(9)
どこかで抱いていた、タイグと会っていたときのように、時間経過で元いた世界へ帰れるんじゃないかという期待は、すでにほとんど持っていない。
タイグと会うときは決まって死にたい気持ちが高まった夜だった。
けれども今いる世界に来たきっかけは、ほぼ確実に私の自殺行為だろうと思っている。
これまでとは違う「入り方」をしたから、帰ることができないのかもしれない。
ただなんとなく、この異世界はタイグのいた世界と同じではないかという思いはどこかあった。
しかしこれはまったく根拠がない。私はタイグが暮らしていた村を見たことがないから、彼がいた世界がどのような文明水準であったかも知らないのだ。
それから、これが異世界転移なのか異世界転生なのかも判断がつきかねている。
元の世界の私の扱いは、少し気になる。私は自殺に成功していて、元の世界には私の肉体――死体はあるのか。あるなら転生だろうし、元の世界で私というものが完全に消失しているなら、転移ということになるのだろうか。
……まあ、このあたりのことは気にしなくてもいいことなのだが。
単純作業をしながらくだらないことを考えているうちに、日が暮れ始めて、娼館の営業時間が迫っていた。
エントランスの立派な模様が描かれた花瓶――たぶん私が想像できないほどお高い――に花を活ける。
ちょいちょいと指で弄って花の向きを微調整したあと、振り返れば、すぐ近くに大男が立っていた。
内心では飛び上がらんほどにおどろいたが、私の顔はこういうときでもぴくりとも動かない。
すぐに愛想よく見える……かもしれない、私としては最大限愛想よく見える微笑を浮かべて、「お客様」と呼びかける。
「申し訳ございません。まだ営業時間では――ッ!?」
大男が急に私の手首をつかんで引っ張り、抱き着いて来た。
違う。抱き着いて来たのではない。大男の目的が、単純な痴漢行為ではないことに、私もすぐ気づいた。
大男は、私を引っ張ったのとは逆の手に、小ぶりなナイフを隠し持っていたのだ。
そして娼館の外の通りから、複数人の足音と、怒号にも似た声が近づいて来ている。
娼館の玄関の、大きな両開きの扉が乱暴に開かれる。
「いたぞっ!」
そろいの帽子に、紺色の軍服のようなかっちりとした服を身にまとった男たちが、開かれた扉の外にずらりと並んでいる。
その手には警棒やら、さすまたに似た長い棒が握られていて、よくよく見ると腰には剣らしきものを佩いている。
彼らの所属がどこであるかなんてまでは、たぶんこの世界の幼子よりも無知な私にはわからなかった。
ただひとつ確かであるのは、私にナイフを突きつけて、人質に取っている大男が、彼らに追われているのだということくらいだ。
「動くなっ、動くなっ! この女がどうなってもいいのか!?」
大男が持つナイフの、銀の刃の切っ先が不安定に揺れる。
見たところ、素手でもひとを殴り殺せそうな見た目をしているのに、案外と気が弱いのか、あるいは薬でもやっているのか。
紺色の制服を着ている男たちは、私が人質に取られているせいで、当たり前ではあるがむやみに動けないようだ。
娼館の奥からお姉さん方の視線や、息を呑む音が聞こえた気がした。
「お前たち、こんなところにいるんじゃないよ! 奥に引っ込みな!」
女将さんがお姉さん方を叱る声も聞こえた。
女将さんの声を聞いて私が思ったのは、このままでは娼館の今日の売り上げに影響が出てしまう、ということだった。
女将さんは私を拾ってくれた恩人だ。その恩人に迷惑をかけてしまう。私がここにいたせいで――。
そう思うと、胃の腑の底からぞっとして、吐き気すら覚えた。
「――なっ!?」
大男がナイフを持っている右手首をつかむ。私の視界で、火の光を受けて輝く銀の刃の切っ先が、不安定に揺らめく。
「やめろっ! 離せ! やめろ!!!」
大男の手首を私の首へと引き寄せるような仕草をすれば、大男はおどろいたようにナイフの切っ先を私から離した。
紺色の制服を着た男たちから、どよめきのようなものが上がる。
「やめろ! なんだこの女っ! 頭がおかしい!」
そんな言葉は言われ慣れていたので、今さらおどろいたりはしない。
大男と私のあいだに、ナイフの切っ先を遠ざける、近づけるといった奇妙な攻防が発生した。
奇妙さに拍車をかけたのは、ナイフの先を遠ざけるのは人質を取っている大男で、近づけるのが人質である私であるという点だった。
「やめろっ!!!」
大男はそう叫ぶや、ついに己の手首に巻きつく私の手を振り払った。
だが、その動きで勢いがつきすぎたのか、ナイフの柄が大男の手のひらかすっぽ抜け、中空を飛ぶ。
ナイフは娼館の壁に当たって、床に落ちた。
そしてナイフが宙を舞った時点で、紺色の制服の群れの中から、ひとつの大きな影が飛び出してきたのを、私は見た。
影は大男に取りついて、鮮やかな手つきで大男の腕をひねり上げるや、今度はうなじを押すようにして、顔から床に引き倒した。
大男から弾かれたように、私も床に尻もちをつく形となったが、大した痛みはない。
「確保!」
大男を捕まえた影をよくよく見ると、それは紺色の制服を身に着けた黒髪の青年だった。
青年が上げた声に突き動かされるように、同じ制服を着た男たちが、わらわらと娼館に踏み入って、大男を取り囲む。
「テルノ! アンタまた無茶してっ!」
制服を着た男たちの群れをかき分けて、目を吊り上げた女将さんがやってくる。
今回だって、別に無茶をしたくてしたわけではないのだが、そのような申し開きをする気力は、今の私にはなかった。
男たちが縄で大男をぐるぐる巻きに拘束すると、大男に取りついていた黒髪の青年はようやく身を離し、顔を上げた。
その瞳は、黄色でも黄土色でもなく――美しい金だった。
「……お姉さん……?」
完全に声変わりをした、低い男声でそう呼びかけられても、私には嫌というほどわかった。
――タイグ。
呆然と見つめ合う私とタイグに、どこからか「なんだ、知り合いかあ?」とからかうような声がかかったが、私たちはまったくそれどころではなかった。




