第14話 雪山の訂正魔
予告が出たのは、前日の夜だった。
配信ページの告知欄、たった一行。――『次回・第二十八回「雪山型ダンジョンの歩き方」』。
一時間後、匿名掲示板の探索者板に、スレッドが立った。
『【予告】シン講座、次回はついに雪山型』
【リクエスト箱で一番票が積まれてたやつだな】
【冬山どころか、夏でも人が死ぬ型だからな。需要しかない】
【なあ。雪山型って言ったらさ】
【言うな】
【単独で雪山型の深層を踏破した人類、記録上、史上一人だけなんだよな】
【だから言うなって】
【「夜明けの魔女」氷堂澪。シン先生の、二人目の教え子】
【で、講座の高評価欄には、明け方四時にだけ動く無言のアカウントがいる、と】
【m_0さん、見てるか。明日は、あんたの十八番だぞ】
◇
俺はといえば、その日も平和だった。
米を炊き、ノートをめくり、夜の配信の準備をする。健全な無職生活の日数は、二十を超えたあたりで数えるのをやめた。世界トレンドに載る無職があるか、と視聴者に怒られたからである。
机の上には、雪山の巻。六年前の日付の、あのノートだ。
夜。配信開始ボタンを押すと、視聴者数は開始一分で【400,000】を超えた。予告一行でこれである。
「こんばんは、シンです。初見の人がいたら、いつものやつを。ここは初心者向けの講座です。派手な技も、最強装備の話もしません。地味です。多分、びっくりするほど地味です」
【知ってる】
【今日ばかりは地味で済まない気がするんだが】
「第二十八回、『雪山型ダンジョンの歩き方』。……の前に。今日は最初に、断っておくことがあります」
俺は湯呑みを置いて、カメラに小さく頭を下げた。
「雪山型は、俺の専門外です」
【えっ】
【先生に専門外があるのか】
【二十年の定説を書き換えた人が、何を】
「俺自身の踏破記録は、雪山型だと三層まで。深層のことを、俺は自分の足では知りません。知らないことを知ってる顔で話すのは、この講座で一番やってはいけないことなので、先に言っておきます。――じゃあ今日は何を話すのか。観察の記録です」
ノートの表紙を、カメラに向けた。
「人類でただ一人、雪山型ダンジョンの深層を単独で踏破した魔導師がいます。六年前、俺はその人の訓練を、明け方の訓練場でずっと観察させてもらっていました。今日の中身は、その観察を言葉にしたノートです。本人の許可は……まあ、時効ということで」
【それって】
【みなまで言うな】
【「明け方の訓練場」って言ったぞ、おい】
【高評価欄を見ろ。今夜も、もういらっしゃる】
「では、本題。最初に、雪山型で人が死ぬ順番の話をします。雪山というと、滑落と凍死を思い浮かべるでしょう。死因の一番上は、違います。――『感覚の遮断』です」
雪は、視界を奪う。音を吸う。そして――足裏の情報を殺す。
「皆さんは普段、足の裏で地面を読んでいます。傾き、硬さ、振動。意識していなくても、です。雪はそれを布団みたいに包んで、全部消す。目と耳と足裏が同時に塞がれた人間は、魔物が出てくる前に、自分の恐怖で姿勢から崩れます。だから、雪山の基礎の一行目はこれです。――足裏の感覚を、残せ」
靴の中で、足の指で床をつかむ。この講座で何度目か分からない、いつもの基礎である。
「あれはね、雪の上でこそ要るんです。それともう一つ。今は七月ですが、雪山型の中は一年中吹雪です。夏の事故報告には『外が暑かったので、防寒を軽くした』というのが、笑えない数で並んでいます。季節は外のものです。中には、中の季節しかない」
【耳が痛い】
【先週の俺の話やめろ(雪山型直帰勢)】
