第16話 完封
咆哮が、岩窟を縦に揺らした。
観覧棟の大型モニターの中で、土煙が走る。六十万人が同時に見ている中継画面から、小柄な影が一瞬、消えた。
【ヒナちゃん!?】
【避けたか!? おい、映せ! 東区画の隘路!】
【無理だろ、五層主格クラスだぞ……!】
土煙が薄れる。少女は、立っていた。突進の軌道から、半歩だけ外側に。
『か、回避! 受験者・天羽ヒナ、回避しました! しかし相手は規格外、これを何度も続けられるとは思えません!』
実況の声が上ずる。解説席の俺は、手元の画面を拡大した。爪先は外。カカトは浮いていない。視線は、下がっていない。――うん。震えてはいるな。いい震え方だ。
「皆さん、騒ぐ前に、先に解説をさせてください。今からあの子がやるのは、講座の第九回でやったことです。『危険度の分解』」
【第九回って、ゴブリン相手に説明してた回だが!?】
【初心者向けの基礎で、あれとやるのか】
「危険度というのはね、一個の大きい数字じゃないんです。速さ、重さ、頑丈さ、気性、それと地形との相性。全部、別々の部品です。まとめて見ると『勝てない』という塊になる。でも、分解すれば――部品は、一個ずつ消せる」
俺は湯呑みを置いた。
「あの子はもう、分解を終えています。見ていてください。多分、地味です。びっくりするほど地味で――教科書に載ります」
◇
(部品、ひとつ目。速さ)
天羽ヒナは、下がりながら数えていた。
あの突進は速い。けれど、直線でしか速くない。岩窟の隘路は、曲がる。曲がり角を一つ挟むたび、あの巨体は壁を擦って減速する。――速さは、私が消さなくていい。地形が消してくれる。
(ふたつ目。重さ)
重いものは、止まれない。止まれないということは、止まる場所を、選べないということだ。
(みっつ目。癖)
突進の前、右の前肢に荷重が乗る。終わりに、必ず首が下がる。それから――あの甲殻は、この隘路の幅より、三センチだけ大きい。
夕方の河川敷の声が、もう一度よみがえる。『観察できてる限り、君の試験は続いてる』。
息を吐く。ヒナは剣を、鞘に戻した。
『じゅ、受験者、納刀!? この状況で武器を収めました!』
【何やってんだ!?】
【嘘だろ、剣は!?】
解説席の俺だけが、たぶん笑っていた。
「正解です。あれに剣は要りません。――武器で勝てない相手と、武器で戦わないこと。これも第九回でやりました」
◇
そこからの八分間を、後の攻略教本はこう記す。『対大型個体戦における、地形誘導の最初の完全な実例』と。
少女は逃げ続けた。ただし、ただの逃走ではない。曲がり角を二つ、突進を三度。誘って、外して、また下がる。突進のたびに巨体は壁を擦り、甲殻の継ぎ目から白い粉を散らせた。
管制室のモニターの前で、主任試験官・佐久間は気付いた。少女の逃走経路が、入場直後に彼女自身が記録していた地図の上を、一度もはみ出していないことに。
(……逃げているんじゃない。連れて行っているのか)
隘路の最奥。東区画の測量図に「立入注意」とだけ書かれた、亀裂の縁。
少女はその手前の段差を先に越えて、待った。巨体が、岩を噛んで踏み込んでくる。狭まった喉元のような一点――幅の足りない、あの三センチへ。
突進。半歩。
甲殻が、岩を噛んだ。楔のように食い込んで、巨体が初めて、完全に止まる。そして突進の終わりに必ず出る癖の通り、角ごと、首が下がった。
重さは、止まれない。行き場を失った質量が、風化した岩棚の縁に、まとめて落ちる。
乾いた音を立てて、床が抜けた。
巨体は一度だけ咆哮し、自分の重さに引かれて、亀裂の闇へ消えた。
――この日、第四管理迷宮で滑落したのは、後にも先にも、その一体だけだった。
◇
観覧棟は、静まり返っていた。
誰も、声の出し方を思い出せなかったのだ。派手な技は、一度もなかった。必殺の一撃も、なかった。少女は最後まで、剣すら抜き直さなかった。ただ歩き方と、曲がり角と、半歩だけで、五層主格が消えた。
モニターの中で、少女は崩れた床に背を向けなかった。剣の柄に手を置いたまま、亀裂を見下ろし続ける。管制室が底部センサーを確認し、『対象個体、戦闘不能』を宣言する――その放送が流れきるまで、姿勢は一度も緩まなかった。
