第15話 仕組まれた試験
通達は、会議の形すら取らなかった。
クラン玄武・運営本部、最上階のひとつ下の小会議室。育成統括の向かいに座っているのは、協会試験部に出向して三年になる男、飯泉誠司である。来月の人事で玄武へ戻ることが内定しており、戻った先には部長職の椅子が用意されている。――つまり、そういう男だった。
「天羽ヒナのB級昇格試験。特別試験監督は、君に決まった」
「……例の、講座の生徒の」
「世間が注目する試験だ。生半可な内容では、かえって協会の権威に関わる。頼むよ。――実戦的な試験を」
実戦的に。それ以上の言葉は、最後まで出なかった。出ないことこそが、この部屋の言語だった。
B級昇格の実地審査は、協会の管理ダンジョンで行われる。会場は第四管理迷宮・岩窟型。試験範囲は三層まで。区画内の魔物は試験前の「間引き」で調整され、C級上位までの個体に揃えられる――規定では、そうなっている。
そして規定には、こうもある。『間引きの実施範囲および間隔は、特別試験監督の裁量に委ねる』。
飯泉は手帳に一行だけ書いた。【三層東区画・間引き間隔、規定下限】。数字はすべて規定の内側にある。後日、誰に調べられても、答えは一つで済む。「実戦的な試験を心がけました」。
帰りの廊下で、彼は一度だけ足を止めた。あの講座は、彼も何本か観ている。観た上での結論だった。基礎を丁寧に教える、いい講座だ。だが――基礎とは、想定内を生き延びるための道具だ。想定の外から来るものまでは、止められない。
「気の毒だがね、お嬢さん」
それが、大人の作る「実戦」だった。
◇
澪ちゃんへの返信は、結局三日かけて書いた。といっても九割は資料への礼で、時間をかけたのは最後の一行だけだ。
『教えてくれてありがとう。ここから先は、大人の仕事です』
ヒナちゃんには、噂のことは話していない。試験前の生徒の頭に、雑音を入れるのはコーチの仕事ではない。対策も変えなかった。基礎のみ。あの子に足すべきものは、もう何もない。
その代わり、俺は二度、協会に足を運んだ。
一度目は、こちらから。提出した書類は三枚。試験区画の環境ログ・センサー記録・間引き実施記録の完全保全申請。理由欄には「試験後、学習教材として検証するため」と書いた。嘘ではない。窓口の職員に「推薦者の方でここまで出す人、初めて見ました」と言われた。
「推薦者にはね、これくらいしかできることがないんですよ」
二度目は、呼ばれたほうだ。協会広報いわく、「本試験は公式チャンネルでの生中継が決定しました。つきましては、ぜひ解説席に」。先月まで業界から要らないと言われていた中年を、今度は電波に乗せたいらしい。現金なものである。
少し考えて、受けた。条件は一つだけ付けた。「中継と記録は、編集せずに全部残して、全部公開してください」。
それと、これは俺の仕事ではないが――ダンジョン庁の安全統計課に、視察の案内が出たそうだ。なんでも「教育による未然防止」の実例として、講座受講生の昇格試験を直接観たいのだと。あの庁には、数字の変わり目を見逃さない人がいるらしい。
ノートには、二週間前に書いた二行が、そのまま残っている。
【天羽ヒナ・B級試験。対策、変更なし。基礎のみ】
【ただし――試験の「外」は、俺の仕事】
外堀は、埋められるだけ埋めた。あとは――まあ、いつも通りだ。米を炊いて、寝るとしよう。
◇
試験当日。協会第四管理迷宮の観覧棟は、開場前から人で膨れていた。
岩窟型の実地試験は、模擬戦と違って肉眼では見えない。観客が見るのは、区画内の百二十のセンサーが拾う映像を繋いだ大型モニターである。それでも人は集まった。集まった上で、公式中継の同時視聴者数は、開始前に【600,000】を超えた。
『それでは解説をご紹介します。受験者の推薦者でもあります、柊慎一さんです』
「解説の柊です。……ええと、初見の人がいたら、いつものやつを。今日の試験は、たぶん地味です。びっくりするほど地味だと思います。でも、それがいいんです」
【知ってる】
【公式の場でもいつものやつ言った】
【その「地味」でC級上位が沈んだんだよなあ】
【先生が解説席にいる安心感よ】
入場ゲートに、小柄な影が立つ。天羽ヒナ、十七歳。C級昇格から、まだひと月足らず。
『緊張の面持ちです』と実況が言った。たしかに顔は硬い。だが、と俺は手元の画面を拡大する。爪先は外に開き、肩は落ち、靴の中では――たぶん、足の指が床をつかんでいる。
「大丈夫そうですね。緊張はしてますが、緊張と恐怖は別物なので」