「それと、業務連絡を一つ。ヒナちゃんのB級昇格試験、推薦書類を出してきました。試験は再来週です。本人は今、課題で手一杯のはずです。……まあ、雪山の回となると、課題そっちのけで観に来そうな気もしますが」
【もうB級!?】
【C級になってまだひと月経ってないだろ!?】
【先生の見立てに文句つけられる奴、もうこの世にいないんだよなあ】
「次。冷気の話をします。……で、ここなんですが」
俺は、ノートのあるページを指で叩いた。六年間、開くたびに目の止まる、余白の走り書きがある。【冷気の出どころ、聞きそびれた】。
「正直に言います。ここから先は、観察だけでは届かなかった場所です。深層の冷気が、どこから来るのか。外から見ていた俺には、仮説しかありません。間違っていたら、ごめんなさい。――仮説です。冷気は、たぶん上からではなく」
言いかけた、そのときだった。
コメント欄の奔流に、青い認証マークが、すっと割り込んだ。
【氷堂澪・公式】『補足。第四層より下の冷気は、天井からではなく、床の亀裂から湧きます。風を顔で読む癖のある探索者から死ぬ。先生の言う「足裏の感覚を残せ」は、雪山では最優先事項です』
コメント欄が、止まった。
五十万人の教室の、三秒の沈黙。それから――雪崩だった。
【!?!?】
【公式!? 認証マーク!?】
【氷堂澪きたああああああ】
【雪山の回に、雪山の本人が来た】
【第一声が「補足」って入り方があるか】
【m_0じゃなく公式で来たんだぞ。分かるか、この意味が】
俺はといえば、その一行を二度読んで、思わず笑ってしまった。
「……ああ、やっぱり下からか。六年間、ずっと聞きそびれてたんですよ、それ」
ノートの余白の走り書きに線を引いて、隣に答えを書き込む。六年越しの宿題が、いま一つ、片付いた。
「澪ちゃん、久しぶり。……このまま、補足してもらいながら進めていい?」
三秒の間があった。
【氷堂澪・公式】『どうぞ』
【「どうぞ」じゃないんだよ(泣)】
【二年ぶりの会話が「どうぞ」】
【いや、たぶんこれが、この師弟の正しい会話なんだ】
そこからの一時間を、なんと呼べばいいのか、俺は今でもよく分からない。
俺が、外から見えたことを話す。彼女が、内側の理屈を補足する。
ホワイトアウトの話。「彼女は吹雪の中で、詠唱を短くしていた――ように、俺には見えました」
【氷堂澪・公式】『訂正。短くしていません。区切っていました。低体温では一息分の魔力循環が三割落ちる。詠唱を三つに区切れば、落ちた分を呼吸で取り返せます』
【訂正きた】
【先生を訂正できる人類がいた】
【訂正魔】
【訂正の形をした、全力の授業なんだよなあ】
雪面の魔力残響の話。俺が読み方を説明すると、即座に一行。
【氷堂澪・公式】『補足。残響は新雪の上で三倍残ります。追跡に使えますが、追跡にも使われます。消すなら、足跡より先に残響から。逆では意味がありません』
【ひ、氷堂澪さんと同じ教室で授業を受けてる……! メモが、メモが追いつきません……!】
【氷堂澪・公式】『天羽さん。手を止めて、聞くほうが残ります。録画は消えません』
【後輩への指導まで始まった】
【この教室、教授陣が豪華すぎる】
「――いやあ、それにしても」
ひとしきり進んだところで、俺は湯呑みを取って、つい、こぼしてしまった。
「澪ちゃんは、本当に勉強熱心だねえ。……みんな、知ってます? この子のノートは凄かったんだよ。俺が観察を書いて渡すでしょう。次の朝には、余白に三倍の検証が書き足されて返ってくるんです。今夜のこれも、なんだか、あの頃のノートの続きをやってるみたいで。――先生は、ちょっと嬉しいです」
コメント欄の流れが、変わった。
【おい】
【先生、自分が今なに言ったか分かってるのか】