それから少女は、その場に座り、灯りと、脈と、残りの薬を数え始めた。いつもの、講座の通りに。
「……勝ったあとの癖、直ったね」
俺の呟きは、マイクが拾っていたらしい。あとで切り抜きにされた。
一拍おいて――観覧棟が、爆発した。
歓声は床を踏み鳴らす音と混ざって、岩窟の試験場まで届いたという。コメント欄は、もう読める速度ではなかった。
【うおおおおおおお】
【完封! 完封だ!】
【無傷どころか、剣も抜き直してないんだが!?】
【地味の最終形態を見た】
【教科書に載るって、こういう意味かよ……!】
管制室では、佐久間が採点板に記入を終えて、隣の男に向き直っていた。
「特別試験監督。判定に、異議は」
飯泉誠司は、モニターを見たまま動かなかった。基礎は想定内を生き延びるための道具で、想定の外までは止められない――そのはずだった。だが、画面の中の少女は、想定外を部品に分解して、一個ずつ棚に並べてみせた。
「……ありません」
佐久間は頷き、中継のマイクへ向き直った。ひと月前と、同じ言葉が出た。
「文句なし。――合格」
◇
祭りのあとに、検証が来た。これが今のネットの順序である。
保全されていた間引き実施記録。「規定下限」の文字。特別試験監督の経歴と、来月の人事。点は今回も、すぐに線になった。協会の調査は「規定の範囲内」で終わり、処分は出なかった。証拠は、最後まで揃わなかったのだ。
ただ、世論というものは、裁判所より話が早い。
【処分なしでも、もう全員分かってるからな】
【玄武、エースの育成は失敗するのに、嫌がらせの段取りだけは世界最高水準なの何なんだ】
【で、その嫌がらせが「人類初の完封勝利」の舞台になったの、もう芸術だろ】
視察に来ていたダンジョン庁の調査官は、囲み取材に一言だけ残して帰った。「教育による未然防止の、これ以上ない実例を見ました。報告書は、長くなります」
俺は、と言えば。その夜の配信で試験の話題に触れたのは、一度だけだった。
「制度の穴はね、責めるより、塞ぐほうが早いんです。記録は全部残って、公開されています。穴の場所は、もう皆さんが知っている。――なら、塞がります。そういうものです」
【先生は今日も先生だった】
【こっちは煮えてるのに、この人だけ涼しいんだよなあ】
配信を終えて、俺はノートに一行だけ書き込んだ。
【天羽ヒナ・B級。勝ったあとの癖、修正済み。次の課題――背中を預ける側の経験】
◇
クラン玄武本部、最上階の会長執務室。
戸隠厳は、一人だった。卓上の端末には、協会から共有された試験の完全記録。再生するのは、もう何度目か分からない。
巻き戻す。半歩。巻き戻す。納刀。巻き戻す。曲がり角。
――観察と、言語化。
何年前だったか。あの男が一度だけ、会長室に企画書を持ってきたことがある。『基礎課程の体系化について』。下位探索者の死亡率を下げるための、観察記録の教材化。利益の出ない、地味な、紙の束。
「金にならん」
戸隠は、そう言って突き返した。確かに、そう言ったのだ。S級を育てる手間で、E級を救ってどうする、と。
画面の中で、十七歳の少女が半歩だけ動き、人類の誰も正面から倒せなかったものが、自分の重さで沈んでいく。
あれは、あの紙の束の――完成形だった。
再生が終わる。黒くなった画面に、五十五歳の男の顔が映り込んだ。
会見の五秒より、ずっと長い沈黙だった。誰も見ていない執務室で、戸隠厳の顔は、初めて曇った。
◇
数日後の夜。講座は、いつも通りに始まった。
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【B級探索者を輩出した初心者講座があるらしい】
【先生、今日は何の基礎ですか】
「今日はロープの結び方です。ね、地味でしょう。でも、これがまた死なな――」
言いかけた言葉は、コメント欄の異変に呑まれた。
金色の枠ではない。青い認証マーク。それも、嫌というほど見覚えのある名前が、画面の真ん中に鎮座していた。
【獅子王丸・公式】『親父、俺だ。弟子入りし直したい』
人類最硬の盾が、初心者講座の門を、正面から叩いた音だった。




