万人。記念回は第一回の再演。実演台つきの基礎は、よく届く】

【教室は広くなった。けど、黒板は一枚でいい】

同じ夜。

カーテンを閉め切った部屋に、画面の灯りが三つ、並んで点いていた。

配信が終わると、男は三つのアカウントを、順番にログアウトした。長い検証を書き込むための一つ。短い茶々を入れるための一つ。そして、無言で高評価を押すためだけの、一つ。

手際は、仕事と同じだった。痕跡を残さない。線をつながせない。同じ顔を、二度は使わない。

暗がりの机の上には、明日の「仕事」の封筒。表には国章と、機密等級の印が押してある。

男――夜鴉には、表で動けない理由があった。


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― 新着の感想 ―
 電車によく乗っている吊り輪を持たない人とかは意外と実演しているよね、揺れない人とかどっしりとしているのが外から見ても分かる。
今回も面白かった。 > 寝る前に、靴の中で足の指を、十回。以上です」 > 【地味!】 現役探索者は三割だし、現役探索者も遠征中以外は風呂出てから寝るまでに(探索用の)靴履かないだろ。 ・誰でもできる …
おっ 国家がクソパターンかな?
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