試験、開始。
一層、二層。ヒナちゃんの探索は、見事なくらい教科書通りだった。分岐ごとに立ち止まり、時刻と方角と目印を記録する。四十分に一度、座って灯りと脈と残り薬を数える。交戦は三度。いずれも観察から入り、最短の一手で終わらせ、深追いをしない。
【地図描いてる! 地図描いてるぞ!】
【講座の総集編かな?】
【こんな丁寧な受験者見たことないって、試験官が漏らしてるらしい】
解説席の俺は、正直なところ、あまり喋ることがなかった。「今の足、いいですね」「はい、ここで座ります。えらい」。飼い主の発表会か、とコメント欄に笑われた。否定はしない。
――異変は、三層東区画で起きた。
最初に気付いたのは、解析勢だった。
【なあ、今、奥の岩陰】
【でかくないか?】
【カメラ引いてくれ。……おい、でかいぞ】
モニターの隅。岩の隘路の向こうから、ゆっくりと押し出してくる影があった。岩窟種の大型個体。だが、輪郭が違う。甲殻の厚みが違う。何より、角が――三層の個体には、あんな角はない。
【公示リスト確認した。本試験の想定個体、C級上位まで】
【あれがC上位なわけないだろ!? 五層の主格クラスだぞ!?】
【B級でもパーティ推奨の個体が、なんで試験区画にいるんだよ!】
『じ、実況席にも情報が入りました。管制室の判定は……「自然遡上の範囲内、試験続行」。……続行です!』
観覧棟がどよめいた。管制室では、立会いの主任試験官・佐久間が特別試験監督に詰め寄っているのが、中継の端に映り込んでいた。音声はない。ないが、机に叩きつけられた書類が「間引き実施記録」であることくらいは、見れば分かる。
コメント欄は、もう滝だった。
【中止しろ!】
【十七歳に何をやらせる気だ!】
【先生! 先生、これおかしいですよね!?】
『か、解説の柊さん。これは、その……』
実況が、すがるようにこちらを見た。カメラも来た。六十万人が、たぶん同じものを待っていた。怒鳴る姿か、青ざめる顔か、中止を求めて立ち上がる推薦者の姿か。
俺は、モニターから目を離さずに言った。
「――大丈夫」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。
「大丈夫です。あの子には『想定外への対処』を、一番時間をかけて教えてあります。基礎の次に、じゃない。……基礎の仕上げとして、です」
【先生……】
【その言葉、信じていいんだな】
「それと、皆さん。この試験の記録は、一秒も消えずに残る手配がしてあります。誰の、どの裁量も、全部です。――だから今は、騒ぐより、見ていてあげてください。あの子がこれから何をやるか。多分、教科書に載りますから」
◇
通路の温度が、二度下がった気がした。
岩の隘路の向こう。闇より濃い影が、ゆっくりと姿勢を低くする。天羽ヒナの心臓が、一度、大きく跳ねた。
(……大きい)
知識が先に答えを出す。あれはC級上位ではない。勝てるかどうかの線で言えば――勝てない。正面からでは、十回やって、十回。
手が、震えた。四回落ちた頃と同じ震えだった。違うのは、震えの置き場所を、今の自分は知っていることだ。
ヒナは、一度だけ、深く息を吸った。
――脳裏に、夕方の河川敷が浮かぶ。試験前、最後の特訓の日。先生は缶コーヒーを二本買って、一本を渡しながら、世間話みたいに言ったのだ。
『ヒナちゃん。試験対策の最後に、一番大事な話をします。――想定外に出会ったら、まず下がること』
『下がる……逃げるんですか?』
『逃げるのとは、違う。下がりながら、観察する。それとね、ここからが本題。――勝つことと、生き残ることを、混ぜないこと。混ぜた人から死ぬんだ。先に決めるのは「死なない」のほう。「勝つ」は、観察が終わったあとに、余り物で考えればいい』
『余り物……』
『うん。大丈夫、君はもう知ってるはずだよ。観察できてる限り――君の試験は、続いてる』
息を、吐く。
震えは、消えなかった。消えなくていい。靴の中で、足の指が床をつかむ。爪先は外。カカトは浮かさない。視線は、下げない。
上位個体が、咆哮とともに突進してきた。
天羽ヒナは、逃げなかった。
半歩、下がる。観察しながら、また半歩。角の振り上げの前に、右の前肢へ荷重が乗ること。突進の終わりに、必ず首が下がること。隘路の幅が、あの甲殻には三センチだけ足りないこと――。
下がりながら、少女の目は、もう「余り物」を数え始めていた。
それは管制室の誰も、特別試験監督・飯泉も――見たことのない戦い方の、始まりだった。