【なあ、俺たちが今見てるのって、「ノートの往復」の生中継なんだよな】
【二年間かけられなかった電話の代わりが、「補足」なんだぞ】
【明け方四時の高評価、アーカイブ全部ぶんの「ありがとう」が、今夜やっと言葉になってるんだぞ】
【補足の形しか、選べなかったんだろ。あの人、人と話すの、それしか知らないんだ】
【泣くなよ】
【無理に決まってるだろ、こんなの】
認証マークは、しばらく流れてこなかった。
やがて、一行。
【氷堂澪・公式】『……補足は、以上です』
一拍おいて、もう一行。
【氷堂澪・公式】『六年前のご質問に、答えるのが遅くなりました。お詫びします』
「いや」
俺は首を振った。画面の向こうの、今どこにいるのかも知らない教え子に向かって。
「六年かけて、授業がひとつ完成しただけだよ。――ありがとう。今夜のは、いいノートだった」
その夜の同時視聴者数は、乱入回に次ぐ記録を残した。切り抜きには『雪山の訂正魔』という題が付き、再生数の伸びには、もう誰も驚かなかった。
切り抜きの一番上に固定されたコメントには、こうある。
【世界一不器用な「ただいま」と、世界一やわらかい「おかえり」を見た】
◇
配信終了のボタンが押されるのを見届けてから、氷堂澪は端末を絨毯の上に置き、灯りのない部屋の天井を仰いだ。
心臓は、まだうるさい。
端末のメモ帳には、送信できなかった下書きが四十一件、残っている。『お久しぶりです』で始まるもの。『あの日のことですが』で始まるもの。どれも二行目で止まり、どれも消せなかった。二年間、ずっとそうだった。
今夜、初めて分かったことがある。
挨拶は、書けない。感謝も、謝罪も、まだ書けない。けれど――補足なら、書ける。あの人の言葉の隣に、自分の知っていることを並べて置くだけなら。それは十六歳の、夜明けの訓練場から、ずっとやってきたことだから。
(……ノートの往復は、二年ぶりでも、できた)
澪は起き上がり、机に向かった。一番上の抽斗には、手縫いの袋。それを一度だけ見てから、彼女は報告書を書く速度で、長いDMを打ち始めた。
宛先、シン先生。今夜の補足の補遺。雪面残響の消去手順の図解。低体温時の循環低下の実測表。第六層の亀裂分布の手描き図。文体は協会への提出書類と同じ――事務的で、正確で、私情の一切を挟まない、完璧な資料だった。
書き終えて、読み返して、最後に一行だけ、書き足した。
それは資料の続きのような顔をして、資料ではなかった。古巣の伝手から三日前に拾った、確証のない噂。確証はない。ないが――あの教室には今、自分の後輩がいる。
澪は十秒迷って、送信を押した。
◇
後片付けを終えた頃、端末が一度だけ震えた。
DM。差出人の名前を見て、俺は少しだけ姿勢を正した。
長文だった。今夜の補足の補遺。図解。実測表。手描きの分布図。報告書そのものの文体。一読して、俺は声を出して笑ってしまった。なにせ、余白の取り方まで几帳面なのだ。六年前と、何ひとつ変わっていない。
「……相変わらず、いいノートだ」
礼の返信を打とうとして――スクロールする指が、末尾の一行で止まった。
そこだけ、資料の顔をしていなかった。
『ヒナさんのB級試験、玄武が動くという噂があります。気をつけて』
俺は端末を置いて、しばらくその一行を眺めた。
二十年、人を観察して生きてきた。文面でも、分かることはある。これは、確証のない話をわざわざ書く人間の文字列じゃない。――確証がないのに、書かずにいられなかった人間の文字列だ。
ノートの新しいページを開いて、俺は二行だけ、書き込んだ。
【天羽ヒナ・B級試験。対策、変更なし。基礎のみ】
【ただし――試験の「外」は、俺の仕事】




